001
教室の窓から、青い空を見上げる。
そこには薄く伸ばした白い雲が広がっている。さば雲……という名前だったはず。
秋が近づくとこんな風になるらしい。
ずっと前に先生が話していたような気がする言葉をぼんやりと思い出しながら、昨日の光景を頭の中で再生した。
あの後、天使はすぐに窓から離れてしまって、僕は姿が見えなくなったと同時に我に返って早足で帰った。
天使のように可愛らしく見えたその人物は、多分僕と同じくらいの年齢か少し下の少女。
はっきりと見えたのは黒髪くらいだったのに、妙に頭に残って離れない。
窓辺の席で、ただただ彼女のことを考えていると、いきなり肩を軽く叩かれた。
「奏、授業終わったぜ?」
慌てて振り向くと、クラスメイトの陽斗が心配そうな顔で僕を見てる。
「ん、あ、ああ、ごめん。ありがとう。」
知らない間に騒がしくなった教室を見渡して、一度も手を付けていない筆箱とノートを鞄に入れた。
「お前、大丈夫か? 疲れ溜まってんじゃねーの?」
「平気だよ。じゃあ、僕行くね。」
いつも通りに笑って背を向けると、また肩に手がかかる。
「無理すんなよ。何かできることあるならいつでも言え。」
「うん。ありがとう。」
本当に心配してくれいるのを分かっているから、僕は顔だけ彼に向けて頷いた。
早足で教室を出て、玄関に向かい、学校を出る。
風にはまだ夏の香りが残っていて、空も明るかった。
一度家に帰って、母さんに届けるものを鞄に詰める。
そして、すぐに家を飛び出し、自転車に跨って、通い慣れてしまった道を走った。
「ねぇ、母さん。」
「うん? なあに?」
持って来たものを片付けながら、ふと昨日の彼女のことを聞こうかと思った僕は首を振る。
なんだか聞くのが少し照れくさいと思ってしまったからだ。
「ううん、何でもない」
母さんは「どうしたの、気になる。」と笑った。
入院当初は起き上がれもしなかったが、最近はよく座っているらしい。
このまま順調にいけば、再来週にでも退院できるそうだ。
「何でもないって。あ、ゼリー買って来たよ、食べる?」
「えぇ、ありがとう。」
これ以上詮索されないように、買ったばかりの冷たいミカンゼリーを押しつける。
そして、席を立った。
「もう帰るの?」
寂しそうに聞く母親に首を振って微笑んだ。
「ちょっとトイレ。」
そう返すと、彼女は頷く。
やはり、一日ずっと一人でいるのは寂しいのだろう。
僕が来ると、母親はいつもとても嬉しそうに笑った。
安心した様子の母にもう一度笑みを向けてから病室から出て、昨日の窓から“あの部屋”の位置を確認する。
今日は窓は開いていないようだったが。
けれど、僕の足は確かに“あの部屋”の方向に進んでいる。
病室に入るわけではない。
そんな勇気、僕にはないし。
前まで行くだけ。
行ってどうするって話だけれど、行ったら、とりあえず名前くらいは分かる。
兎にも角にも、僕は何か一つでもいいから彼女のことを知りたかった。
悪いことをしているわけではないのに、なぜかスリルを感じながら歩く。
母親の病室の前よりずっと静かで人気のない廊下をゆっくりと進んで行くと、突き当たった。
左を向けば真っ直ぐ扉と対面するこの角部屋が多分、彼女の部屋。
どうして横を向くだけにこれほどの勇気がいるのか。
僕はぐっと拳に力を入れて、左に半回転した。
「…………天野、司……。」
部屋は個室なのだろう。
一枚しかないの白いネームプレートには、綺麗な文字で『天野 司』と印刷されたシールが貼っていた。。
どうやら、彼女の名前は『天野 司』と言うらしい。
本当に天使みたいな名前だな、なんて思いながら扉を見つめた。
この先に彼女がいる。
耳を欹てても物音一つ聞こえないのは、彼女が寝ているからか、それとも、部屋にいないか。
窓も閉まっていたところから考えると、きっと後者だろう。
だから、目の前の白い分厚い扉をノックすることも、ましてやその取ってに手を触れることもない。
そしてそんな時は一生ないだろう。そんな勇気僕にはないし。
それに今は名前を知れただけで満足だ。
心に大きな達成感を得て踵を返そうとした時、耳に優しいソプラノボイスが届いた。
「その病室に、何かご用ですか?」
慌てて振り向くと、僕を不審そうに見る、昨日の“天使”らしき人物が視界に入る。
「……え、あ……いえ……。」
僕が慌ててブンブンと首を振ると、彼女は首を傾げて歩み寄ってきた。
「ここの病院に入院してるんですか?」
手を伸ばせば届きそうな距離で、少女の足は止まる。
初めて見た彼女は、やはり黒い髪を肩にかかる程度まで伸ばしていた。
幼さの残る顔、僕より低い背。同い年くらいかと思ったけれど、年下のような気がする。
僕を見上げる焦げ茶色のどんぐりみたいなまん丸な目に思わずたじろいだ。
「いや、母親が、入院してる、だけ」
「そうなんだ」
焦りを隠そうとすると言葉が詰まった。
なんとか言葉を発した僕を少女は頭の上からつま先まで眺めて、また僕の顔を見上げた。
頭一つ分くらい小さい彼女は、またこてん、と首を傾げる。一つ一つの動きが可愛い。
「何歳ですか?」
「え、えっと……17歳、です。」
「じゃあ、二つ上だね」
答えると、少女は嬉しそうに笑った。
「私、天野司です。あなたは?」
「い、井原奏。」
「奏くん?」
少女―司―の可愛い声が僕の名を呼んだ。
僕は、もう喉が渇いてしまって、頷くことしかできない。
そんな僕に気付いた風もない司は両手を胸の前で組んで、僕を真っ直ぐと見つめた。
「私の、お友達になってくれませんか?」
半ば懇願するような目に、僕は咄嗟に首を縦に振る。
そんなの願ったり叶ったりじゃないか。
何度も頷く僕に、司の不安そうな表情はみるみるうちに花が咲いたような笑みに変わった。
「ありがとう!」
そのまま僕の右手を取って小さな両手でぎゅっと握る。
「よろしくね、奏くん!」
「う、うん。」
突然訪れた司の体温に戸惑いを隠せずぎこちなく頷くしかできなかった僕とは反対に司はにこにこと笑ったまま後ろ振り向いた。
今気付いたけど看護師さんがいたんだ。
まだ年若い女性の看護師は僕たちの様子を微笑ましそうに見ていた。
「お友達できた!」
彼女を見て笑う司に看護師も笑って頷く。
「よかったね、司ちゃん。」
「うん。」
看護師は司の隣まで歩いて僕を見る。
「司ちゃんをよろしくね、奏くん。」
姉が妹を頼むような優しい声だった。
「はい。」
僕が頷くと彼女は目を細めて笑み、司の背中にそっと手を当てる。
「さ、そろそろお部屋に戻ろうか。」
「はーい。」
素直な返事をする司が看護師から視線を外し、再び僕へと向けた。
「いつでも遊びにきてください!」
「うん。明日行くよ。」
僕の言葉にとびきり嬉しそうに目を輝かせると、小さくバイバイと手を振り、促されるまま病室へと入っていった。