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恋の至極(しごく)は、忍恋(しのぶこい)。

作者: 秋葉竹

エッセイ集『妄想、甚だしい』にて投稿済みの駄文です。

ちょっと、最近、『長編』のエッセイ集の中に投稿するのではなく、『短編』でエッセイを投稿することに目覚めはじめまして。

ほら、最近、ちょっと読んでいただき出したのかな、とか、自信持ちそうになってたら、全然そうじゃなくて、ただの勘違いだって気がついて、なら、そのときの「ぬか喜び」(って、言葉、通じるのかなぁ?)を返せッ、と、ちょっと、自分自身にムカつき、こんなままじゃあダメだと、思いたちまして。

あらためて、そのエッセイ集を読んでいただきたいと、『短編』で興味を持っていただきたいと、思っておる次第で、あります。


で、こういう文章を、投稿します。


もし、ご興味をお持ちいただけたら、嬉しいなぁ!(と、可愛い子ぶりっ子)と、思っております。

よしなに。

ですです。





私の考えではないが、こういう話がある。

引用は、江戸期、佐賀藩にて作り上げられた思想書、『葉隠はがくれ』の中の一節。


葉隠といえば、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一文が有名だが、今回はその話ではない。


「恋の至極しごく忍恋しのぶこいと見立てそうろう。逢いてからは恋の丈が低し。一生忍んで思い死する事こそ恋の本意なれ」

ほんとうの恋は、恋する相手に指一本触れちゃいけない、どころでなく、会うことさえしちゃダメだ。

とも取れる文面だが、おそらくは、そうではない。

ちゃんとした訳を読んだわけではないので、我流の意訳だが、こうではないかと思われる。


まず、言葉の説明だが、「会う」ではなく「逢う」であるところに注目。同じ「あう」でも、意味合いは大きく違っていて、「会う」は普通に「あう」ということだが、「逢う」の場合だと、会って、肌と肌を重ね合わせる行為に及ぶ、までを含んで『逢う』という使い方をしていたのではないか。

つまり、「逢いてからは恋の丈が低し」というのは、その愛情行為に及んだあとは、恋する心の熱が冷めてしまう、というような意味を持たせているのではないか。


「一生忍んで思い死する事こそ恋の本意なれ」は、片想いというわけでは決してなく、相思相愛をお互い痛いほどわかっていながら、一度もそういう行為に及ぶことのなかった(いわゆるプラトニックな?)恋こそ、もっとも美しい想い出と、強いまま衰えない恋心を、その当人たちに残してくれるというような意味をもつ言葉なような気がしているが。


ちょっとなに言ってるのか、わからないかもしれないが、要は、ほんとうの恋って、人生賭ける価値もある、って、言っている。

と、僕のかってな解釈だが。





お読みくださり、誠に有難うございます。

またお会いできる日を楽しみにしています。

でわ。

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