ジーナの行方
太陽が地平線から頭をのぞかせた頃、伯爵一行は川辺を出発した。ムハイロから聞いた、ジーナと商人が消えたという西の方角へ、伯爵たちはふたたび馬を走らせる。
しかし、いくら西へ西へと進んでも、ジーナたちの痕跡は、全く見つからなかった。焚火の跡も、馬の蹄のあともない。
「やはり、方角だけを頼りに探し出すのは無謀です。」
「野宿を重ねたり見知らぬ街に泊まるのも、イヴァン様の身を危険に晒すことになります。一度、城へ戻りましょう。」
日が傾いてきた時、執事は伯爵の説得を試みた。
「クルィーヴの言うことは分かる。だが…。私は…、このまま捜索を続けたい。ムハイロが言う通り、時は一刻を争うと思う。」
しかし、伯爵は譲らなかった。平常の伯爵のように、おどけることもなく、執事の青い目を見て話す。そして、手帳にペンを走らせると、大陸の地図を書き、河や半島を指差しながら、彼の考えを話した。
「ジーナを買った男のいで立ちが異国風…おそらくは異教徒で、西の方角に向かったというのが気になるんだ。彼が南の帝国から来た商人なら、西にある港町から船に乗って、大河を下り、海を渡るつもりなのかもしれない。」
執事は黙って、地図と伯爵の顔を交互に見ながら、主の言い分に耳を傾ける。後ろで兵士たちが、話が壮大になってきたな、と小声でつぶやく。
「海を渡る?」
その時、ムハイロが、伯爵に聞き返すように言った。青い目から、たちまち涙がぼろぼろと溢れてきた。少年は嗚咽を上げて零す。
「スルタンの国まで連れていかれたら、もう見つけられないよ…。」
少年の思わぬ反応に驚いた伯爵は、視線を彷徨わせておろおろと落ち着かない様子を見せた後、地図の上、村からまっすぐ西、大河のそばの位置に丸い印をつけ、少年を元気づけるように言った。
「む、村に近い港町はここ。どんなに速い馬でも3日はかかるし、馬車だからもっと遅いだろう。今、私達が馬を走らせ続ければ、間に合うはず…。」
そして、伯爵は執事に向き直ると、あらためて言った。
「だから、城に戻る暇はない。」
「・・・・・。」
執事は眉間に皺を寄せ、皺が刻まれた顔に厳しい表情を浮かべ、伯爵の目をまっすぐ見つめる。
「お願いします、ジーナを助けないと」
ムハイロも、執事に縋るように懇願する。しかし、執事は少年に少し視線を向けるとすぐ、また主の方へ向き直った。主人と従者は無言のまま向かい合い、時が過ぎていく。かつてなく緊張した主従の空気の中、兵士たちは、心配そうに二人の様子を見ることしか出来なかった。
「…………ハァ…」
しばらくして、執事が溜息をついた。伯爵と兵士たちは、びくりと肩を震わせた。執事は表情を緩ませ、目の前の伯爵を、青い目で、感慨深げに見つめる。
(この、妻も子も居ない、老いた執事の何よりも大切な存在は、孫のように育て、見守ってきた主人、イヴァン様だ。そして、一番の悩みの種も、イヴァン様だった。)
イヴァンは、祖父とは似つかぬ優しく柔和で思いやりのある性格であるが、裏を返せば気弱で、傷つきやすく、彼の祖父のような、激しい性格の人間に逆らえない子供だった。クルィーヴはイヴァンの心を守りたい一心で、その幼少の頃から、イヴァンに努めて優しく接し、怒鳴りつけるようなことは殆どしなかった。
しかし、その甘さ故に、他に致し方ない事情もあったとはいえ、イヴァンが「幽霊伯爵」と呼ばれるような青年になってしまったのではないかと、この十年、すこし後悔をしていた。
(イヴァン様は、貴族、領主として、優しすぎ、繊細すぎる。)
イヴァンは、名実ともに伯爵の地位を得てからも、他の貴族だけでなく、領民や使用人すら時に恐れ、自分の主張を心のうちに終い込み、果てはすぐに寝込んでしまった。
そして、幼少期に数度叱られたからか、70を過ぎた老人にも関わらず、イヴァンと同じくらいの背たけで、ひょっとしたら彼よりも筋力があり、歴戦のコザークである執事を恐れ、目下の彼に物怖じすることもしばしばあった。
(しかし、最近は……。ジーナと出会った頃からであろうか?)
いつの頃からかイヴァンは、伯爵は、時々しり込みしたりどもったりするとはいえ、恐怖に負けず、物をはっきりと言うようになってきた。
そして今この時、戦士の面影が色濃い表情で、自分に厳しい表情を向ける執事に向かって、主張を曲げなかったのである。それも、社交が怖いだの、自分を捨てた愛人が諦められないだのという理由ではなく、自分を助けてくれた元小姓を助けるため、という理由である。
(嗚呼、そうだ、イヴァン様はただの臆病者ではないのだ)
主人の成長に思わず、感動の涙がこぼれそうな執事は、天を仰いだ。一方の伯爵は、執事が剣を抜いて実力行使で止めにかかるのではないかと、びくびくしながら、家臣の挙動を見守っている。
数秒後、執事は視線を正面の伯爵に戻し、了解の意を伝えた。
「…わかりました。」
伯爵や、ムハイロ達は、ほっと溜息をつく。
伯爵はすぐに、執事や兵士たちの方を見渡し、片手を挙げ、改めて命令する。
「では、急いで港へ向かおう!」
そして、ムハイロを連れて馬に飛び乗り、馬の腹を蹴った。
「「はい!!」」
兵士たちも伯爵に続き、執事も、愛馬に乗る。
(何としてでも見つけるぞ、ジーナ)
執事は、主に負けず劣らず固い決意をして、傾く夕日の下、黄金の草原の中を駆けていった。