七話
事務所に戻ってからは、氷上にPC入力の仕事をもらって順調に片づけた。
そうこうしている間に定時になり、研修中の鈴はすぐに帰らせてもらうことができた。
「一週間は定時で帰れるけど、来週からは覚悟しなさい?」
「わ・・わかりました。皆さんお疲れ様でした、お先に失礼します」
事務所の入り口で一礼してから正面玄関へと向かう。
相変わらず冷ややかな口調の神木の本当の姿を、来週見ることになるとは夢にも思ってはいないだろう。
ゆっくりと正面玄関に行くと、朝の警備員が鈴を見かけて声をかけてきた。
「新入社員さん、初出勤お疲れ様です」
「警備員さん!今朝はありがとうございました、警備の方もご苦労様です」
「私はここで立ってるだけだからね。気を付けて帰るんだよ」
「はいっ!」
元気よく返事をして、ようやく会社の外へと出た。
お昼ぶりに感じる外の空気は、夏の蒸し暑さに加えて夕方のけだるい雰囲気が重なって少し足取りが重たくなる。
だが鈴はずっとこの光景を望んでいたのだ。今更ぐちぐち言っている暇などない。
定時で上がったのは少数だったようで、鈴が事務所から出た時にいたその少数もすでに方々へ散ってしまっていた。
鈴もまっすぐ正門から出ようとすると、背後から足音が聞こえてくる。
「ひ、日和さん!」
「光葉さん?!」
そこには和也の姿があった。少しだけくたびれたスーツは、会社終わりであることを示していた。
「はぁ・・よかった、間に合って」
「ど、どうしたんですか?」
「いや、どうってことは・・ないんだけど。今外見たら、たまたま日和さんが見えて・・思わず」
少し照れながら笑うその顔は、間違いなく和也のものであった。
そして、社長の一樹とは顔が似すぎていた。
「そうだったんですね・・ふふっ、ありがとうございます」
「もう仕事上がりなんですね。初出勤はどうでしたか?」
「もー疲れちゃいましたよ!でも、嫌な疲れじゃありません。この先ずっと勤めていくのが楽しみです」
嬉しそうに笑う鈴に、和也もほっとした顔をした。
「そうですか、それはよかった・・本当に」
「でもちょっとだけ残念でした。光葉さん違いにしか会えませんでした」
少しだけ探るように和也の目を見るが、その目は悲しそうに細められただけであった。
「兄に会ったんですね」
「・・社長は、お兄さんなんですか?え、じゃあ光葉さんは・・弟?家族ってことですか!?」
こくりと一度うなずくと、細めていた目を地面に移した。
ぽかんとした顔でそれを眺めている鈴に和也は続ける。
「隠してたわけじゃないんですけど・・いずれは分かることですし。それにお分かりの通り、性格も全く違うんです。兄はとても気さくで、従業員に慕われていて、人望があります。もう今は兄というよりも、本当に社長と平社員ぐらいの関係でしかないんです」
「ほへぁー・・大変ですね、なんだか聞いてしまって申し訳ないです」
「いえ、こんな風に立ち話でするような話じゃないんでこちらこそすみません。でも・・でも、日和さんにはちゃんと知っててほしいなって、思ってたんです」
そう言うとまっすぐに鈴を見据える。
対称にぽかんとした顔を続けている鈴には、あまり深く読み取ることができずに「そうなんですか?」と答えた。
その瞬間和也が鈴の鼻をつまむ。
「ぷふぇっ!」
「ははっ、変な顔!」
いたずらっ子のように笑う和也に、鈴も思わず笑い出す。
「ひどいですねー、そんなことするなんて思ってませんでしたよ・・っと隙あり!」
「残念、届いてませんよ?」
右手を和也の鼻に伸ばしたが、やや距離が足りずに鈴の手は、和也の手の中に納まった。
鈴が「悔しいー!」と言いながらもう片方の手も伸ばすが、そちらも和也の手の中に納まってしまう。
「光葉さんばっかり卑怯ですよ!」
「隙を付けない日和さんが悪いんですよ・・ってごめんなさい!」
和也は鈴の両手をつかみ、さらに距離が近いことに気付くと顔を真っ赤にして手を離した。
それにならうようにして鈴の顔もボッと上気して、お互いに意味もなく手を動かしてしまった。
「わ、私こそすみません、調子に乗りすぎまして!」
「い、いえ、僕も、その、すみません!」
そして、二人で再び笑い出す。
「なんだかおかしいですね」
「本当に、でも・・悪くないですね、こういうのも」
「ですねっ!」
その時どこかでクラクションの音が鳴った。
「あ・・人を待たせていたんだった。今日は送れないんですけど、今度またぜひ」
「はい、ぜひ・・それじゃあまた」
二人は手を振ると、その場から離れた。
***
「おっかえりー。どうなのよ、初出社は?」
「・・ふふふー」
家にはすでに靖春が待機していた。
もちろん昼間のメールで愚痴っていたので、靖春が気を利かせて遊びに来てくれていたのである。
「なによ、昼間はあんなにぐずぐず言ってたのにご機嫌じゃない?」
「帰りにちょこっといいことがあったんだもーん、ふふーん」
「教えなさいよう、教えないと・・ご飯抜きよ?」
「ノー!春様の手作りご飯食べたいです!」
鈴が急いで身なりを家用に変えている間に、靖春は手早くご飯の支度を始める。
「昼間にぐずぐずしてたのは何だったの?」
「あれはねー、同じ職場の人がすごく衝撃的な人ばっかりだったんだよねぇ・・うん、本当に」
身なりを変え終わると、靖春の立つキッチンの近くに座って麦茶を飲みながら話し出す。
「・・社長と和也さんが双子ぉ?本当なのそれ、同一人物とかじゃなくて?」
「本当だもん、光葉さんが兄ですって言ってたから・・」
「ふーん・・?」
全てを話し終わる頃にはご飯の支度もでき、テーブルに並んで食べ始めた。
そして土曜日のデートで気にかかっていたことも話す。
「だからさ、この前土曜日になんだか光葉さんが変だって言ってたでしょ?あれ、最初に来たの社長だったんじゃないかなって思うんだけど・・」
「でもさーどうして社長が鈴のことを気にするわけ?」
「そこが謎なんだよー!」
二人で頭を悩ませるが、特にこれといった事情が見当たらない。
「ふふ・・もしかして、社長が和也さんのことを下僕にしか思ってなくて、勝手にデートするなんて許せない!って思ってたとか?典型的な俺様タイプね」
「そんな酷い人じゃなかったけどなぁ・・。すごく気さくな人で、事務所の人も社長を社長扱いしないぐらいだったよ。そうされても特に怒ったりとかはしてなかったし」
「うーん・・なんでかしらねぇ?まぁでもとにかく初日は頑張れたんだから、あとはとにかく頑張って首にならないように働くしかないわ」
そう言って鈴の頭をぽんぽんと撫でると、ご飯の続きに戻る。
鈴も「頑張るぞー」と言ってご飯をもりもりと食べ進めるのであった。
今日は20時を過ぎると「じゃあ今日は帰るわねぇ」と言って靖春は帰って行ってしまった。
一人になると特にすることがなくなったため、鈴は布団に入ることにした。
ピコン
「・・メールだ、光葉さんから!今日は初出勤がとても充実していたようで良かったです、週末にまたご飯でも食べに行きませんか・・?こ、こ、これってデートなのかな!?今度はお礼とか、そういうこと書いてないもんね!?」
何度も読み返して「お礼」や「お詫び」という文字がないのを確認すると、鈴はすぐに返事を打ち込む。
「週末の、ご飯・・楽しみです、うーんどうしようかな。あっ、今度は・・私も、支払させて・・くださいねっと。これでいいかな!」
送信してから5分も経たないうちに返事が届く。
「支払は僕も譲れませんよ、またおいしいところを探しておきます。19時に前と同じ駅前で・・!美味しいもの食べれるんだー、待ち合わせ場所も前と一緒なら迷わなくて済むし!やったー!春ちゃんにメールしとこ!」
こうして靖春の仕事がまた一つ増えたのであった。
***
翌日も初日と同じような時間に出勤する。
昨日よりは気持ちに余裕があったため、早めだが会社の中へと入って行った。
「おはようございますー」
「おはようございます、研修頑張って」
警備員と挨拶を済ませると、エレベーターを使わずに階段で事務所まで上って行く。
軽快な足の運びであっという間に3階の事務所に到着すると、すでにドアは開いており、中に人影も見えた。
コンコン
「おはようございます」
軽く頭を下げながら入っていくと、舞原がちょうどブラインドを上げたところであった。
びくっと大げさに肩を震わせながら目線だけを鈴に向けて、小声で挨拶を返す。
「お、おはよう・・」
「ええと、舞原さん・・ですよね?昨日そこのデスクに座ってましたよね」
「えぇ、そうです」
それだけ言うと、舞原は足早に事務所から出て行ってしまった。
鈴は「う・・」と次の言葉を飲み込むと、ため息をつきながら自分のデスクへ鞄を置く。
そして事務所を見渡すが、舞原以外はまだ誰も来ていないようであった。
「とりあえずブラインドの続きでも開けますか・・」
舞原が途中のままにしていたブラインドを全て上げると、ついでに窓も開けて換気をする。
窓際に置いてあった花の生けてある花瓶も、花の終わったものを片づけて水を取り替える。
再び窓際に置こうと給湯室から出ると、少しずつ事務所にも出社し始めていた。
「おはようございます」
「おー」
鈴はすれ違う人に積極的に挨拶をするが、その返事は全て生返事のような曖昧なものであった。
段々と気持ちが沈んでいくのが分かったが、まだ働き始めて2日目だ。こんなもんであろう、と自分の中で区切りをつけて花瓶を置く。
20分程で全員がそろうと、ようやく朝礼が始まった。
ここは昨日社長と1対1で話し込んでいた時間だったので、鈴には初体験のことである。他の人にならってメモ帳に業務内容をメモしていく。
簡単な神木の挨拶も含めて朝礼が終わると、皆自分の仕事に取り組み始めた。
「おはようございます氷上さん。今日は私はどうしたらいいですか?」
「・・じゃあ、これを」
一枚の紙を渡されると、そこには買い物リストがあった。
「分かりました、買ってきます。ところで、このリストの横の時間ってなんですか?」
「その手土産が売り切れる時間」
「・・8時30分って書いてあるやつがあるんですけど」
事務所の時計を見ると、8時15分を指していた。
「早く行った方がいいんじゃない?」
「わ、わかりました。すぐに買ってきます!」
鈴は神木に一言声をかけると、足早に事務所を後にした。
そして鈴のいなくなった事務所の中では「鬼の手土産が始まったぞ」と盛り上がっていた。
「俺は買ってこれると思うね」
氷上は神木に500円玉を渡す。
「私も・・頑張ってくれるんじゃないかなって、思います」
舞原も氷上同様に500円玉を渡す。
「マジ分かってないなー。ああいうタイプの子は、張り切りすぎてドジっちゃうんじゃね?」
柳瀬は新藤に500円玉を渡しに行く。
「今回は割と俺の方が多いな・・皆意外と厳しいんだな」
新藤は自分のもとに集まった500円玉を数えると、箱の上に6と書く。
同じように神木も500円玉を数えて、箱の上に3と書いた。
「頑張ってほしいけど・・うう、心配だね・・」
神木は2つの箱を自分のデスクの引き出しに仕舞うと鍵をかける。その鍵を新藤が受け取り、事務所は再び各々の仕事を再開した。