伯爵の子守唄
「いたた……え、…なんだって?」
尻もちをついていた伯爵は耳を疑い、思わず少年に聞き返した。
伯爵に飛びついた少年を引き剥がそうとしていた執事も、少年の背中から手を離して、黙って彼を見つめている。
部外者の兵士は、困惑した表情で固まっていた。
「父さんと母さんが!!、ジーナを商人に売っちゃったんだ!!そいつは今朝うちに来て、俺は追いかけようと思ったんだけど馬車で追いつけなくて…早くしないと外国に連れて行かれちゃうよ…!」
涙をぼろぼろと流しながら、貴族に掴みかかって大声をあげる少年を、伯爵も執事も咎めなかった。
それより、彼の話した内容に、伯爵は衝撃を受けていた。
親が子を売る、貴族の伯爵には全く理解できないことだ。
彼は何か勘違いしているのではないか、伯爵は疑問をそのまま声に出す。
「そ、そんな、馬鹿な…?なんだってそんなことを…、」
「いいから急いで!!!あっちの方に馬車が走っていったんだ!!!」
少年は片手で伯爵の襟を掴み、揺さぶりながら命令した。もう片方の手は、西の方角を指差している。伯爵はゆらゆら揺れる視界の中、少年の顔を見る。少年は怒っているようで、今にも泣きだしそうでもあり、嘘を話しているようには見えなかった。
伯爵たちは小さな少年に急かされるまま、馬に乗り、商人とジーナが向かったであろう、村から西に延びる道を駆けていった。
ジーナの弟だと言う少年は、伯爵たちにムハイロと名を名乗った。
草原を馬で駆けながら、背中の後ろにムハイロを乗せた伯爵は、彼に再度尋ねる。
「本当に、君のご両親が、お姉さんを売ったのかい?」
「うん、代わりに馬や鶏をもらってるのを見たんだ。最近、家畜がみんな死んじゃったから。」
伯爵は息を詰まらせる。ジーナの家がそれ程窮状にあったとは、知らなかった。
「でも、実の娘を家畜のために売るなんて…」
伯爵はそれでも、貧窮のなかにあるとはいえ、娘を売る親がいることが信じられなかった。
「おれも聞いたんだ、ジーナを人買いに売るなんて信じられない、なんでって、そしたら…。」
「…そしたら?」
小さな少年は、悩むように少しの間黙り込んでから、伯爵の上着の裾を縋るように掴んで、また口を開いた。
「父さんと母さんは、ジーナが昔、イーゴリ…おれたちの兄さんを殺したからだっていうんだ。働き者だったイーゴリをジーナが殺したせいで、うちはますます貧乏になったんだから、ジーナが金を入れるべきだって……」
伯爵は目を丸くした。妹が兄を殺すなど、にわかには信じがたい話だった。
後ろの少年は、伯爵に対して姉の無実を訴えているのか、自分に対する独り言か、ぽつりぽつりと話し続けた。
「俺、やっぱり信じられないよ…。イーゴリは俺が生まれる前に死んだ兄さんで、その時のジーナは今の俺くらいなんだ。そんな子供が、大柄なイーゴリを殺せるわけないし…、」
「あの頭がいいジーナが、働き者の兄さんを殺すわけないと思うんだ……」
「でも、母さんは本気でそう信じてるみたいだった…」
伯爵にも信じられない話だ。ジーナは家族のことについて伯爵に嘘をついたが、男爵から身を呈して赤の他人である伯爵を守った彼女が、兄を殺すはずがないと、伯爵は思った。
「きっと、…何か、誤解があるはずだ。…城の兵も使って探すから、絶対ジーナは見つかるさ。そこでジーナに直接聞いてみよう」
伯爵は、前を向いたまま、背後の少年を安心させるように、精一杯の優しい声で彼に語りかける。
「そうだよね、…。ジーナが兄さんを殺すはずない。だってジーナは、ほんとは家を出てひとりで生きていけるのに…ずっと俺たちきょうだいを守ってくれたんだから。」
小さな少年は、伯爵の腰にしがみついた。
伯爵は手綱を握っていない方の手で、不器用に彼の頭を撫で、落ち着かせる。
「いま、城の兵士たちにも頼んでジーナを探しているから…。きっと…、すぐ、会えるさ。朝から一人で探し回って疲れただろう、少し眠るといい。その、…君が風邪でも引いてしまったら、ジーナが心配するからね。」
「うん…。」
しかし、少年は、まだ不安が消えないのか、弱々しい声で返事をした。弟妹も子供もおらず、幼子にあまり接したことのない伯爵は、自分が子供だった頃を思い出す。
伯爵が小さい頃、不安で眠れない時はいつも、メイドが子守唄を歌ってくれて、いつの間にか寝ていたのだ。成人してからは気恥ずかしくて、さすがにメイドに頼んだことはないが、小姓たちに子守唄を歌ってもらったことはあった。
そして、もしかするとメイドに歌ってもらうより恥ずべきことかもしれないが、伯爵はジーナにも子守唄を歌ってもらったことがあった。
彼が眠れなかったある夜、気づけばジーナが隣で歌ってくれていたのだ。
透き通った、穏やかな歌声はすぐに眠気を誘い、その日はよく眠れた。
(あまり歌に自信はないが…。自分も、彼の不安を取り除けるだろうか)
伯爵はたどたどしく、ジーナが歌ってくれた子守唄を歌い始める。
まだ夕日が差すには早い時間だが、伯爵の頬は赤く染まっている。
「夢は窓辺を過ぎて…」
「伯爵様もこの歌、知ってるんだね…。」
伯爵の歌声を聞いた少年は、すこし驚いて、伯爵の背中から頭を離す。
「ジーナが前に歌ってくれたから…。う、うるさいかな?」
伯爵は不安に思って尋ねたが、少年は頭を振って、目を閉じる。
伯爵は少年の無言を、続けろ、という意味だと思い、草原を駆け抜けながら、下手な子守唄を歌い続けた。
姉と違って、低くて少し掠れた男性の声で歌われた子守唄を聞きながら、泣き疲れた少年は、すぐ眠りに落ちた。