伯爵の訪問
ようやく雪が降り止み、伯爵の城が立つ丘にも花が咲きはじめ、春が芽吹く頃。伯爵はジーナを共だって、村の視察に行くことにした。
丘の上の城から見渡せる村は、小さな森を抜けた先にある。伯爵はこれまでも時折村を訪れていたが、人見知りな伯爵は領民と会うのも気が引け、馬車の中から彼らの働きぶりを見るだけで満足していた。
しかし、ジーナから村民の生活について聞いた伯爵は、自分の領地の実情を知るために、村を日常的に訪れることにした。といっても、そう頻繁に伯爵が訪れても村人も伯爵も気が休まらないだろうということで、訪問はひと月に一度とした。
男爵の事件の後始末が終わってから始めた村の訪問は、今回で二回目だった。
「前回は村人への挨拶回りでしたが…今回は暮らしぶりの調査ですか。」
伯爵の自室で、執務用の机に座る伯爵に、傍に立つジーナが今度の訪問の目的を尋ねる。
「うん。今まで数字や報告書は見ていたけど、私の目で村の人たちがどういう生活をしているのか、見たことはなかったから…。」
伯爵は村人達の名前や年齢、家族構成、職業などが記された手元の台帳から目を離し、ジーナの横顔を見て答える。
「生活…。森の方に住む村人も居るので、今回だけで全員の家を回るのは難しそうですね。恐らく、伯爵様が把握されている数よりも多い人数が住んでいますから。」
ジーナは、以前見た、伯爵の台帳の中身を思い浮かべながら言った。
「えっ、そうなのかい…?」
淡々と述べるジーナの口から出た、初めて聞く情報に、伯爵は大きな目を丸くした。
「税を逃れるために、森に暮らす人々もいます。伯爵様の領地は、広い森林も含んでいるので。」
「それは…困るな…。」
ジーナの説明に、伯爵は眉を下げた。
各地の森林に隠れて住む農民たちは、コザークと結託して反乱を起こすこともあるので、領主たる伯爵は彼らを取り締まらなければならない。だが、静かに森で暮らす人々を無理やり追い出したり、違う場所に住まわせることは、気弱で優しい伯爵には気が引けた。
「とりあえず村のことを把握してからにしよう…。ここが住みやすくなれば、森の人も村に住んでくれるかもしれないしね。」
ジーナは特に意見せず、携帯用インクにペンを浸して、伯爵の発言を調査記録用の紙に書き取った。
「まだ執事から教わり始めて数ヶ月なのに、君は覚えがいいね。」
伯爵はスラスラとペンを走らせるジーナを見て感心している。執事が教育し続けているジーナは、一通り文字を覚え、税の計算の書留もできるようになった。伯爵もたまに読み書きの練習に付き合っている。
伯爵は、彼女が書いた文章を見て、ジーナの努力を感じながら、ひとつの懸念を思い出す。
ジーナは毎日の勉強に加えて、あいも変わらず淡々と真面目に働いていた。伯爵は彼女の体調を気遣い、よく週に何日かは休むように言うのだが、ジーナはせいぜい一日休んで、あるいは一日も休まずに、毎日伯爵のそばに仕えている。ジーナは伯爵より余程丈夫な身体と心を持ってはいるが、まだ15の少女である。伯爵自身、成人する前は、高熱にうなされ生死の境を彷徨ったことが数度ある。そして、流行病で少年少女が亡くなるのは何度も目にした。
なので、伯爵はジーナが病に侵されないか気が気でなく、彼女がろくに休まないことは、伯爵の悩みの種の一つだった。
「今度、村の調査が終わったら、どこか少し遠い土地の湖や花を見に行こうか」
伯爵がふと呟くと、ジーナは、
「分かりました。」
と一言だけ返した。おそらく意図が伝わっていない小姓に、伯爵は困ったように微笑む。そして、ジーナに視察に行く日取りを伝えたあと、手元の台帳に目線を戻した。
すこしあと、ジーナは執事や兵士と村の訪問の手筈について話し合うため、伯爵の部屋から出た。
ジーナが扉を閉める音で集中が途切れた伯爵は、ふと先ほど、村の訪問について話していた時の、彼女の顔を思い出す。
近頃、もう一つ伯爵が気がかりなことは、村を訪れる時のジーナが、無表情ながらにどこか不安そうに見えることだった。
それから一か月ほどたち、伯爵とジーナ、そしてお供の私兵数人は馬に乗って、村を訪れた。伯爵から事前に知らせを受け取っていた村人たちは広場に集まっており、村長をはじめ村の有力者が伯爵を迎えた。伯爵は馬上から降りて、いつもベッドで芋虫のように震えている姿からは想像もできない、優雅な物腰で挨拶をする。
長く波打つ銀髪、長い睫毛と深い彫りが陰を落とす青味がかった灰色の目、高い鷲鼻、こけた頰、血色の悪い唇。噂に違わず不気味な伯爵の容姿に、冬の終わりに訪れた時の領民は震え上がっていた。城に引きこもりがちな領主が突然来たとなれば、輪をかけて恐ろしいだろう。
しかし、2回目となれば彼らも慣れ始めたのか、仄かな春の陽光が味方したのか、伯爵に対する村人の恐怖は軽減していた。よく見ると美しいと隣の者に囁き出す若い娘たちすら居るほどである。
確かに、不眠症の改善によって隈も薄まり、頰も若干肥えていた伯爵は、日の光の下だと美男子と言えなくもない姿になっていた。
しかし、伯爵が男色家という噂は以前から村人の間で広がっていたので、娘たちが彼に色目を使うことはない。婦人たちはむしろ、少年たちをさりげなく自身の背の後ろに隠していた。
それに、そもそも身分の差をよく知る村人は、伯爵の妻や愛人になるような高望みはしない。女好きの先先代の領主などは、村人に手をつけては捨てていたという話もあって、彼に気に入られたからといって幸福な生活が手に入るとは限らないことを、村人たちは理解していたのだ。
一方、ジーナは一部の村人から憧れを向けられる伯爵を見ながら、伯爵様は相変わらず痩せすぎだな、とぼんやり考えていた。
村人たちは、伯爵の側に仕えるジーナのことも、貴族の子弟だと思い込んでいて、彼女も村人の一人であると気づいていない。そして小姓の恰好をする彼女のことを、見た目通り、少年だと思っていた。中には、ジーナを憧れのまなざしで見つめる若い娘たちすらいる。
伯爵とジーナが広場に集まった村人に挨拶をし、話を聴き終わり、その場にいない農民たちの家を回るために馬に乗ろうとした時、
「ジーナ!!あんた、どこ行ってたのさ!!」
中年の、薄汚れ、擦り切れた服を着た農婦がジーナの名を叫び、彼女に抱きついた。