午後のさえずり
ハヴルィーロの姉は、使用人に菓子と飲み物を持ってこさせ、彼の部屋にある、小さな円卓の周りの椅子に座った。姉が屋敷に居た時は、父や兄が不在だったり取り込んでいる時を見計らって、姉弟はよく二人だけのお茶会を開いていたものだ。ハヴルィーロは久しぶりのお茶会に嬉しくなって、笑顔を浮かべながら、姉と向かい合う席についた。
「それで、サシュコーと言ったらまた他の女と…」
「義兄さんはひどいな。こんなに美しくて優しい奥さんが居るのに。」
「そうでしょう!まったく、あのおとこったら、自分がどんなに幸運なのか分かっていないのよ…」
肉団子を頬張りながら、蜂蜜と果物のジュースの入ったカップを何度も持ち上げて飲み、姉はかしましく弟に夫の愚痴をこぼす。しかし、ハヴルィーロにとって、姉の声は父や兄と違って、高くもなく低くもなく、小鳥のさえずりのように美しい声だったので、その愚痴は心地よい子守歌のようだった。
「ところで、ハヴルィーロも、もう十七歳でしょう。誰かいい人はいないの?聖職者にされる前に、遊んでおかないと。それに、もしかしたら、帝国の貴族だか、異国の娘だかをつかまえたら、聖職者にならずに済むかもしれないわ。」
姉はウズヴァールをすすりながら、目線を上げて、とぼけた弟の顔を見る。ハヴルィーロは困ったように笑った。
「姉さん、僕は聖職者になるのは別に嫌じゃないよ。軍人や百姓や、宮殿でへつらう連中よりは、よっぽど僕に向いていると思う。それに、姉さんや母上より素敵な女性に、中々会えないんだ。」
弟の答えを聞いて、姉はため息をつく。
「貴方は心も顔も声も美しくて、賢くて、わたしに似ているけど、そこが唯一の欠点ね。母上や私の役割を、他の子に求めるのはおやめなさい。…中々わたしほど外見も中身も美しい女性はいないけれど、気立てがいい方は意外に貴族にも居るものよ。サシュコーの従姉妹も可愛らしいし、今度紹介してあげましょうか?」
「いや、いいよ姉さん、今は聖歌隊の練習もいそがしいし…」
姉のお節介を、弟は首を振って、やんわりと断る。その様子に、姉は疑いを抱いた。
「ハヴルィーロ、ほんとうは居るんでしょう、いい人が!ぜったいに父様や兄様には秘密にするから、わたしにだけ教えて!」
身をのりだし、眼前に迫る姉に、弟は眉を下げて困った顔をする。
「その、恋人ではなくて片想いのお方だし、なんていうか・・・・・・」
弟のばつの悪い様子に、姉は察した。何かを壊した時や、同級生に喧嘩で負けた時、父や兄の叱責や嘲笑を恐れているときの顔だ。
「もしかして、その方は男性なの?」
姉の言葉に、ハヴルィーロはため息をついた。小さいころから、彼が姉に隠しごとが出来たことはなかった。
「うん……。ちょうど、姉さんくらいの歳の、男の人だよ。」
あきらめてハヴルィーロが告白すると、今度は姉の方が少し困ったような顔をした。長いまつ毛に縁どられた瞳が、ぱちぱちと瞬きをする。恐怖や嫌悪の感情はなく、動揺もあまりしていないが、何かを思案している顔だ。
「まあ…ハヴルィーロったら…。そう…。でも、あなた、子供のときは、女の人が好きだったわよね?」
「あの頃は、とにかく父上や兄上みたいな男性がきらいでこわくて仕方なかったし…。僕は、あんまりその人の性別は気にならないんだ。どうせ聖職者だから、結婚もしないし、子供をつくる必要もないから。」
「まあ……。そう………。でも、それもそうね。男の人と結婚したって、かならず幸せになれるわけじゃないわ。」
姉は達観した弟の様子に少し戸惑ったが、新しいヴァレーニキを頬張って食べながら考えたあと、あっさりと理解を示した。
「それで、どんなお方なの?その人は」
浮気症の夫につかれた姉は、弟の甘酸っぱい恋の話が聞きたいようだ。フォークを置いて問いかける姉に、弟は照れた表情で、伯爵のことを話し始めた。
「あらまあ、弟の恋のお相手が、「幽霊伯爵」だなんて!でも、近頃帝国でも耳にしたわ、あのお方のことは。」
「失礼なあだ名だよ。昔何があったかは分からないけど、立派なお方なのに。」
少し憤慨した様子のハヴルィーロを、姉は微笑ましく見つめる。
「でも、伯爵様となると、ご結婚もされそうだけど。色んな方の縁談を断っているそうね。」
「イヴァン様は女性嫌いなんだって。その…噂だと、前は少年の愛人が居たって聞く。」
「まあ…。本当にいい人なの?伯爵様は。年が離れていたり、遠くに居るお方は、どなたでも輝いて見えてしまうものよ。かわいいハヴルィーロ、姉さんはあなたが心配だわ。」
姉は眉を下げ、可愛らしい、困った表情で、弟の顔を見つめる。ハヴルィーロは首を振った。
「大丈夫だよ、アンナ姉さん。あの人が、そんな悪い人なはずがないよ。小姓との関係を、性根が腐った奴らが勘違いしただけさ。今の小姓とだって、そういう仲には見えないし…。」
いつも伯爵の隣に居る、不愛想な、少年のような少女の姿を思い浮かべながら、ハヴルィーロは言った。伯爵は何故だかあの少女を信頼しているようだが、ハヴルィーロが見る限りでは、お互い身体に触れることもないし、懸想をしている様子もない。純粋に、主人と従者の関係に見えた。
「そうかしら…。あなたが傷つけられるようなことがないのなら、いいけれど。伯爵様が貴方に想いを返してくれる可能性があるのは素晴らしいことだけれど…。私たちより地位が上だし、あなたよりも歳上。用心に越したことはないわ…。伯爵様に何かアプローチをするのは、今のご様子だと、しばらくは結婚もなされなそうだし、あなたが大人になるまで待ってからにするべきよ。」
「姉さんは心配性だなあ…。大人って、僕はもう十七歳なのに。」
「まだ十七歳だわ。貴方は賢いけど、その歳ではまだ、どうしたって知らない世界があるの。」
軽く笑って受け流そうとしたハヴルィーロの頬に手を当て、彼と目線を合わせて、真剣な表情で姉は語りかけた。ハヴルィーロは、視線を逸らすこともできず、姉の青い瞳の中に映る、自分の姿を見る。こういう時の姉は、逃がしてくれない。
「・・・・・わかったよ、姉さん。…元から、僕は、あのお方の恋人になりたいなんて身の程知らずなこと、思ってもいないから…。」
「違うわ、ハヴルィーロ。貴方が大人になって、そのお方が本当にいい方だったら、告白するべきだと思うわ。でもね、貴族の大人は怖いから、気を付けて欲しいというだけなの。」
「うん、アンナ姉さんが僕を大切に思ってくれているのは分ってるよ。ありがとう。」
ハヴルィーロは立ち上がって、ばつの悪い顔をしている姉を抱きしめた。
「あなたはいい子ね、ハヴルィーロ。」
アンナは微笑んで、彼に抱擁を返す。
彼女は気が付いていなかった。昔、姉を泣かせた男には何もするなと言われたのに、彼の悪い噂を流した時、姉に何もしないと誓った時と、弟が同じ顔をしていることに。
(大人になるって、あと何年先のことなの、姉さん。)
姉の温かい体温を感じながら、ハヴルィーロは焦燥感に駆られていた。
(五年後、十年後?そんな先まで待ったら…)
(イヴァン様は、僕以外のだれかと、ヤドリギの下に居るかもしれない)
少年の腹の底で、向ける先のない嫉妬の炎が沸き上がったその時、なぜだか分からないが、ハヴルィーロの頭の中に、あの無口で無表情な平民の少女の姿が浮かび上がった。




