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人殺し

血塗れのドレスは、帝国の貴族がこぞって身に着けている、西方の大国風の意匠のものだった。平民ではなく、貴族や領主の妻や娘が着るものだ。


(もしかして、前の奥方の…)


レーシャの頭に、最悪の想像が過ぎる。この数日で男爵を信用し始めていた彼女は、物語の王子のような彼と、美しい屋敷で幸せに暮らす未来を夢見ていた。しかし、誰かの血に濡れたドレスを見てしまった彼女はもう、心の底では男爵を疑い続けている自分から、目を背けることは出来なかった。


「甘い嘘より苦い真実」


祖母が口うるさく言っていた諺を口に出して自分を勇気付け、レーシャは箱の中をさらに探った。



衣装箱の中には、ドレスの他に、少年が身につけるようなズボン、夜着、そして農民が着る昔ながらのシャツもあり、皆大なり小なり血に汚れ、所々破れたり、切り裂かれていた。箱の底の方には、真っ赤に染まったドレスもあった。


レーシャを更に青ざめさせたのは、箱の中の血だらけの服が、4着以上あったことだ。

男爵が殺したのは、妻と愛人だけではなかった。


さらに、レーシャがランタンで部屋の奥を照らすと、一部の石の壁にも、赤茶けた血がこびりついているのに気がついた。よく目を凝らすと、壁に飾られていた短剣の刃先にも、置物だと思っていた昔の拷問具にも、全て血の跡が見える。


「あ、あ…」


レーシャは、地下室にある全てが残虐な行為の痕跡であることに気づき、身を震わせた。あまりの恐ろしさに、彼女は悲鳴も出せなかった。

血塗れの地下室の上で、この数日優雅に暮らしていたことも、人殺しの悪魔を物語の皇子のようだと思って愛しそうになっていたことも、若い彼女には耐えがたい残酷な事実だった。



ガタン、


「ひっ」


どこかで物音が聞こえた気がしたレーシャは、思わず壁に立てかけてあった棺桶の後ろに隠れる。先ほどの勇気は何処へやら、あまりの恐怖に、レーシャは身がすくんでいた。

男爵が帰ってきたら、彼女もこの地下室で殺されてしまうのだろうか。あの衣装箱の中の服の持ち主たちは、ただ命を奪われるだけではなく、散々いたぶられて、殺されたのだ。その様子を想像してしまい、レーシャはがたがたと震える。

そもそも、男爵は何故身を危険に晒すようなことを、レーシャに鍵を渡すようなことをしたのか。

彼女は考える。男爵はあまり多くの部屋を見るな、と彼女に言った。そして、父と親しい男爵が、お転婆なレーシャがそう言われて、どのような行動に移るか予測できていた可能性に思い当たる。


もしも鍵を渡したのは、彼女をここにおびき寄せる罠だったとしたら?


自分はもう喉元に剣を突きつけられている。レーシャは今の状況を理解した。

そう思うと、恐怖に動揺していた頭の中が落ち着いて、冷静に考えられるようになった。


(男爵は、今日の日没前、あと数刻で帰ってくると言っていた。でも、実際はもっと早く戻って、この地下室まで来るかもしれない。今から急いであの長い階段を登って、重い本棚を戻して、男爵の帰宅に間に合うかしら。)


(屋敷に居るエリクも、男爵の殺人に協力しているかもしれないわ。もし、彼が男爵の罪を知らなかったとしても、私が書斎に行ってしばらく戻ってこなかったことや、隠し扉を発見したことを告げ口するかもしれない。)


コツン、


遠くの方で響く、誰かの足音がレーシャの耳に届いた。レーシャの頭は、かつてないほど速く回る。


(男爵の屋敷は当世風だけど、こんな無骨で立派な石造りの地下室、最近掘ったとは思えない。昔の武具や拷問器具もあるし。)


コツン、


(森の中に男爵の屋敷があるのも、昔の砦だか城だかを建て直したからだと聞いたわ。数十年前まで、ここはコザークや皇帝、西の国王が争った戦場だった。もし、この地下室がその最中に使われていたものだとしたら…)


レーシャは足音が大きくなる中、生き延びるという決意を持って希望の糸口を探し、おぞましい遺物が転がる部屋の壁中、床中を大急ぎで探した。


カツン、カツン、カツン、


足音はどんどん大きくなってきて、もう入り口の近くまで来ている。

地下へ降りてきているのは男爵だと、レーシャは確信した。


(ない、ない、ない………………あった!!)


「私の奥様?」


男爵の声が地下室に響いたまさにその直前、レーシャは床のタイルの一部をずらし、脱出用の地下通路を発見した。


レーシャは迷うことなくドレスをたくし上げ、穴の中へと入り、男爵に音が聞こえていないことを祈って、タイルを戻す。


穴の中は、大人の男一人がようやく通れる大きさで、邪魔なドレスを着たレーシャでも何とか通ることができた。男爵が追いかけて来ていないことを神に祈りながら、レーシャは穴の中を死に物狂いで這って進む。

どれくらいの距離を、どれだけの時間進んだのか。日光が届かない暗闇で、出口があるかも分からない地下道の中を、レーシャはとにかく進んでいった。


(百年近く使われていないもの。もう出口が塞がってしまっていても、不思議ではないわ。)


それでもレーシャは、出口があることを信じて進み続けた。


そして、レーシャが息切れして、足も手も動かなくなりそうな時、土まみれになったレーシャの肌に、冷たい風が当たった。頭上を見上げると、光が差しているのが見えた。


出口は塞がっていなかったのだ。




沈みかけの太陽の、オレンジ色の光を浴びながら、レーシャは地上に生きて出られたことを、神に感謝した。

地下通路の出口は、男爵の屋敷がある森を抜けた先、小川の手前にあった。男爵は彼女が姿を消したことに気がつき、すでに屋敷や森の中を探し回っているだろうと考えたレーシャは休むこともなく、氷が張った川を何とか渡り、空が暗くなっていく中、森の遠くへ向かって歩いて行った。


幸いにも雪は降っていなかったが、外の空気は冷え切っていて、レーシャが身に付けている、室内着のドレスでは夜を越すことも難しい。


(男爵に見つからなくても、凍死だわ)


それでも森へ戻るわけには行かず、ひたすら歩いたところで、幸運なレーシャは商人の一行に出会った。商人一行は、凍え死にそうなレーシャを見かねて、毛皮の上着を貸してくれた。

理由あって乱暴者から逃げており、庇護を求めているとレーシャが話すと、商人達は「幽霊伯爵」と噂される伯爵が一番近い権力者であると言い、きっと匿ってくれるだろうと言った。そして、その城の前をちょうど通ってきたのだと、伯爵の城までの地図を書き、レーシャに渡してくれた。


(この親切な人たちに頼めば、家族のところまで連れて行ってくれるかもしれない)


地図を貰ったレーシャは、その方が道すがら男爵の追っ手に捕まる可能性は低いとも思った。


(でも、お父さんは私の話を信じないで、男爵のところに戻すかもしれない。)


しかし、レーシャは父親の男爵びいきを思い出して、家族の元へ戻ることは諦めて、「幽霊伯爵」を頼ることにした。風変わりで人嫌いの伯爵の噂を耳にしたことはあったが、幽霊でもなんでも、悪魔から逃げ切るためなら縋りたいと思った彼女は、身につけていた貴金属と引き換えに、商人たちから一頭馬を借りた。


彼らが彼女を襲わない善良な商人であったこと、街で取引を終え、荷を下ろしていたこと、数々の偶然に感謝しながら、レーシャは長い金髪が解け、風に乱れるのも気にせず、夜の闇の中を駆けて行った。

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