危険を冒す者
レーシャの話を聞いた伯爵は、すっかり憔悴してしまい、ベッドの天蓋の下で男爵を告発する、しない、と無駄な堂々巡りの思考を重ねていた。しかし、いつものように一週間も寝込むことは許されなかった。
レーシャが来た翌々日、いつも早朝から働いているジーナが城のどこにも居ないと、執事が慌てて伯爵に報告しに来たのだ。
屋敷中でジーナを探した結果、少女は見つからなかったが、馬小屋から馬が一頭消えたことが判明した。流石の伯爵も、彼女が一人でどこへ行ったのかわかった。彼女は馬に乗って、一人で、男爵の屋敷に乗り込んだのだ。
(ジーナまでも、私のそばから居なくなってしまう…)
ジーナが失踪したという知らせを聞いて、動揺した伯爵の大きな身体が崩れ落ち、老いた侍女が悲鳴をあげる。主人と有能な部下の危機に、老齢の執事は頭を抱えた。
ジーナはひとり、城から攫った馬に乗って、雪原を駆け抜け、男爵の屋敷を訪れていた。
彼女には、伯爵に報告していないことがある。舞踏会の日、ジーナは男爵から小さなメッセージカードを渡されており、そこに館に遊びに来るよう書いてあったのだ。伯爵が知ると、またメランコリックになってしまうと思ったので、主には伝えていなかった。
「やあ、よくきてくれたね。」
(妻を亡くし、愛人を亡くし……いや、殺しておいて、花嫁に逃げられた男とは思えない陽気さだ)
ジーナは、門まで自分を迎えに来た男爵を見て思う。黒々とした大きな瞳は、相変わらずシャンデリアのような煌めきを、空しく乱反射している。微笑みを浮かべる男爵を、ジーナは冷えた鋭い瞳で見つめた。
「伯爵様からお暇を頂きましたので。」
ジーナは慇懃に礼をし、嘘をついた。今頃伯爵は、小姓が居なくなったショックで、また寝込んでしまっているだろう。
「そうかい、エリクも歳の近い友人ができると嬉しいだろう。さあ、上の部屋でカード遊びでもしようじゃないか。」
男爵はジーナの肩に手を置き、優しく、小さな子供に微笑みかけるように言った。
ジーナは無表情で是非に、と返し、屋敷の入り口の方へと進む男爵の後ろをついていく。
男爵に連れられて、ジーナは屋敷の廊下を歩く。廊下の両側の壁には、狩猟の様子を描いた絵や、裸の男女や少年少女が描かれた絵が、ずっと奥まで飾られていた。男爵に案内され、ジーナは途中で足を止め、男爵が開いた獅子の取っ手の扉から、部屋に入る。
その部屋は、床も壁紙も深紅の布と絨毯に覆われていた。
部屋の中央に置かれた、丸いテーブルを囲む皮張りの椅子の一つに、エリクがすでに腰掛けていた。
男爵に手招きされ、ジーナは空いている席に座り、隣に男爵も腰かけた。
外は小雪が散らついていたが、部屋の中は暖炉の薪が燃えていて、温かい。
ジーナは部屋の中を見回す。壁や棚には東洋趣味の、極彩色と金色に彩られた磁器が何個も飾られていて、壁には鹿の首のはく製、暖炉の上にはフクロウのはく製が飾られていた。
伯爵の城の内装に比べると、グロテスクで派手な装飾だと、ジーナは思った。
「あれ、君はイヴァン様の新しい小姓の?舞踏会でも会ったよね。僕はエリク、よろしく。」
舞踏会で会った時も殆ど会話していない、初対面に近い二人だが、エリクは同い年の少年として、ジーナに気軽に話しかけてきた。舞踏会で会った時は艶やかな表情をしていたエリクだが、こうしてくつろいでいると、年相応に子供らしく見える。
「…ジーナです。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。」
ジーナは無表情のまま、堅い口調で、エリクに挨拶をする。エリクは間近で見ると、本当に天使を受肉させた美しさを持つ少年だったが、美しさに関心が殆どないジーナは、伯爵のように心動かされることはない。
「二人とも歳も近いし仲良くするといい。今度はイヴァンと四人で遊ぶのもいいね。」
男爵が和やかにとりなし、三人はカード遊びをすることになった。ジーナはカード遊びに詳しくないので、ルールが単純な、ジョーカーを最後まで持っていた者が敗者となるゲーム、ババ抜きをすることにした。エリクがカードを切って、全員にトランプを配っていく。
ジョーカーが混じった自分の手札を見ながら、ジーナはふと、エリクも男爵も、自分が少年でなく少女だと気付いているのか疑問に思う。名前を聞けば明白だと思ったので、ジーナはあえて明言はしなかった。男爵は女性も性愛の対象のようだし、どちらでもいいことだ、と時折ジーナに視線をよこす男を見てジーナは考えた。
ババ抜きをしている間は、目を見開いたり、眉を下げたり、やたらと大げさで分かりやすい表情をする男爵だが、ジーナにはその奥の心が見えない。ここに伯爵がいたら百面相で大忙しだろうな、とポーカーフェイスのジーナは、ババを引いては悔しがる男爵とエリクを見ながら思った。
(面倒な事になるから言わないで来たが、あの人は大丈夫だろうか。また寝込んでいないといいが)
男爵が伯爵と城で話した時からなんとなく、男爵は伯爵をおもちゃにしているのではないかと、ジーナは感じていた。なので、彼が殺人鬼であるということを除いても、愛人を寝取り、今の小姓も誘って伯爵の心を弄ぶ男爵に、ジーナは伯爵を会わせたくなかった。
身分が後ろ盾になってくれるだろうから、ジーナはあまり伯爵の身体の心配はしていなかった。しかし、伯爵の心は既に瀕死状態だ。
ジーナはその伯爵の命、そして自分の明日を守るために危険を冒して、男爵を釣る餌となったのだ。
ババ抜きは、ジーナが一番に上がった。
「なんてことだ!私は人の芝居を見抜くのは得意な方なのに!」
「まあまあ。ジーナは今までの相手の中でも一番のやり手ですよ。君は、イヴァン様と違って本当に表情が変わらないね。君とあの伯爵様が睨めっこするのを見たいよ!」
男爵は頭を抱えて、心底悔しがった様子を見せる。エリクは男爵の手を握って彼を慰め、ついでに伯爵とジーナの対極的な性格を冗談めかして笑う。
その後、三人は他のカード遊びやチェス盤で遊び、男爵の冒険譚などを聞いていた時、家令が男爵を呼びに来た。
「急用がある。古い友人が来たみたいでね。少し遠乗りして来るから、しばらく二人で遊んでいてくれ。」
そう言い残し、少し不満げなエリクの頰に口付けてから、男爵は部屋を出て行った。




