商人と伯爵と少女の交渉
「わた、私は商品を探しに来たんじゃない、この子を探しに来たんだ。、この子は、ジーナは……◆◆の伯爵である私の領民です。領土の外に勝手に連れていかれては困る。」
男が露店の売り台から取った宝石を見せながら迫ってくるので、伯爵は思わず後ずさりしながらも、ジーナの肩に軽く手を置き、彼女を自分の側に引き寄せ、男の顔を見て宣言した。
対する男は長い睫毛に縁取られた黒い瞳を瞬き、細い眉をあげて驚いた表情をする。かと思えば、薄い唇は弧を描き、柔らかで胡散臭い微笑になった。
「なんと…。これはこれは、そうとは存じ上げず、大変、失礼いたしました。…私はこの街で彼女を商人から買いましたもので、彼が話した通りに、行くあてもない孤児だと思っておりましたので」
男を訝し気に見ながら、伯爵は、ジーナの親から彼女を買ったのはこの男か?と、ムハイロに小声で問いかけた。ムハイロは首を振る。彼が見た商人はもっと恰幅があり、太鼓腹だった。一応嘘は言っていないのかと、伯爵は商人を少し信用し、彼の話に耳を傾ける気になった。
商人、イサークは微笑みの表情を崩さず、とめどなくすらすらと話を続ける。
「念のために言っておきますが、私は彼女をスルタンの国で奴隷として売ろうと思い買ったわけではありません。私が彼女に出会ったのは僅か1日前のことですが、誓って手荒な真似はしていませんし、これからもするつもりはありません。私は父が南の生まれでして、見た目も少しあなた方とは異なるでしょう?それがこちらでは受ける時もあれば、信用されないこともあるのですよ。彼女はルーシで見目もいいし、計算もできるというので助手にうってつけかと思いましてね。髪も短いので今は男装させていますが、美しく育てば男性客の人気も得られましょう。」
イサークがあまりにべらべらと矢継ぎ早に話すので、伯爵は頭の回転が追い付かなかった。伯爵を混乱させるために、わざと早口で出鱈目を話しているのではないかとも思ったが、落ち着いて彼が言ったことを思い出すと、さほど変なことは言っていない。
イサークの言う通り、ジーナには傷もなく、むしろ最後にムハイロが見た時よりも小綺麗な格好をしていた。イサークが話し終わった後、ジーナも無表情で頷き、危害は加えられていないと伯爵に暗に伝えた。
ジーナの無事にひとまず安心した伯爵は息をついたが、見慣れぬ格好の胡散臭い男への警戒心は消えない。それに、彼はまだ、伯爵の領地へジーナを返すとは言っていない。
(自分が正当にジーナを買ったことをわざわざ強調して、もしかしてこの男は、ジーナを「買い戻せ」と言っているのだろうか?)
伯爵が男の腹の内を探りながらも、その真意を問う前に、男がぼそりと呟いた。
「育ちようによっては妻にしてもいいと思いましたがね。」
その言葉に思わず伯爵は目を剥き、ジーナを自分の背に隠した。十五の、しかも少年に見えるような身体の少女を妻にしたいとは、この商人は余程の危険な性癖な持ち主だと、伯爵は自分のことは棚に上げて恐れをなし、声を張り上げて彼を非難した。
「なんだって!!こんな、まだ十五の少女を娶ろうと思うなど…、」
一方のイサークは、特に意図もないぼやきに過剰に反応する伯爵の態度に、眉を上げて少し驚く。
「ああ、私が言ったのは、成長してからの話ですよ。ですが十五というのも、年齢的には珍しくはないでしょう?それとも、この国では違うのでしょうか。」
狼狽する伯爵を面白がりながら、商人はさも当然のように言った。
実際、彼の言うことも間違いではない。
「そういう噂もたまに聞くけれど…しかし…花嫁を「買う」など…奴隷と同じようなものではないか…。そのような不埒な方にジーナを連れて行かせるわけには行かない…!」
しかし、伯爵の価値観としては到底受け入れられないことであった。帝都で出会った父母の恋愛の結果生まれた伯爵は、結婚というものは、ふたりの対等な人間の、双方向の無償の愛をもって成立するものだと、少々世間離れした夢を見ていた。
一方、両親に貧しく、それだけでなく乱暴で無知な男に売り飛ばされる可能性もあったジーナは、特に悪い話だとは思わなかった。
「衣食住を保証してくださるなら、私は構いませんが。」
「ジーナっ!もっと、君自身の可能性を、大事にしてくれ…!!!」
平然と乗り気な言葉を言うジーナの肩を掴み、伯爵は真面目に説教した。伯爵にしてはめずらしく圧力を感じる声色で、怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえる。
(怒ったり悲しむ話だろうか。伯爵様は不思議な倫理観をお持ちだ)
ジーナはぼんやり、伯爵の硝子玉のような薄青い目を見つめて考える。そして顔を横に向け、隣で笑っている、伯爵を掌の上で転がす商人の方を見る。
ジーナは、イサークの冗談に気がついていた。
「はっは…、いずれにしても、今この子供を妻にする気はありませんよ。もう妻は二人いますし、優秀な助手として育てた方が使えますから」
イサークは咳払いのような笑い声を上げると、伯爵を安心させようと言葉をかける。しかし、伯爵はますます動揺して声を上げる。伯爵だけでなく、そばの執事や兵士も、彼らの神には許されない行いに目を見張っていた。
「妻が二人…!?」
商人は微笑みを浮かべたまま、淡々と事情を説明する。
「アッラーの法の下のことですので。私、元々は南の半島の生まれですが、スルタンの帝国で育ちましてね。今は行き来して商売をしています。あちらの皇帝から以前礼の手紙をいただいたこともあるのですよ。」
ついでにと、イサークは伯爵に美しい装飾の入った紙を見せるが、異教徒の文字は、伯爵には線が螺旋を巻いている装飾にしか見えず、彼が法螺を吹いているのか、本物なのか判断できない。ムハイロとジーナや兵士、執事も、興味を持って手紙を覗き込んだが、皆区別はつかなかった。
「ああ、あちらではそうなのか…。」
伯爵は妻の話の方には納得した。本に書かれていたことでも、実際に聞くと信じがたいものである。
「伯爵様はこの子が大事なようですが、私の元で働けば、優秀な商人になりますよ。領地に縛り付けるより、良い人生が歩めるのでは?」
男は黒い瞳を細めて笑いながら、妻の話よりも、伯爵を揺さぶる言葉を口にする。かつて盲目に信じていた男爵よりも胡散臭い笑みを張り付けた男の顔を見ながら、伯爵の頭の中で、無数の思考が駆け巡る。
(この商人のことは正直信用できない…しかし、彼について行った方がジーナのためかもしれない…このまま彼女を連れ帰って、私は彼女の人生を城の使用人や執事がわりとして終わらせるのだろうか)
伯爵は真剣に悩みこんでしまった。商人が伯爵に突きつけた真実は、ジーナを側に置いている間も、伯爵が薄々感じていた可能性だ。
伯爵はジーナの方を見るのが怖かった。しかし、彼女は伯爵の領民であるだけでなく友人なのだから、彼女の意思を問わねばなるまいと、勇気を持ってジーナの凪いだ目を見て尋ねる。
「ジーナ、ど、どうしたい?君が彼についていきたいのなら…私は…引き返そう……。」
初めからどもっていた伯爵の声はどんどん小さくなっていき、最後は至近距離にいるジーナがなんとか聞き取れるぐらいの小ささだった。対して、ジーナは淀みのない声で尋ねる。相変わらず感情の分からない声だった。
「伯爵様は、私をまた雇ってはくださらないのでしょうか。」
その言葉に希望を持った伯爵は、目を潤ませて答える。
「勿論、君が望むのなら…。」
「お城に住まわせていただけるのでしょうか。無論、使用人の部屋で、という意味です。家にいるとまたこのように伯爵様にご迷惑をかける可能性がありますので。」
ジーナはそもそも伯爵が追いかけてくるとは思っていなかったのだが、この奇妙な領主は自分がまた売られたら追ってくるだろうという想定を元に、城に住んだ方がいいと思って希望を口にする。
「ああ、もう家に帰れなどと言わない!」
伯爵はぶんぶんと首を振って頷く。最早領主としての威厳の欠片もない伯爵を、兵士たちは憐れむような目で見つめる。そもそも伯爵が威厳を持っていたことは一度もなく、彼らが伯爵を一番恐れていたのは幽霊伯爵の噂だけを聞いていた、城の内情を知らない時である。
「また執務のお手伝いをさせていただけるのですか。」
「ああ、君がいないと回らないよ!」
少女がいないと回らないらしい伯爵の領地経営に兵士たちは不安を覚えたが、誰も口には出さなかった。執事は眉間の皺をつまんで、否定しようのない事実に唸っている。そして、周りの群衆にこの一連の会話が聞こえていないことを祈った。
「もっと搾り取ったらどうだ?」
無意識にいい労働条件を引き出すジーナに関心していた商人は、伯爵にも聞こえる声の大きさで彼女に耳打ちする。ジーナは伯爵から搾りとる気はなかったので、否定の言葉を口にする。何故なら伯爵の悪しき行いは雇われ人かつ領民であるジーナ、そして弟と妹に跳ね返るからだ。
「私は伯爵様から搾取する気などありません。出すぎたことを言いました、」
「たしかに、商人の下で働いた方が君はいいかもしれない…海も見られるし…でも、私は君という友人に側にいて欲しい…!そ、そうだ、君が十分知識をつけたら、帝都で学ぶ費用も出そう!!君は物を覚えるのが早いし、適切な教育を受けるべきだと思っていたんだ!!!帝都に行けば海も見られる……黒い海の方が美しいとも聞くけれど……」
ジーナの謝罪を最後まで聞かず、伯爵はまくしたて、特に彼女が望んでいない条件をどんどん口にする。
「伯爵様、私はただの貧しく無学な平民です。そのような人間にお金をかけてどうするのですか。」
ジーナは、素直に疑問を口に出す。全く物好きな貴族だと、呆れていることも僅かな表情の変化から隣のムハイロと執事は読み取った。
「私は間違っていないと思いますよ。」
商人が口を挟み、その通りだと伯爵が頷く。ジーナを止めるのに必死な伯爵は誰と交渉していたのかも忘れていた。ジーナは伯爵の青い顔を見て、静かに言った。
「前のように働かせていただけるなら、それで十分です。私の我儘を寛大にも聞いていただき得た職なのですから。」
「ジーナ…!」
伯爵はジーナの健気さに感動し、涙が彼の頰を伝う。伯爵以外の者は、この少女は太い神経を持っているとやりとりを聞いて思っていた。
「話はまとまりましたね。本当に、惜しい人材だ。しかしこれも神の定めた運命、私は諦めましょう。さて皆さん、お腹が空いているのではありませんか?今夜の宿はもうお決まりで?」
ニコニコと笑顔を崩さないイサークは、両手を叩いて一同の注意を集めて、提案をする。確かに伯爵一行は宿もなく、伯爵の腹が空腹の音を立てた。