少年
伯爵は少年を後ろに乗せ、寒さに手をぶるぶると震わせながらも手綱を握り、馬を走らせ、丘の上の城へと帰った。森を抜ける頃だろうか、雪がちらちらと降り始め、すぐに吹雪に変わった。やはり少年をあの場に残さずに正解だった。伯爵は自分の奇怪な行動に、言い訳を見つけた。
城門では、雪が降りしきる中、白髪の老いた執事が主人を迎えに来ていた。彼は伯爵を見て、目を丸くする。愛人に逃げられふさぎ込んでいた主人が漸く散歩に出かけたと思えば、今度はみすぼらしい格好の少年を連れてきたのだ。
「この者は…」
馬上の少年を、訝しげな目で見つめてくる執事に伯爵は狼狽えながらも、主人らしく毅然とした態度で答えた。少なくとも伯爵は、家臣にそう振舞えたと思っている。
「私を助けるために川に入って濡れてしまったんだ。暖かい湯に入れて、汚れてしまった服を着替えさせてくれるかい。」
「川に!?何があったのですか!…お湯は時間がかかりますから、暖炉の前で待っていて下さい。着替えは、…彼のもので?」
主人も濡れていることに気づいた執事は仰天した。やっと城から出る気が起きたかと思えば、真冬の川に落ちるとは。いつまでも目が離せない主人である。
「ああ、背丈も似通っているし、大丈夫だろう。」
伯爵の言葉にため息をついた執事は、少年を一瞥し、伯爵の耳元に囁いた。
「…伯爵様、ご傷心なのは分かりますが、誘拐は…」
「ちっ違う!、それは、出来れば小姓になって欲しいが、誘拐なんて!礼が済んだら家に返すに決まってるだろう!」
「そうですか、下心はおありと。まあ、伯爵様は誘拐など大胆なことはしませんな。しかし、田舎だからといってあまり身分の低いものを小姓にするのはおやめください。確かに目鼻立ちは整っておりますが…」
「いいじゃないか、」
勝手に馬から降りた少年は、ひそひそと言い合う二人のことを気にする様子もない。それよりも、城門の向こうにそびえたつ、古びて幽霊でも出そうな、珍しい石造りの城を興味深げに見ている。十数年の人生で初めて、貴族の敷地に足を踏み入れただろうにこの落ち着きぶりとは、余程肝が座っていると執事は感じた。
伯爵と共に城の中に入った少年は、しばらくの間、応接間で待たされた。少年が一度も座ったことのない、上質なベルベットの布張りの、ふかふかの椅子の上に座り、うつらうつらとしていた時、メイドが、浴槽が温まった湯で満たされたことを告げに来た。
少年は執事に連れられて浴室へ向かう。不気味な見た目とは裏腹に、城の内装は現代風に改装されており、浴室も高価な調度品で彩られていた。粗末な木造のバーニャにしか行ったことのない少年は、陶器の浴槽をみるのも初めてだった。執事に着替えを手渡された少年は、一人浴槽に浸かる。
この寒い日に、暖かなお湯をすぐ用意できるなんて。寂れた村の領主の城にしては、珍しい設備を整えているものだ。
少年は少し疑問を感じながらも、ぜいたくを享受する。しかし、目が眩む光を反射する鏡に囲まれた部屋で、慣れぬ滑らかな感触の浴槽の湯に浸かって、農民の子供が落ち着けるはずがなかった。所在なさを感じながらも、少年は窓の外の雪を眺めながら、じっと身体に熱が回るのを待つ。厳しい冬が訪れてから、初めて体の芯まで温まった気がした。
隙間風も入らないきれいな浴室で温かいお湯に浸かりながら、少年は自分の生活からは想像もつかない贅沢を貴族がしていることを初めて実感したが、毎日この湯に浸かる伯爵を特に恨めしくは思わなかった。彼は自分の生まれにこれといって何の恨みも不満も抱いておらず、その境遇をありのままに受け入れて、ただ毎日を生きていた。むしろ少年は、川で溺れそうなところを助けただけで、この浴槽に浸かるという厚遇をくれた伯爵に、少し好感を持った。そして……我が家の寒さを思い出し、生まれて初めて、あばら家に帰るのが億劫になってしまった。
少年がそろそろお湯から上がろうとした時。執事の説教を受け、また自室でふさぎこんでいた伯爵は、寝台の上からぼんやりと衣装箪笥を眺めていた。そしてふと、新品の着ていない下着があったので、少年に渡そうと思い立つ。執事が持っていった着替えは、伯爵が着用したものだ。他人が着た服など、本来であれば身に着けたくないだろう、と、高貴な生まれ故に、農民は当然家族や兄弟の服を着まわしている、ということを知らない伯爵は考えた。しかし人見知りの伯爵は、生まれた時から知っている、家庭教師代わりでもあった執事以外の使用人には、気軽に声をかけて命令出来ない。その執事が忙しそうにしていたため、伯爵は誰も呼ばずに、新しい下着を持って、自ら浴槽に向かってしまった。
伯爵は長らくたった一人で浴室を使い続けていたので、扉を開ける前にノックをするとか、声をかけるということもせず、ドアノブに手をかけた。少年を信用仕切ってはいない執事は、少年に鍵をかけないように言っていたので、扉に鍵はかかっていなかった。代わりに男性の使用人が見張りとして扉の横に立っていたが、当然彼が主である伯爵の行動を止めることはない。彼は伯爵を男色家だと思っていたので、浴室で少年とあれこれするのだろうと思ったが、彼にはその行為を止める程の道義心も勇気もなかった。使用人の妄想は勘違いであったが、つまり…、不用意な伯爵が扉を開けるのを阻むものはなかったのだ。
開いてしまった扉の向こうには、伯爵の弱い心臓が破裂してしまいそうな光景が広がっていた。
少年は身体を拭いている最中だった。しかし、その身体は伯爵が予想していたものではなかった。あるべきものがどこにも見当たらない。そして、わずかながらではあったが、少年にはないものがあった。目の前の人物は、少年ではなく少女だったのだ。痩せ細った貧相な少女の裸を見たところで、愛好家でない大人であれば、さほど動揺しないかもしれない。伯爵は違った。彼は少女の身体に興奮しない。しかし、彼女の身体を見るなり、真っ青になって震えだした。触れ合う肌、不快な感触、耳障りな矯声…。少女の裸体を見た瞬間、伯爵は心の底に封じていた記憶を鮮明に思い出してしまった。余りにも強い心への衝撃に、伯爵はふらりとよろめくとそのまま崩れ落ち、気を失った。裸を見られても悲鳴も上げなかった少女は、手早く着替えると、使用人を呼びに走った。
伯爵は自室の寝台の上で、すぐ目覚めた。
しかし、自分の失態と過去の記憶に苛まれ、そのまま寝込んでしまった。執事は少女を一体どうするか判断に迷ったが、真っ暗で雪が吹き荒れる外に放り出すわけにも行かないので、空いている使用人の部屋に泊めさせた。彼女を部屋に案内する道すがら、性別の間違いを訂正しなかったことを詫びながらも、焦りも怯えも顔に出ていない少女に、執事は少し感心した。ほぼ毎日ふさぎこんでいる伯爵に彼女の十分の一の精神力があればと、執事は主の気弱さを嘆く。しかし、詳しくは自分の口からは言えないが彼にも致し方ない事情があるのだと、執事は少女には説明した。
上の階で伯爵がうんうんと天蓋の下で唸っている頃、少女は羽毛布団の下で深い眠りに落ちた。少女は夢も見ないほど、深く深く眠った。伯爵はといえば、翌朝まで悪夢に苦しんでいた。
次の朝、城の鶏の騒がしい声で少女は目を覚ました。
数百年前の石造りの城の朝は冷え込む。しかし要所要所に暖炉があるし、少女がいつも寝ている藁の上などよりは余程暖かかった。暖かい布団の中から出るのは惜しいが、身分と場所を考えるとのんびり寝てもいられないと、少女は仕事を求め、部屋を出て人の気配がする方に向かった。窓の外を見ると、薄紫の帯が厚い雲の隙間から漏れ出ている。今日も雪が降る空模様だ。
新しい使用人だと思われた少女が、頼まれて城の庭で薪集めや鶏の餌やりなどをしている時、執事が姿を見せた。執事は少女を、伯爵が眠る部屋に連れて行く。
グロテスクな置物や、いったい何代前から使っているのかわからない古びた家具がある伯爵の部屋は、中世の重厚な様式と、流行りの浮気で華麗な様式が混ざり合い、不可思議な雰囲気を孕んでいた。中でも異質な淀んだ空気を排出している城の主、窓際に置かれている陶器の人形に負けず劣らず白い肌の伯爵は、寝台の背もたれにもたれかかり、上半身だけを起こして何もない壁を見つめていた。伯爵は昨日に増して挙動不審で、少女に対して怯えており、大きな青い眼でそちらを伺ってはさっと顔をそらす。女嫌いの伯爵に間違いを訂正しなかったことを責められるのか、単に追い出されるのか、少女の方は彼の出方を伺い、じっとその顔を見る。
少女は、釣りの時に出会った、やたらに綺麗で珍奇な格好をした奇妙な男が自分の住む村の伯爵だとは知らなかった。森で少女と会った時、伯爵はこの地方の伝統の衣服ではなく、帝国の貴族のように、西の影響を受けた格好をしていた。刺繍で草花の模様が縫われた絹の上着はいかにも高価そうだと少女は思っていたが、骨ばった細い脚の曲線が露になった半ズボンは滑稽にも思えた。そして、身なりだけでなく、伯爵の雰囲気そのものも、異様だった。伯爵は村人から、不気味な城に住む幽霊領主と呼ばれていたが、少女はあだ名がそれほど実際の姿を表しているとは思わなかった。痩せこけて陰鬱な顔をした男が、広大な領地を統べ、地位と名誉と金を持つ伯爵だとは、少女は予想だにもしなかったのだ。
少女はあらためて寝台の上の伯爵を見て、成る程幽鬼のようだと思う。顔の造形自体は整っているが、鷲鼻と窪んだ眼窩、こけた頰にぎょろぎょろとした目、白粉なのか地か青白い肌、長い銀髪という伯爵の容姿は絵に描いたような不気味さを持つ。
少女がこんな怪しい男についていった理由には、貧しい生活を紛らわせられる金品でも貰えるかもしれないという打算もあったが、純粋な好奇心もあった。びくびくと震える男を見ながら、この伯爵についてもう少し知りたい、少女の心の奥から不思議と湧き上がる好奇心の声が囁く。
それに、城での生活を知ってしまった少女は、伯爵の愛人だか小姓だか僕だかになってでも、あばら家に帰りたくなくなっていた。
時計の秒針がちくたくと時間を刻み、数分が過ぎる。少女が思考を重ねる中、そのまま沈黙に耐えられる心臓もない伯爵が、血色が悪く紫がかった唇を震わせながら、先に口を開いた。
「君は、女の子、だったのだね……その、昨日は大変無礼なことをした。」
伯爵は少女の目を見ずに謝罪する。どうやら、彼女を咎める気はないらしい。
少女は少し、安心した。
「いえ、性別を言わなかった私の落ち度です。」
とはいえ、貴族がそこまで寛容であるとも信じていない少女は、自分の責任も強調しておく。
「でも、貴族の私がついてこいと言ったら、断れないだろう。私が君を少年だと勘違いしているなんて、思わなかっただろうし…。兎に角、昨日から君には世話になったし、迷惑もかけてしまった。」
「何か、お礼をできないだろうか。」
伯爵は少女が驚く程、貴族とは思えぬ腰の低さだった。
(この人は本当に貴族なのか?これが、領主や貴族の礼節というものなのだろうか)
(いや、そんなことはどうでもいい。大事なのは、彼が礼をする気があるということ。)
少女は一瞬伯爵の真意について逡巡したが、すぐに決意した。そして、昨日から考えていた大胆な願いを口にした。
「私を使用人としてここで働かせてください。知っての通り体力には自信があります。計算は少しならできますし、文字も勉強します。料理の手伝い、荷積み、何でも致します。どうか働かせてください。」