イーゴリの夢の人
「こんにちは、イーゴリ。」
「こんにちは、セルギーさん。」
朝、イーゴリがジーナを連れて道を歩いていると、老人が帽子を取って挨拶をしてきた。彼はイーゴリが言葉を交わす、数少ない村人の一人である。
イーゴリの一家は村のはずれに住んでいて、村人との交流はほとんどない。しかし、幼い頃から賦役を務め、手が空いた時は他の村人の仕事も手伝い、また使い走りとして生活に必要なものを買いに来るイーゴリは、一家の中で一番、村人に顔を知られており、働き者として一目置かれていた。とはいえ、互いに挨拶を交わす程度で、イーゴリには、道端で座り込んで話すような仲の隣人は居なかった。
それでも、幼少の頃から顔見知りの老農夫から毎朝笑顔で挨拶されると、イーゴリの心も少し軽くなるのだった。
「こんにちは、イーゴリ」
セルギーとすれ違ってから、しばらくあとのこと。物好きな村娘たちが、遠くから何人も集まって、イーゴリに声をかけてきた。イーゴリは彼女たちの甲高い声が苦手だったので、小声で挨拶を返した後、黙って通り過ぎる。イーゴリにしてみれば無愛想なその仕草は、むしろ彼女たちを喜ばせた。
日々を労働に費やし、殺風景な田舎に退屈している娘たちからすれば、泥まみれの靴を履き、手に豆がいっぱいのイーゴリも、手の届かない貴族の青年より魅力的な若者だ。彼女たちは、イーゴリを見かける度に声をかけていた。そして、いつも彼の後ろを歩いている小さな子供にも、よく微笑みかける。
「弟も可愛いよね」
娘たちの呟きを聞いて、イーゴリはため息をついた。彼のお古を着させられているジーナは、中性的な容姿も相俟って、よく知らない村人からは少年だと思われているのだ。しかし、小さい女の子と認知されるよりは、危険な輩に会う可能性も低いと思い、また、いちいち理由を話すのも面倒なので、イーゴリは訂正しなかった。
村娘たちが苦手なイーゴリの目にも、魅力的に映る女性は居た。彼女は城のパン焼き窯で働く娘で、イーゴリが城にパンを買いに行く時に知り合った。二人は恋仲でもなく、さらに言えば話したことすらなかった。
彼女は生まれつき話すことができないのだ。
東の大河から連れてこられたその娘は、北方や東方の異民族らしく、やや平たく彫りの浅い顔をしている。彼女の目は、晴れた日の湖面のように碧かった。そして、イーゴリは彼女の黒髪より綺麗な髪を見たことがなかった。
直接声が聞けず、文字が満足に書けないイーゴリと彼女では筆談もできなかったが、控えめながら表情豊かで、真面目にパンを捏ねたり窯に入れたりする彼女の姿を見るのが、イーゴリは好きだった。
今日もイーゴリは、彼女にパンをもらいに丘を登って城へ行く。彼女に会う時は、兄の足取りが少しだけ軽いことに、イーゴリの後ろを歩く妹は気がついていた。
「こんにちは」
堅い声で一言挨拶をし、不器用に笑うイーゴリを見て、彼女は碧い目を輝かせ、仄かに笑った。そして、土に汚れたイーゴリの姿を見て、1日の苦難を終えて来たと察した彼女は、調理場からこっそりはちみつ酒を持ってきてくれた。
イーゴリは自分も微笑んで感謝を伝えようとしたが、いつも無表情な彼の口角は、咄嗟にうまく上がらない。そんな彼を見て、彼女はまた笑う。
冬が長いこの土地で、イーゴリはいつも、彼女だけ春のように暖かく感じる。彼女が笑うたび、イーゴリの冷えた胸の奥に、少し明かりが灯るのだ。




