八話
どう考えてもおかしいタイムスケジュールだった。
何度読み返しても、鈴の頭の中は最短ルートが検索できずにいた。
「どうしたらこのスケジュールをこなすことができるの・・どうなってるの・・」
初めに向かったのは、入り組んだ路地裏の隠れた店だった。中に入ってから、和菓子店だったことに驚いた。ショーケースに並んでいないという特記だったので、店員に直接訪ねるとすぐに持たせてくれた。
時間はちょうど時間ぴったりだったので、かろうじて駆け込みセーフだったようだ。
レジで次のタイムスケジュールを確認すると、9時にオフィス街の主要最寄駅西の洋菓子店であった。鈴のいる位置から頑張って走らずに行くためには、競歩で行かなければならないレベルの場所である。
鈴は頭の中で何度かエア上司に叱咤激励されながらも、それを購入することに成功した。次の店はやや近い場所にあったので、地図を見ることなく行くことが出来た。
次はどこかな、とメモを開くと、次は三つ葉製薬に戻るように書いてあった。だが、そのあとでまだまだ数軒回らなくてはならないようだ。どうやら一度帰社して再び買い出しに向かわなければならないシステムのようであった。小さくため息をついてから時計を確認すると、すぐに戻った方がよさそうな時間になっていたので早足で会社に戻り、事務所へ向かった。
「失礼します。神木さん、一旦戻るように書いてあったので戻りました。どちらへ持っていけばいいですか?」
「ご苦労様。和菓子は社長室、洋菓子は研究室、もう一つはこちらへ渡してください」
神木は鈴から紙袋を一つ受け取ると、中身を確認する。それを自身のデスクの端に寄せると、メモを渡した。
「社長室は分かると思うけど、研究室はここよ。このメモに書いてあるからその通りに行って」
「はい、それを届けた後はまた買い出しにそのまま行ってきてもいいですか?」
「結構よ」
一礼をしてドアが閉められた後、事務所の中はワッと沸き立った。
「すげーじゃん、やっぱり間に合ったか。午前のこれ突破したなら、午後は余裕で戻ってくるんじゃねーの?」
氷上を皮切りにして、賭けている面々は思い思いに口に出す。
「午後になったらバテたりしてな」
「心配です・・日和さん大丈夫でしょうか」
「舞原は心配性だなー、そこがいいんだけど」
新藤は鈴を茶化しながら、舞原にちょっかいを出すのを忘れない。舞原も「もう!」と照れながらもまんざらではない顔をしている。
「あー早くもっとしゃべりてぇなー。超楽しみなんですけど。1週間ってこんなに長かったっけ」
「ちょ、柳瀬君やめてね?職場恋愛なんてするもんじゃないんだからね!」
柳瀬がつぶやくと、すかさず神木が詰め寄る。それをちらりと横目で見てから、盛大にため息をついた。
「社長に惚れてる上司からの説教ほどありがたみのねーものはないっすねぇ」
「なっ!わっ!のっ!!」
これは神木以外全員が知ってて触れなかっただけなので「今更どうした」という顔をして神木を見ていたが、本人は隠せていたと思っていたようであった。真っ赤な顔をして言葉を探す神木は、何も探せなかったようでそのまま口を閉じてしまった。
「さ、あとは夕方になるのを待つだけってことだね」
何事もなかったかのように再び仕事に戻る面々は、先ほどよりもやや浮き足立って見えた。
***
鈴は、言われた通りの場所に到着した。
7階の研究室の受付には誰もおらず、その代わりに「御用の方は奥の部屋をノックしてください」と張り紙がしてあった。これでは受付の意味を成していないと思うのだが、研究室への来客が少ないのだろうと無理やり思い込むことにした。
この三つ葉製薬は8階建ての建物になっている。1階は全てガラス張りになっており、受付とエレベーター、エスカレーター、トイレ、応接用の椅子と机しか置いていない。2階から事務所や営業室などが階ごとに独立して入っている。フロアごとに完全に仕事が分かれているためいろいろ捗る部分が多いようだった。
このシステムになったのは現社長になってからだったが、社員には割と好評のようだ。ただかなり大規模なフロアごとの引っ越しだったため、その時は不満が漏れることが多かったみたいだが。
そして鈴は奥の部屋をノックしにいく。もちろんその手には先ほど買ってきた洋菓子の袋が握られている。
コンコン
「失礼します、事務所から来ました。頼まれていた洋菓子を持ってきたのですが」
洋菓子と言った途端に、ドアがパアン!と開いた。中から出てきたのは白衣に眼鏡の集団であった。
「ついに、ついに来ましたね、あなたが、あの、新人の、事務の、日和さんですか」
「え、ええ。初めまして、これからよろしくお願いします」
「ああ、噂にはね、はい、聞いているんですよ、はい、ほんとうにね、はい」
それぞれが、それぞれに何の脈絡もなく話すということがこんなに恐怖を感じることだとは思っていなかった。鈴は若干後ずさりながら営業スマイルを欠かさずに浮かべている。
「じゃあ、これ、これ、もらう、ね、うん、ありがと、ね」
「おいしそうだ、ありが、とう、ありがと」
「いえ・・それではお忙しいところすみませんでした、失礼します」
「私が先に、選ぶ、ま、待ちたまえ君たち」
にわかに沸き立つ研究室のドアをどうにかして閉めると、鈴はようやく安堵の息をついた。
「こわかった・・」
胸に手をあてて呼吸を整えると、次に社長室へと向かう。
社長室は8階の最上階ではなく3階にある。社長室と警備室が隣り合わせになっており、3階だけは他の階と違った様相になっている。ちなみに最上階にあるのは食堂と自動販売機と休憩スペースだ。
エレベーターを使わずに階段で7階から降りていくと、下から誰か上ってくるようであった。左側に避けていると、見慣れた頭が見えてきた。
「あっ・・こ、こんにちは。会社では初めましてかな?」
「光葉さん?」
和也がにこりと笑うと、鈴はぱぁっと顔を明るくさせた。
「やっと会えましたね!嬉しいです、休憩に行くんですか?」
「あ・・まぁ、そんなところです」
「フフフーサボってるんですね?光葉さんも隅に置けませんね」
鈴は口元に手を当てて茶化すと、おばちゃんみたいに片手を上下させる。それを見て和也は困ったように笑って見せた。
そこで鈴は自分の役目を思い出す。
「あっ、これから社長室行かないといけないんです。それじゃあまた」
「社長室?何しに行くんですか?」
「えっとこれを渡しに」
少し紙袋を持ち上げて見せると、和也は「そっか」とつぶやいた。
「それじゃあ」
「待って」
階段を下りようとした鈴の手を、和也がつかむ。
「え?」
「あ・・いや、あの・・まだ買うものありますよね?僕これから外回りの仕事の前に早めにお昼食べるんで、よかったら、一緒に、あの」
やや逆光だったため和也の表情がよく見えなかったが、鈴は自分の中で心臓がうるさいくらいに脈を打ち始めたのが分かった。いったいどういうつもりで言っているのか、期待してしまいそうな自分がいた。だが、初日に神木に言われていたではないか。
「・・でも私、1週間は会議室で食べるように指示されているんです。ごめんなさい」
「そ、そっか、そうでした・・。すみません、忘れてください」
鈴は言葉の節々に、この状態になることが分かっていたようなニュアンスを感じたが、それよりも和也が眉をハの字にして落ち込むような素振りをしている事の方が今は重要だった。もしかして期待してもいいのかな、という気持ちが後から後から湧いてくる。
「で、でも!来週からはきっとどこでも大丈夫だと思うので、その時は、ぜひお願いします!」
「・・お誘いしてもいいんですか?」
「もちろんです、むしろ私なんかでいいんですか?」
そこで和也がハッとした顔をして掴んでいた手を離した。見る間に顔が真っ赤になっていった。
「ごめんなさい、手掴んじゃって」
釣られるようにして鈴の顔もどんどん赤くなっていった。頬が熱を帯びすぎて蒸気が出てきているような気さえしてきた。荷物を持っていない方の手で軽く顔を仰ぐ。あまり意味を成している様子はないが。
「い、いえ、むしろもっと握りたいっていうか、あの気にしないでください!あ、あーもうこんな時間です!私続きの買い出しにいってこなくちゃー!」
わざとらしい口調で早口にまくし立てると、鈴は駆け足で階段を下りて行った。和也は一瞬ぽかんとした顔をしてから、急いで手すりをつかんで下を覗く。1つ下のフロア付近に行ってしまっていたが、まだ声は届くはずの距離だった。
「ま、またメール、してもいいですか!」
その声に鈴が顔を上に向けると、手すりから身を乗り出した和也の姿があった。コクコクと何度もうなずくと、大きく手を振られた。鈴も小さく手を振り返すと、そのまま下へと階段を下りていくのであった。
***
「で、何かあったのかな?日和さん」
「はい?いえ、特に何も・・」
「そんなに顔を赤くして、何もない事はないと思うんだけどなあ?」
社長室の中に通されると、なぜかそのままお茶を出された。この後でまだ買い出しがあると言っているのに、神木には話を通しておくからとソファに座らされてしまった。どぎまぎしたまま周囲を失礼のない程度に見回すと、なかなかシンプルに豪華な部屋であった。今座っている革張りのソファも、決して安いものではないはずだ。
「日和さんはまだ入社したばっかりでしょ?社長として、ちゃんと新入社員には気を配る必要があるわけだ」
「はあ・・」
「だから、もし辛かったらちゃんと言うんだよ。僕は日和さんの味方だからね」
軽くウインクをする一樹に日和は困惑していた。そして双子の兄弟でもこんなに違うものなのかと驚いていた。もちろんそれぞれにいいところがあるのだが、鈴にはこれほどフランクな人物を見たことがなかったためか、どう対応していいのか手探り状態であった。
「分かりました、ありがとうございます」
「女の子は素直じゃないとねー。ところで、この前会議室でお茶をこぼした書類なんだけど」
一樹は笑顔で鈴に言うが、鈴は言い知れぬ冷たさが背中を伝うのが分かった。
「何か、見たかな?」
「いえ何も見ていません。こぼれたお茶が文字をぼかしてしまって、私では読むことができなかったと思いますし、何より見る気がありませんでした」
一樹は「ふむ」と言って吟味するように鈴をじっくりと見た。たっぷり間があいてから、突然「そうだね」と自身のひざをポンとたたいた。その音でようやく緊張で張りつめていた空気が緩んだような気がした。
「じゃ、買い出し頑張ってね」
「はい。それでは失礼します」
頭を下げて退室すると、鈴は先のことを考えることをやめて買い出しの最短ルートにだけ頭を巡らせた。
社長室の中で一樹はしばらく黙ってソファに座ったままでいた。鈴が出入りした正面のドアではないところから、ドアが開く音がした。
「ん、どした?」
「なんで・・別に日和さんは、特別なんかじゃないのに」
「あぁ。別に?俺も個人的なキョーミだから。新人サンにはやっさしくしないとねぇー」
ニコニコしている目は全く笑っていなかった。和也はうすら寒いものを感じながらも、それを顔に出さずにいる。一樹とは双子だからこそ、お互いの考えていることがなんとなく分かってしまう。あまり気分のいいものではなかった。特に和也にとっては、だったが。
「和也、お前が日和鈴を推してきたときは驚いたけど、あいつはお前にはあわねーよ」
「それを決めるのは自分だけだって、何度も言ってきたじゃないか。それに僕に合わないなら、一樹にも合わないってことだろ」
「ハハハ、違いないね。だけど俺は、俺の好みに仕上げる手腕がある。お前にはどうだ?和也にはなくて俺にあるものは山ほどあるんだからな」
無言でにらみ合いが続く。少しずつ和也が感情的になるにしたがって、一樹は平たんな口調になっていく。和也も自身でそれを感じていたが、口で一樹に勝てたことは今までの人生で一度もなかったので一旦引くことにする。
「そうだね・・でもあんまり一樹が日和さんに手を焼くと、事務所の全員がすぐに訝しむ。一応社長なんだから気を付けてよ」
「お前それ自分に言ってんの?一番特別扱いしてるのは、誰だ?」
ぐっと言葉に詰まると、一樹は満面の笑顔になる。
「さーて、そろそろカワイイカワイイ弟をいじめるのはやめるかな。弟が泣くと兄ちゃん悲しくなっちゃうから」
「・・これ、資料出来たから置いておく」
「お、もう出来たのか。さすがだなー、俺の弟はこの会社の誰よりも優秀だなあ?兄ちゃん鼻が高いぞ」
その言葉に何も返事をすることなく和也は後ろ手でドアを閉めた。その顔には何とも言い難い感情が浮かんでいた。