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カースカ(旧スーカスカ)  作者: ぷらまいせぶん
働き者のイーゴリ
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伯爵の菓子

「しかし…領民の生活を改善しようとなされるのは、お祖父様のウセヴォロド様でも、お父様のスヴェトスラウ様でもなく、慈悲深きイヴァン様だけでしたよ。」


ベルベットの椅子に座り、書類が積まれた机の上で顔を覆ったまま、沼地が出来そうな陰気を放つ伯爵を前に、執事は頭を捻って彼の美点をあげた。


「そうだろうか…だが、思うばかりでまだ、何もできていない…。十年前から村人たちの暮らしがマシになるようにと色々と考えてきたが、結局城に籠っているばかりで……祖父の代から何も変えられていないことに最近気付かされたぐらいさ。…ジーナだって…」


伯爵を励まそうとした執事だが、またもやかける言葉を間違えてしまった。ジーナの家族のような貧しい村人たちの日々の苦労を思うだけで、主は心を痛めてしまうのだ。


伯爵はジーナが城を出てからずっと、貧しそうな家族のもとに戻った彼女が暮らせているのか、心配していた。ジーナは伯爵から、ろくに金も褒美も受け取らずに、あばら家に戻っていった。

伯爵がジーナを見送る際に見た彼女の家は木造で、隙間風が吹きそうな、粗末なつくりの家だった。せめてもの餞別として、伯爵はジーナが城で来ていた服だけ持って行かせた。彼女は今、朝夜の冷え込みに凍えていないだろうか、冬は大丈夫なのか。伯爵は降り積もる雪を見ては、ジーナが無事に過ごしているか、不安だった。


(そもそも、家族の下に帰したことが本当に正しかったのだろうか?)


(いや、実の家族からジーナを奪うわけにはいかない、それに、血の繋がった家族がジーナをひどく扱うこともなかろう。祖父も苛烈な人だったが、あれでもきっと、私を愛していたから、あんなにきびしかったのだ…)


執事から領民の生活という言葉を聞いた伯爵は、頭の中でぐるぐるとジーナのことについて考えはじめてしまった。ぶつぶつと小声で呟いたり、手帳の上にペンを走らせて、ジーナの貧しさへの心配や、自分の選択が正しかったかという悩みを書き始めてしまった。


いい加減面倒になった執事は、遠慮を捨て進言した。


「会いに行かれたらいいではないですか。」


自ら姿をくらませ男爵の愛人となったエリクと違い、ジーナは伯爵の城のふもとにある村の、家族の家に戻っただけだ。領主である伯爵が領地にあるジーナの家を訪問してもおかしくはない。むしろ村人にとっては歓迎すべきことだろう、と、執事は考えていた。


執事も、ジーナという、唯一伯爵のメランコリックを和らげることができる少女の存在が惜しかった。

執事は伯爵からジーナのことを聞いた時、主の人の好さに溜息をついた。貧しくて娘のことをろくに育てる気がなさそうな家族から引き離して、ジーナを城から出さなければいいではないかとも思った。


しかし、強引に裕福なコザークの娘と結婚した祖父のウセヴォロドと、イヴァンは違う。領民の信用を得ようとしている領主が、その目の前で領民の少女を家族から引き離すわけにはいかない。しかも少女を男装させ側に置いていたと言うことが分かってしまっただけで、村人の反感を買うには十分だ。


(広場にいた村人の口が固ければいいが…もう噂は広がっているだろうな…)


執事が別の懸念について考え始めた時、伯爵はようやく顔をあげて、ぼそぼそと呟いた。


「でも、私が顔を見せるのを、ジーナの家族は喜ばないかもしれないし、変な噂が立って村の中でジーナの立場が悪くなるかもしれないだろう。」


長いまつ毛に縁どられた薄青い目を伏せて、弱気なことを言う伯爵に、執事は淡々と語る。


「噂については手遅れですから気にしても仕方ないでしょう。むしろ、伯爵の庇護が今もあると分かれば村人は下手にジーナを扱いませんよ。元々誰も新しい小姓がジーナだと気づかなかったぐらいですから、村人との交流もあまりないのかもしれませんが…。」


「しかし……。」


なおもジーナに会いに行くことを渋る伯爵を、執事は呆れた目で眺めながら、彼の不安を言い当てる。


「ジーナに拒まれるのが怖いのですね。」


「………ああ。」


伯爵は、こくりと頷いた。執事は三十路前の青年というよりも、十代の少年に語り掛けるように、優しく主を励ました。


「ジーナはイヴァン様に仕えるのが嫌で帰ったわけではないのですから、大丈夫でしょう。イヴァン様の顔を見たら喜びますよ。」


「そうだろうか……。」


伯爵はまた俯いていた顔を上げて、執事の方を見た。窓の外の光が反射し、伯爵の瞳に光が差している。ようやく元気が出てきたと安堵した執事は、さらに伯爵をやる気にさせようとして、二度目の失態を犯した。


「金や宝飾品は拒まれるかもしれませんが、城でつくった焼き菓子などであれば、ジーナも喜んで受け取るのでは?弟と妹もいるようですし。メイドたちもジーナを恋しがってますから作ってくれるでしょう。」


「…それは、名案だ!!私もつくろう!!!」


執事の言葉に、伯爵は少年の頃のように、硝子玉のような青い目を爛々と輝かせて言った。

とんでもないことを聞いた執事は、厳めしい顔つきを崩し、思わずうろたえてしまう。


「いえ、イヴァン様は…」


「他の人につくらせたものではなく、私の手でつくった菓子をジーナに食べてもらいたい!その方が、ジーナへの感謝や心配が伝わると思わないか?」


自分の思いつきの提案に、必要以上にやる気になった伯爵の言葉に、執事は足元をふらつかせた。


(イヴァン様は、少々本を読みすぎたようだ。)


伯爵は自分で作ることにこだわっているが、伯爵であるイヴァンが貧しい村人への菓子づくりに精を出すことが問題な上に、たまに何もない場所で躓くイヴァンが菓子づくりというのは不安だ。

そう執事は思ったが、かつてないほど、いつも虚ろな目を輝かせている伯爵に、何も言えなかった。




結局、伯爵は老メイドに菓子づくりを教わり、失敗を重ねながらも、果物と果実煮(ヴァレンニャ)、ウォッカを麦の生地でくるんで揚げた焼き菓子をつくることに成功した。


少し焦げたり、生焼けになった、食べられなくはない失敗作は、使用人や城に仕える兵士たちが食べた。伯爵と食卓を囲んだことで、彼らの先行きへの不安も軽減されたようだ。城下の村出身の兵士たちは、自分たちの領主がつくった菓子を食べるという事態を面白がり、すっかりなくなっていた主への忠誠心や尊敬の念をいくばくか取り戻し、暇乞いを取り下げた。


(ウセヴォロド様がこの様子を見たら、その場で倒れてしまうだろう)


執事は伯爵のつくった、意外にも美味しく甘い焼き菓子を食べ、紅茶と混ぜたウォッカを飲みながら思った。

伯爵がつくったのはパンプーシュカです。筆者は作ったことも食べたこともないのですが…

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