No.4
今度は足が動いた。
さっきは動くことも出来なかったが、つい先ほどの映像が罪悪感のように繰り返されて、義務感にも似た感情で足が突き動かされていた。見栄も何も無く、ただただ人と話をしたいという、こんな状況には似つかわしくない事もふと思っていたが。
雄叫び、そして悲鳴の聞こえてきた方向。それと、音量と時間を考えるにそこまで遠くないはず。出来れば、出来れば女性と思わしき人物だけでも助けたかった。……こんな俺が助けに入ってどうにかなるかなんて事は一切合切考慮の中には無かったが。
草木をかき分け、震える体に鞭打って前に進んでいく。
そうして、木々の向こう側に見えたのは、幅3mくらいだろうか。それぐらいの道が左右に延びていて、そのど真ん中にその女性はいた。その目の前には例のモンスターも聳え立っていたが。
「いや、いやぁ……」
「ガァッ!」
まさに今、その凶刃とも言うべき鋭い爪が振り下ろされようとしていた。直前に見た、真っ赤に血塗られて倒れ伏す男性の右腕が、力なく地に垂れていく五本の指が、そんな光景がフラッシュバックする。元は綺麗な女性だろうが、恐怖で歪んだ表情と死んでしまった男性とが重なって見えるなんて。
──攻撃魔法はダメ。範囲の広いものはもちろん、熊野郎と女性との距離が近すぎる。そもそも、魔法を使ったところでどれぐらいの範囲に効果が及ぶのかも分かったもんじゃない。
かと言って……この場に相応しい魔法を即座に思いつけわけがない。
何か……何か手段は無いか、なるべく女性を傷付けずに熊野郎だけ……いや、待てよ? 熊野郎から女性を離せば良いだけなら何とかなるかもしれない。
「う、ウィンディ!」
風魔法の中でも初歩の初歩。
ただ風を起こすだけに特記したような魔法。いや、それ以外に何も追加効果を発揮するわけでも何でもないのだが。ちょっと吃ってしまったのは、強引に潤った口の中が緊張ですぐに乾いてしまったからだ。
効果はすぐに目に見えて現れた。
道の反対側に生い茂っている草のほとんどが風によって靡き始め、枝が揺れ、末端にくっついている青々とした葉が散っていく。突然の声、そして風に、熊野郎はぴたりと動きを止めて顔をこちらに向けたのだった。
その双眸が俺の事を捉えている。視界に入れるだけじゃなく、しっかりと狩るべき獲物として捉えていると考えるだけで、怖気が走る。
一瞬、されど一瞬。
熊が振り下ろそうとしていた腕が止まったその瞬間に風が爆ぜた。爆発と言っても過言じゃない爆風が吹き荒び、土埃を舞い上がらせた。思わず腕で顔を覆ってしまうぐらいには強烈な風だった。……だけど、これで彼女と熊の距離を離す事が出来たのかと問われると、無理だろうと思ってしまう。
だから、今度は──
「ガァアアァッ!」
「ソーライズ!」
ただの咆哮一つで土埃が吹き飛び、熊野郎が姿を現した。
完全に俺の方に顔を向け、怒り狂っているようにも見える。その足下には蹲っている女性の姿が。この熊にしてみれば一瞬で潰してしまえる程度のものでしかないだろうが、それでもその命を見逃してくれたことは、ダメージ云々を度外視して風魔法を使って良かったと自己満足させてくれる。
それに、熊野郎と女性の位置関係を、土埃で見えなくなってしまったその距離感を明確に掴ませてくれたことだけは感謝しよう。まだまだ魔法を使いこなせはしないが、それでも魔法を使えるというアドバンテージが、あってないような自信に繋がっていた。
咆哮とほぼ同時に叫んだ土魔法。
これまた初級魔法。ただ地面を隆起するだけという認識の魔法だが、こと現実問題としてこの魔法を使ってみると、ただ土が迫り上がると表現するのは可笑しな話だ。
俺一人の人力じゃどうにもならないレベルで土が盛り上がる様は、見ていて感嘆の吐息を漏らしてしまうほど。うまいこと、女性と熊との境目に土で出来た壁を作ることが出来た。まったく使い勝手の分からない魔法を使ってよくやるものだと、自画自賛して。
「グァアアッ!!」
「ゴ・ラィルド・メイシング!!」
完全に俺のことを獲物として認定しただろう熊は、横で隆起する土なんものに目もくれず、猪突猛進に駆けだした。合わせて、俺も魔法を叫び上げる。この身が、最後にプレイしていたゲームのプレイヤーと同等のレベルで魔法を使うことが出来るのであれば、上級魔法だって簡単に使えるはず……!
虚勢を本物の威勢へと昇華するための魔法。
勢い余って熊に向かって突き出してしまった右腕。その右手の頂点から数cm前に、光が迸った。その光は一瞬で精密なまでの図形となり、それが魔法陣だと理解するのも束の間、熊と同じぐらいの直径まで大きく拡大した円の中央、閃光。
「ガ、ガァアアァアッ!?」
思わず目を閉じてしまうほど激しい閃光の後、熊の咆哮。いや、悲鳴にも雄叫びに手で耳を塞ぐ。生と死の狭間にいるかもしれないこんな局面で目と耳を塞ぐなんて、と思ってしまうが、平和的な生活をただ享受してきた矮小な小市民には途轍もなく似つかわしくない状況だ。本能的に視覚と聴覚を自ら塞いでしまった。
数秒して、瞼の裏まで貫こうとしてくる強烈な閃光が収まった。
ゆっくりと瞼を開ける。目を閉じていたのに少しクラクラする。何とか倒れないよう足腰に力を込め、目の前を見据えるとやはりそこには熊の姿が。
ただ、さっきまでの熊と様子が違うところがある。あんなにも強烈な咆哮を上げていたというのに、今は静かに仁王立ちしているだけだった。そして、その巨躯を覆っている体毛の所々が焦げ、煙を上げている。正直、あれだけの雷を直に喰らったのにこの程度の損害で済んでいるってのは絶望的なまでの状況なのだが。
ちらと熊の後ろ。女性がいたところに作った土壁はボロボロに崩れていた。その向こう側に座り込んでいた女性にまで魔法の影響は及ばなかったものの、呆然とこちらを見ているその顔、涙と涎で汚れたのだろう所に土埃が付着して、とてもじゃないが酷い表情をしていた。
女性の安否を見て一安心したものの、未だ静寂を保っている熊の様子が気掛かりだった。俺の知っているゴールデッドベアは、こんな上級魔法の一撃で倒れるようなモンスターではないのだ。だけど、折角作った土壁が崩れているんじゃ同じ魔法を使う事なんてとてもじゃないけど出来やしない。となると……あの魔法、か?
「……グァ」
熊の口から呻き声が漏れた。
もう、考えている暇も無さそうだ。
本来、この魔法が通じるかどうかは一か八か程度でしかないのだが、ある程度熊の体力が削れてると仮定して魔法を使うしかない……!
「スランバー! スランバー! スランバー……!」
「グァ……! グァアアァア……」
連続して魔法を叩き込む。
ここぞとばかりに、本当は連続して使えているかも分からない魔法を連発する。唱えたところで視覚的に魔法が効力を発揮しているかわからないのだからしょうがない。相手を睡眠させるだけの魔法なんだから、熊の動きが沈静化して、やっとその効力が本物だったかどうかを判別できるのだから。
体の中から力が抜けている感触がする。
上級魔法を使ったときでさえ感じなかったこの感覚。おそらく、魔力を使っているのだろうか? 魔力についてはマナとかオドとか、内なる力が気で、外から力を吸収して放つのが魔法だとか。なんだかよくわからない理屈がこの世界にはあるのだろうか。
あったとしても、俺には関係ない。
そもそも、魔法の「ま」の字も勉学に励んだ経験は無いのだから。
魔法を唱えている間も熊野郎は前に進んでくる。
やはり、上級魔法一発で仕止めるのは無理だったのだ。無情にも一歩。また一歩と確実に距離を詰めてくる熊の姿に、俺は心底恐怖した。たまらず、魔法を唱える口調も大きく、早くなってしまう。
「ガ、グ、ッガァアッ……!」
その巨体が近づいてくる。
もう少しで、その太い腕の射程圏内に入ってしまう。
熊野郎が、攻撃モーションに入った。必死に魔法を唱えてるもんだから、熊の一挙手一投足が画面越しのゲームのように感じてしまう。
「ス、スランバー……! スランバァァッ!!」
──都合5回、睡眠魔法を叩き込んだところで熊の呻き声は無くなり、ふらふらと覚束なくなった足下をそのままに、その場に倒れ伏した。ズシンと大きな音を立て倒れた熊は、暢気にもすぐに鼾をかき始めたのだった。
全力疾走をした直後のように息が荒れている俺とは大違いだ。
それでも、ほんの1m先まで迫っていた熊の姿を見て、一応は命の危機が過ぎ去ったのだと安心して、目線が下がった。
「あ……あれ?」
急に地面が陥没したとか、背が縮んでしまったのかと思ったが、そうじゃなかった。単に、膝から崩れ落ちてしまっただけ。なんて、とてもじゃないが自分の身に起こっている事のように思えなかったってのもあるが。
「あが……!」
そのまま前のめりに倒れ、顔を地面にぶつけてしまう。
まったくもって受け身も何も取れなかったせいで、けっこうな鈍痛が鼻とおでこを中心に広がっている。倒れる寸前で力を込めようとして、しかしまったく思った通りに体は、俺の四肢は身動ぎもしなかった。
「────ッ!」
何か、遠くで誰かが叫んでいるような声が聞こえたような気がしたが、それが誰かもわからぬまま、俺の意識は真っ暗闇の中へと沈んでいってしまった。




