伯爵の祖父
ジーナが城を去ってから、二ヶ月が経った。
突然ジーナが居なくなったことに、城の使用人たちも驚き、残念がったが、彼らが何より心配したのは、心臓の弱い伯爵が、また塞ぎ込んでしまわないだろうか、ということだ。
意外なことに、ジーナが去った後、初めの一週間ほどは、伯爵は毎朝早くに起き、珍しく狩りなどに出かけた。もっとも狩りをしてやっと野ウサギを仕留めても、伯爵はウサギが哀れになってきて、その肉もたべられなかった。狩りや散歩のあと、伯爵は城に帰ると、経済学や農業の読書に勤しみ、手帳に読んだ内容を記していた。
しかし、7日目頃から雲行きが怪しくなった。伯爵はやたらとため息をつくようになり、目の隈は日ごとに濃くなり、眠れない夜にヴァイオリンの悲しげな旋律を城に響かせた。伯爵は孤独を紛らわせようと、読書会や茶会に赴いたが、男爵やエリクのことを思い出したり、女性におびえたりで、その度に憔悴した顔で戻ってきては二日は自室に引きこもった。
城の中には再び陰気な空気が篭り、新入りの兵士たちなどは耐えられなくなって暇乞いを始める始末だ。
「あの娘がいなくなって寂しいのは分かりますが、元気を出されてください。」
頭痛に悩まされる年老いた執事は、伯爵を早く立ち直らせようと、大量の書類や手紙が積まれた机の上で頭を抱えている伯爵に、言葉をかける。
「わかっている…わかっているよ……はぁ……。」
伯爵は生返事を返し、ため息をついた。執事は全く立ち直れそうにない主の姿を、眉間に眉を寄せて見る。伯爵は朝から一応机に向かってはいるが、時計の針が半周する間に一回はため息をつき、物思いにふけるばかりでほとんど書類の山は減っていない。
それは、彼が名実ともに領主として仕事を始めた十年前からよく見る光景だったが、ここしばらくジーナのおかげでよく動く伯爵に慣れてしまっていた執事は、思わず愚痴をこぼしてしまう。
「お祖父様が今のご様子を見られたら、なんとおっしゃるか……。」
言葉を吐き出してすぐ、執事は失態を犯したことに気づいた。
「私は、祖父のようにはなれないさ…」
伯爵は、そう零すとますます深いため息をつき、顔を両手で覆って考え込んでしまった。
伯爵に彼の祖父のことを話してはいけないことを、執事は忘れていた。
彼と真逆の性質の、豪胆で女好きな彼の祖父、先先代の領主を、今の伯爵、イヴァンは幼少から恐れていた。
実のところイヴァンの父が領主であったのはわずか1、2年のことであり、それまでの何十年もの間領主だったのは、イヴァンの祖父である。
イヴァンの父は、よく言えば柔和、悪く言えば流されやすい性格であり、他の者に対するときと同じく、息子にも優しく、イヴァンを叱ることはほとんどなかった。
しかし祖父は、身体も心も弱いイヴァンを情けなく思っており、イヴァンの父共々よく怒鳴りつけた。もっとも祖父は、いつも誰かに怒鳴っていたが。
祖父はイヴァンを勇猛なコザークにするため、身につかない剣や銃や馬の稽古をさせたり、共に狩りに行かせたりした。
祖父はかのコザークの首領が皇帝に反旗を翻した時、名声と金を欲する勇敢なコザークの若者で、彼は皇帝の側につき、領地と帝国の貴族位を手にした。
勇気と武力と野心で成功した伯爵の祖父は、自分の息子にも孫にも、同じ素質が備わっていないことが許せず、彼らの柔和な性質を弱さと断じて認めなかった。
苛烈な祖父から、イヴァンを守ってくれる家族は居なかった。
イヴァンの祖母は慈悲深い女性だったが、祖父を愛せず、結婚生活に心労が溜まり、早逝してしまった。
イヴァンの母は、イヴァンを産んですぐ死んだ。
イヴァンの父は、妻がなくなってから、仕事のある帝都に住み、城には月に一度しか帰らなかった。
祖父が若いころから彼に仕えていたコザークの兵士で、祖父から大変な信頼を受けていた執事だけが、幼いイヴァンを罵倒し続ける祖父を止めることができたのだ。
伯爵のメランコリックは、祖父のせいもあると、執事は机の上で突っ伏している主を哀れに思う。
伯爵の脳裏には、亡き祖父の思い出、彼の怒声が次々に蘇っていた。
「イヴァン!貴様は女のような顔をしおって、女のようなことしか出来ないな!!剣も銃も満足にできないとは!」
「いちいち、泣くな!!!あいつの教育も悪い、都にばかり行って、社交会にだけ連れて行って兵術も武術も教えないとは、どういうことだ!?戦で武勲を上げさせる気はないのか!?まことに陛下の役に立つ貴族になるには、帝都の骨なしどもの真似だけをしていては駄目だっ!!」
「皇帝に仕えるためには、学識も必要だ。イヴァン、お前歴史や算術、修辞学の課題はやったのか?」
「貴様!!わざわざ都から教師を呼んでやったというのに!!!この土地の言葉だけしか理解せぬようでは、西の貴族どもに馬鹿にされるわ…!」
「少し頬を打たれたぐらいで、泣くな!!」
自分が何を言っても怒りの止まらない祖父に対して、伯爵は泣いて謝り続けた記憶ばかりが蘇る。彼は祖父を尊敬していたが、それ以上に恐れていた。
幼き日の伯爵には、遠目に見たことしかない女帝より、祖父が皇帝らしく見えたものだ。