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カースカ(旧スーカスカ)  作者: ぷらまいせぶん
働き者のイーゴリ
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湖の底

賦役…領主のための無賃労働

伯爵が城で憂鬱に苛まれていた頃、ジーナはまた以前のように、家と外の仕事に追われる日々を送っていた。

ジーナは伯爵の城で小姓として働いているときも、身体を動かすことは多かったが、村に居た頃とくらべれば、字や算術の勉強のために机に向かっている時間も長かったので、身体が鈍ってしまっていないか心配だった。それは杞憂で、ジーナの筋肉も体力も衰えていなかった。今日もジーナは重い水を運んだり、鍬を振るっている。


今では伯爵はジーナにとって、元どおり雲の上の遠い存在になった。ジーナは、小姓として側に仕えているときは、悲しんだり喜んだりと忙しい伯爵の姿を毎日見ていたが、城を出てからこの二ヶ月間は、伯爵の後ろ姿も見ていなかった。

ジーナは領主である伯爵の農地にも、賦役の仕事として、畑を耕すために出かけているのだが、伯爵が農民に課す賦役の日数を減らしたのと、彼自身は城の外に姿を現すことはほぼないため、遠目に彼の姿を見る機会はなかった。

「幽霊伯爵」は、時折ジーナの夢に出てきたり、賦役として伯爵の畑を耕す間、木の陰にいるように見えたりすることもあるので、ジーナにとっては本当に幽霊のような存在になっていた。




小麦の種まきの最中、ジーナは木陰の草の上に座り、一息ついていた。ぼんやりと景色を眺めていると、丘の上にそびえたつ、不気味な城が目に入った。伯爵の部屋の、紅いカーテンは閉まっているようだ。

伯爵はメランコリックになって寝込む時はいつも、ダマスク織の紅いカーテンを閉め、暗い部屋の中で寝台の布団の中に潜り込む。

ジーナはまた寝込んで塞ぎ込んでいる伯爵の姿を想像し、少しだけ罪悪感を抱いた。


そして、土で汚れた自分の手や服を見る。鏡がないので分からないが、きっと顔も土まみれだろう。初めて伯爵と会った時は、冬の凍った池で釣りをしていたので、その時のジーナは比較的に小綺麗な身なりだった。しかし今、畑仕事をしている自分を見ても、伯爵は城に連れてはいかないだろう、と彼女は思った。


(伯爵はもう新しい小姓を見つけただろうか。)


伯爵の寝室の窓をながめながら、ジーナは思わずそんなことを考えた。


(いや、新しい小姓が居なくても、私がまた伯爵に仕えることはできない。考えても無駄か。)


しかしジーナは伯爵と違って、ぐるぐると頭の中で考えることはしない。ジーナは立ち上がって、また種を巻きに、畑へと向かった。


(一介の貧しい農民が、伯爵の小姓で居続けるなんて、農民が不思議な導きで皇帝(ツァーリ)になるお伽話と同じだな)


ジーナは土の上に種をまきながら、思った。




数日後、ジーナは家の食料の足しにするため、伯爵が以前氷を割って溺れた湖に、小さい弟と魚を釣りに来ていた。凍っていない湖に、ジーナは釣り竿の糸を垂らす。7歳の弟のミハイロも、ジーナにならって横で釣りをしている。


今日は魚がよく釣れる、母親に釣った魚を渡さないで、村人に売り歩いた方がいい食材が買えるかもしれない、とジーナが算段を巡らせていた時、弟が竿を放って湖の中に入ろうとしているのに気がつき、急いで襟を掴んで引き戻す。


「何してんだ、お前、泳ぐのうまくないだろう。」


怒りはせず、しかし静かな声でいう姉に、弟はひるみもせずキョトンとした顔で答える。


「綺麗な鱗の魚がいたから。太陽の光に反射して、キラキラ光ってたんだ。」


「言えばとってやるから、黙って湖に入るな。」


無邪気な弟の答えに、無表情でため息をついたジーナが注意すると、ミハイロは大きな青い瞳を瞬かせて聞く。


「どうして?」


溺れかねないからだ、と、間抜けな伯爵の姿を思い出しながらジーナは言おうとしたが、やんちゃな弟の性格を考え、別の言い方をした。


「ルサールカやヴォジャノーイに連れ去られるぞ。」


「何だよ、それ?」


「人間を水の底に引きずり込む怪物さ。ルサールカは水辺で死んだ若い娘で、ヴォジャノーイは魚だか老人だかの格好をしてるらしい。昔、イーゴリが言ってた。」


「イーゴリって、」


「お前が生まれる前に死んだお前の兄さんだよ。イーゴリは、ルサールカに連れてかれて死んだんだ。」


竿を引き上げて魚を釣りながら、ジーナは脅すわけでもなく、淡々と事実を述べるように言った。急に血の気を引かせて、震えはじめたミハイロの方は見ず、連れた魚をジーナは検分していた。弟が捕まえたかった魚だろうか、確かに銀の鱗が綺麗な個体だが、よく釣れる魚だ。


「おれ、もう、湖はいらない。」


急に水を恐れ出した弟に、ジーナは呆れた目を向ける。


「別に、身体が大きくなって、ちゃんと練習して泳ぎがうまくなったら、一人で湖に入ってもいい。」


「いやだ。だって、イーゴリは、大きかったのに、連れてかれちゃったんだろ。」


「村の中じゃかなり大きい方だったな。」


ジーナは魚を籠に入れながら、霞みがかった記憶の中の、兄の姿を思い出す。兄は生きていれば伯爵と同じくらいの歳で、背丈も近かったが、ジーナの記憶の中の逞しい兄は、伯爵二人分程の幅があった。


「でも、湖の底の方が、地上よりいい暮らしができるかもしれない。」


伯爵と違ってボロ屋に住み、家族をささえるために一人でずっと働いて、死んだ兄のことを思い出して、ジーナは呟くように零した。ジーナの視線の先では、綺麗な鱗の魚が、籠の中でビチビチと跳ねている。


「イーゴリは死んだんじゃないの?死んだのに、いい暮らしができるの?」


兄を知らない弟は、姉に無邪気な質問をした。ジーナは魚から視線を外し、また湖面に糸を垂らして、弟に答える。


「死んだら、この世界とは違う世界で生きるんだ。」


ジーナは、あまり何も考えず、自分自身半信半疑なことを、弟にはさも当然かのように言い聞かせた。


「ふぅん。…湖の底なら、おれもツァーリになれるの?」


弟は、納得していない表情を浮かべながらも、あの世について知るために、姉に尋ねた。


「それは難しいだろうな。」


ジーナは、ツァーリが何かも、自分の身分も分かっていない強欲な弟に、また呆れた目を向けた。


「なら貴族は?」


「ちょっとした貴族ならなれるかもな。」


(神の世では身分もなく平等だとどこかで聞いた気もするが、ヴォジャノーイに連れて行かれた人間は、その奴隷になるって聞いたな。奴隷がいるってことは、貴族もいるんだろう)


ジーナは、地上と大差ない身分制に支配された彼岸を思い浮かべる。

しかし、死んだからと言って、身分が変わることなどあるのだろうか。神の前での平等とは、ジーナにはあまり腑に落ちない話だった。だが、ミハイロを納得させるために色々と考えるのは面倒なので、てきとうなことを言う。


「じゃあいいよ、ジーナやゾーヤと会えないかもしれないし。」


ムハイロは、ジーナの投げやりな答えに、ジーナが予想しなかったことを言う。ジーナは弟を、不思議な生物を見つけた時のように物珍しげに眺めた。


ジーナの弟のミハイロは、拾い子ではなく、たしかにジーナの母の股から生まれたのだが、父にも母にも、兄にもジーナにも似ていない性格をしていた。

ミハイロは、ジーナと一緒に賦役に行く時も、一人で周りの村人に話しかけに行き、村はずれに住む一家の中で一番顔が広い。色々とおかしなことを言って、ジーナたちを遠巻きに避ける村人たちのことも、笑わせてしまう。どこかで見つけた綺麗な石を売りつけて銅貨を得ていたときは、さすがのジーナも驚いたものだ。

ミハイロが商人の家に生まれていれば、もしかしたら成功したかもしれないが、彼もジーナと同じ農民だ。農民が商人になることはできない。地上では、ミハイロが金貨を手にすることはないだろう。


そんな弟なので、なんとなくジーナは、弟が湖の底の裕福な暮らしを望むと思っており、彼の意外な返しにまた驚いていた。


「そうだな。水の中は地上より冷たいし、暮らしにくそうだ。」


しかし、ジーナは弟に同意する。何があるのか、存在するかも分からない死後の世界より、ジーナは少なくとも暖炉で暖まれる、この世の生活の方がいいと思った。


「おれ、冷たいのは嫌いじゃない!」


弟は姉の言葉を文字通りに受け取って的外れなことを返した。

そしてミハイロは、暑くなったと言って、すっかり湖の底の怪物のことも忘れ、また水に入ろうとする。

危なっかしい弟のシャツをジーナはひっ掴み、そこで大人しくしてろと、後ろのほうへ投げた。

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