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伯爵の新しいともだち

「それは、」


伯爵は言葉に詰まる。女嫌いの伯爵は、老女はともかく、若い女性を雇うことを嫌がった。だから、城には殆ど妙齢の女性は居ない。数少ない若い女の使用人は、調理場など、伯爵が姿を見ないところで働いている。


性別を知った今、伯爵は改めて彼女を眺める。整った顔をまじまじと見るうちに、一瞬目撃してしまった彼女の裸体を思い返す。あの曲線は確かに少年のものではなかった。羞恥と同時に、激しい吐き気が込み上げる。白い肌、甲高い声、無遠慮な手、いつもは封じ込めている記憶が溢れてくる。男装している今はともかく、スカートを履いた彼女を、女の格好をした少女を見れば、また記憶が蘇ってしまいそうだ。彼女には悪いが、断りたい。しかし、少女からは何か切羽詰まったものを感じる。孤児のようであるし、生活に困っているのかもしれない。それに、愛しい彼に捨てられた伯爵は、見た目は少年のような彼女を側に置き、心の傷を癒したいとも思った。毎日彼女の顔を見られたら、気も晴れそうだ。化粧をしていない顔は、涼やかな美人で、中性的。男装さえしていれば、負の記憶も蘇らないのではないか。頭の中で、誘惑の声が伯爵にささやいた。




伯爵があれこれ悩み、黙り込んでいる間、少女は無言で彼を見ていた。執事は伯爵の顔色を伺っているが、何も言わない。外では昨日から降り続いている雪の勢いがますます激しくなっており、ヒュォォオオと凶暴な風が吹く。部屋の中では、暖炉の炎がパチパチと爆ぜ、壁に掛かった時計と枕元の金製の時計の針がカチカチと進む音だけが静寂に響く。


三者ともに一言も発さないまま、時計の針がチクタクと時を刻んだ。



執事が腰に痛みを感じ始めた頃、ついに、伯爵は、意を決して口を開いた。そして、自分ながらに最悪な、気色の悪い提案をした。


「私は、女性が苦手なんだ。けど、男装している君のことは好ましく思う。だから、男装したままでいいなら、この城で、私のそばで働いて欲しい。」


少女の顔を真正面から見て言う勇気はない伯爵は、部屋の隅の壺に視線をやりながら、おどおどと、聞き取りにくい声で言った。


(性に反する格好をするのは神の意に反する。しかし女帝も男装姿で馬を駆ることもあるのだし、この辺境の村でするくらい、許されるだろう。自分のために異性装を強いるのは気が引けるが、出会った時から彼女は少年の格好をしていた。動きやすいからなのか、何か特別な事情があるのかは分からないが。だから、それ程突拍子もない申し出ではないはずだ…。)


と、伯爵はギョロギョロした眼球を少女の顔を見ないようにあちらこちらへ回しながら考えていた。


「それだけでよいのですか。ならば、この姿のままで、お仕えさせてください。」


伯爵の心配をよそに、少女は眉ひとつ顰めることなく、承諾した。それどころか、騎士のように膝をつき、頭を垂れている。


「や、やめてくれ、そんなこと。」


恭しさに狼狽えた伯爵は少女の手をとって立たせる。女性の細い腕の感触がしたが、やはり少年の姿の彼女に嫌悪感は抱かなかった。


「彼が残していった服が丁度よさそうですね。小姓がいなくなって困っていましたから、神のめぐりあわせかもしれませんね。私が仕事を教えましょう。」


執事は何を咎めることもなく、少女を小姓の代わりに雇う気でいる。執事にとっては、伯爵を一喜一憂させ、仕事に手をつかなくさせた前の愛人よりも、彼女の方が小姓にふさわしく思えた。また、平民なだけ彼女の方が働く意欲も高いと思った。なにせ、これまでは手に入らなかった衣服や食事が対価として提供されるのだ。


「よろしくお願いします。」


少女は執事に礼を言う。二人は伯爵をおいてこれからの仕事の話をし初めてしまった。あっさり頷かれたことに衝撃を受けたままの伯爵は未だオロオロと部屋の隅でしているままで、少女が仕事の中身について聞ける雰囲気でもなかった。




少女の名はジーナと言った。


ジーナはその日から執事に読み書きを教わり、小姓の仕事も引き継いだ。執事が感心するほど彼女の飲み込みは早く、数年教育すれば貴族に劣らぬ学を身につけるだろうと伯爵に語った。


すらすらと簡単な文章を読み上げるジーナを寝台から眺めながら、彼は下級貴族の出だったが、文字は怪しかったな、と伯爵はかつての愛人を思い返していた。伯爵自身は幼少期からの教育でそれなりに学はあるが、今まで小姓が持つ知識をそれ程気にしたことはなかった。美しく純粋で愛らしい彼らを眺めているだけで満足であったし、衣服を着せてもらったり、手紙の受け渡しや配達人のような仕事しかさせていなかったから。

しかし、伯爵の放任主義とは裏腹に執事は少女にどんどん仕事をさせる気で、計算が得意なことが分かると、城の金の管理まで手伝わせ始めた。ゆくゆくは領地の税の計算なども任せられるやもしれません、と息巻く執事に、それは自分がやるからと言おうとした伯爵は、臥せるたびに執事に庶務を任せていたことを思い出して反省した。


伯爵はジーナと共に夕食をとるようにした。以前の愛人ともそうしており、執事以外あまり腹を割れる相手のいない伯爵は、孤独が好きなようで嫌いだったからだ。

食事の間、彼女は伯爵の知らない、平民の世界の話をしてくれた。実体験に基づく植物や動物に関する話を聞くのは本で学ぶよりも面白く、外へ行く気になった伯爵は少女を散歩に連れ添わせて、あれは食べられるだの、これは薬に使えるだの、といった話を興味深く聞いた。二人で凍った川で釣りもし、釣った魚は城に持ち帰って使用人にも与えた。執事は伯爵が外に出る機会が増えたのを、嬉しく思っているようだった。いつも幽霊のようだった伯爵の顔に生気が出てきたことを、彼に仕える使用人たちも好ましく思っており、年老いたメイドは彼女を孫のように可愛がるようになった。ジーナは自分の今までの人生について話すことはしなかったが、端々からうかがえる苦労は、領主としての自分を伯爵に顧りみさせた。彼女が布団や入浴、最低限の食事以上の贅沢を求めることはなかったが、伯爵が異国の菓子を並べた時などは、無表情ながらに目を好奇心で輝かせていた。


少女が来てから二週間、伯爵の日常は静かに変化していた。伯爵は夜、自室の机の上に手帳を広げ、日記を書きながら、少女と出会ってからの日々を振り返った。偶然森で出会い、愛人の代わりという下心を持って声をかけた少女は、年下の友人のような存在になりつつある。


(友人…)


その言葉に、伯爵は考えないようにしていた男爵と愛人の姿をまた思い出してしまい、ペンを走らせていた手を止める。少女のおかげで伯爵は寝台からは這い出ることができたが、未だにことあるごとに彼の姿を思い出しては俯いている。ジーナと出会ってからの静かな日常を思い出していた伯爵の頭の中は、彼のことで再び埋め尽くされてしまった。


神に愛された美貌を持つ彼を、伯爵は天使のように崇めていた。伯爵は美しい彼を、見ているだけで満足していた。伯爵が美しい少年たちを好んで側に置いてきたのは、彼らは大人の男女のように伯爵を誘惑してきたり、彼に関係を強いたり、無体を働かないからだ。だから、伯爵は彼らに、触れたいとは思わなかった。彼が求めてきた口付けには応じたが、啄ばむように軽く触れるだけで、それ以上深くすることもできなかった。だが、彼はそれが不満だったのかもしれない。

初めのうち、純情な乙女のように、伯爵と話すのにも恥じらっていた彼は、伯爵が彼に首ったけであるのを確信すると、段々行いが大胆になった。濡れた瞳で伯爵に迫る彼は、性別を超えて、伯爵の恐怖の対象である人たちの姿に重なった。私に触れてください、と彼は伯爵の手をとって言い、その裸体を暴かせた。傷ひとつない白い肌は聖画の天使そのものだった。


(しかし、天使に触れようとは、思えない。)


伯爵は、悲しみと後悔の波に揉まれながら、伯爵と彼の関係に終わりを迎えさせた出来事を思いだし続ける。


何もしようとしない伯爵に痺れを切らした彼は、伯爵を押し倒し、伯爵の服も脱がせようとした。蒸せ返る香水の匂い、触れ合う肌、伯爵の脳裏に忌まわしい記憶が蘇る。伯爵は反射的に少年を突き飛ばし、初めて彼に声を荒げ、近づくなと言った。見たこともない、怒りの表情を浮かべた伯爵に怯えた彼が部屋を出て行った後、伯爵はこみ上げてくる胃液に我慢しきれず、吐いた。


次の日も少年は今までと変わらず伯爵に仕え、睦言も囁いたが、以前は彼の瞳の奥に見えた熱が冷めたような気がした。伯爵はそれを、彼が自分の思いを理解したのだと都合よく勘違いしていた。


(ああ、あの時…私が彼を満たすことが出来ていれば)


伯爵は深いため息をつく。その目じりからは涙がこぼれた。


旧い知り合いに説得され、伯爵が帝都の億劫な夜会に顔を出したとき、友人の男爵と彼が連れ添って小部屋に入っていくのを見たのはその1ヶ月後で、翌日彼は伯爵の前から、忽然と姿を消した。執事たちに捜索させたところ、彼は帝都の男爵の屋敷に居て、彼を連れて伯爵が男爵と会った半年ほど前から、二人は関係を持っていたことを知った。

伯爵は友人と愛人に裏切られ、大変な衝撃を受けて寝込んだが、それでも、天使だと思っていた愛人が色欲のために自分を裏切っていたと知っても、伯爵は彼を汚らわしいとは思わなかった。伯爵の記憶の中の彼は、相変わらず聖人のような微笑みを浮かべていた。ただ、愛人に清らかさを求めながら、彼が望むこともできない自分が気持ち悪くて、義母や義姉たちに弄ばれていた幼い日に戻ったり、目の前で男爵と愛人が交わったりしている悪夢に魘され、伯爵は寝台から出られなくなったのだ。


「イヴァン様。あの男が来ています。」


そんな風に、伯爵が窓の外の降り積もる雪を見つめながら、鬱屈とした想いにまた沈んでいた時、執事が来客の知らせを告げた。来客は、他でもない、愛人を奪った男爵だった。

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