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五話

帰宅すると、靖春がいた。


「おかえりー。デートどうだった?」

「・・うん、なんか大人だった」

「はぁ?何言ってんのよ、あんたも3年前に大人になったでしょうが」


そうじゃないの!と言いながら冷蔵庫から麦茶を出す。

靖春の分と自分の分のコップを持って机の近くに座る。


「最初会ったとき、なんか妙にフランクで変だなーって思ったら、途中でまた元に戻っちゃうし」

「それが大人だったってわけ?」

「違うよー、なんとかっていう場所の、すーっごい高いマンションに住んでた」


靖春はため息をつく。


「あんた、それだけで大人だなーって思ったっていうの?」

「どうせ私はワンルームにしか住んでませんよーだ」


靖春に向かって「いーっだ」と歯を見せるが、それをなんとも言えない顔で受け取る。


「だから前から一緒に住もうって言ってるじゃない、うちに来たら?」

「それはそうなんだけど・・やっぱ、私春ちゃんと一緒にいたら自堕落になっちゃうの目に見えてるし」

「それでもいいって言ってるのに・・」


不満げに靖春がつぶやくと鈴は「甘い、金平糖より甘いよ!」と机をバンとたたいた。


「私が23にして自堕落になってごらん?あとの人生60年ぐらいどうしたらいいの!」

「あたしのお嫁さんになればいいじゃないの」

「今の日本で女性同士の結婚は認められてませんよーだ」


そう言ってから麦茶を一息で飲み干す。靖春がコップに自然とおかわりを注ぐ。


「それにね、自分で頑張りたい。頑張って、春ちゃんみたいに自立するんだ」

「鈴はあたしみたいになってほしくないなぁ?おっぱい取っちゃうなんてもったいないよ?」

「ちがーう!そこじゃない!」


靖春はにやにやしながら鈴のほっぺをつつく。

それを嫌がることなくされるがままになりながら、鈴はしょんぼりとする。


「でもさ、正社員になるのですら時間かったのにさ、私が自立する日なんてくるのかな?慣れる前に首切られたらどうしよう」

「うちに嫁に来たらいいじゃない。歓迎するわよ?」

「もう!そんなこと言わないでよ!おっぱいむしるよ!」


やだ怖い、と言って靖春は両手で胸を隠す。鈴は「はぁ」とため息をついて麦茶を一口だけ飲む。

少し落ち着いたのか、靖春の方を向く。


「いつもそうやって甘やかしてくれるの、すごく感謝してる。ありがとう。だからこそ、私も頑張ろうって思えるんだ。本当にありがとう・・でもすごく不安なんだ。お願い、よしよしして」

「しょうがない子ねぇ、もう・・」


泣きそうな顔をする鈴に、靖春は困ったような、嬉しそうな笑みで答える。

頭を何度か撫でると鈴は思い出したかのように顔を上げた。


「そうだ。私、やっぱり好きだと思う。光葉さんのこと」

「他の男の胸に寄りかかりながら言うセリフじゃないわよそれ」

「春ちゃんはもう立派な一人の女性だよ、レディだよ、大丈夫だよ」


全力で親指を立ててくる鈴に聞こえないように、靖春はため息をついた。

それからいつものように会話を続けてから23時には鈴は寝床へ、靖春は自宅へと帰って行った。








***









月曜日になった。

今日から新しい会社で働くことになり、昨日のうちに新調したスーツに着替える。

まだ新しい会社への道のりが完璧なわけではないので、1時間早く家を出る。

もちろん30分もしないうちに着くのは目に見えているのだが、念には念を入れねばいけない。

なんといっても初めての正社員という肩書に、鈴は朝から感動しきりなのであった。


「鞄よし、スーツよし、靴よし、朝食よし、財布にケータイ家の鍵・・あと戸締りもオッケー」


朝から何度復唱したかわからないセリフを繰り返すと、ようやく玄関から外へ出た。

駅までの時間がこんなに楽しいのは久しぶりだった。

周りの通勤している人となんとなく目で会釈してみたり、同じ朝の空気を共有出来ることですらとても素晴らしいことに思えた。


「はい駅到着、次は電車に乗る前に定期を買う、と」


この手続きは学生の時とあまり変わらないのでスムーズに行うことができた。

次は電車に乗るためにホームの行列に並ばなければならない。ここで並ぶ列を間違えたら大変なことになってしまう。


「間もなくー電車が参ります。白線の内側まで下がってお待ちください」


目で電車の行先などを確認して、自分の並ぶ列が正しいかを判断する。

よさそうであった。

割と長めの列だったため、一度電車を待たなくてはならないようである。これは早めに出てきて正解だった、と鈴は小さくガッツポーズをした。

10分もしないうちに再び電車がくる。朝のラッシュはとても大変だ。

電車にようやく乗り込めたと思ったら、右に左に前に後ろにたまに上に浮き上がることもある。

必死に耐えていると、ようやく鈴の会社の最寄駅へ到着した。


「ふいー・・土日とか昼間に比べて、すっごいんだなぁ・・」


いい汗かいた、と時間を確認する。まだまだ30分は時間があった。

ここで鈴は思いつく。


「そうだ。あのパン屋に行ってみよう」


パン屋から会社までは徒歩5分ほどだったはずなので、とても長いこと悩まなければすぐに着けるはずだ。

鈴は意気揚々とパン屋へ向かった。


カランカラン

「いらっしゃいませー」


さすがパン屋の朝は早かった。通勤客に合わせてなのか、シンプルで食べやすそうなパンがそろっている。

他の客に倣ってものの1分もしないうちに品定めし、レジへと向かう。


「おはようございます、こちら米粉パン1点で230円になります」

「おはようございます。出来立てですか?」


その声に聞き覚えがあったのか、袋に包むために下げていた目線が合う。


「あっ、この前来ていただいた・・」

「はい。この近くの会社に就職することになったので、朝一で来てみました」

「そうだったんですね!もちろん出来立てですよ、温かいうちに召し上がってみてください」


お金を渡すと、鈴は「どうもありがとう」と言って店を出ようとすると後ろから声がかかった。


「初出勤、いってらっしゃいませ!」

「・・いってきます!」


元気に手を振ると、今度こそ店の外に出た。

行儀が悪いが歩きながらパンをほおばる。


「・・・んんんんまっ!!春ちゃん連れてまた来ようっと」


ほかほかの出来立てパンをぺろりと平らげると、再び時間を確認する。

ちょうどいい時間になってきていたので、会社に向けて再び歩き出した。


正門の前には吸い込まれていくように人が入って行っていた。

同時に車も何台か出入りしていた。


「うおおお・・緊張してきた・・」


手が震えるのを止められずに両手をぎゅっとグーに握りしめる。

そして人の流れに邪魔にならない程度にゆっくりと会社の中へ入って行った。

入ってすぐに警備の人に声をかけられたため、素直に「今日から入社します、日和と言います。どちらへ向かえばいいですか?」と答えると、受付の横のドアを開けてくれた。

そのまま奥へと進むと、開け放されたドアの向こうにスーツを着た男性の後姿があった。

それはとても見覚えのある黒髪にパーマのかかったヘアスタイルであった。


コンコン

「あ・・の、失礼します。今日から入社することになりました、日和 鈴といいます。警備の方にこちらに来るように言われたのですが、担当の方はいらっしゃいますか」

「初めまして、日和 鈴さんですね」


振り返ったその人は、鈴の顔を上気させた。


「僕がこの会社の代表を務めてます、光葉(みつは) 一樹(かずき)といいます。どうぞよろしく」

「・・あ、はい。よろしくお願いします」


一瞬で上気した顔は、名前を聞いた瞬間に熱が引いていってしまった。

だがあまりにも似すぎている。


「面接のときは所用で立ち会えなくて申し訳なかったね、だけど君ならこの会社でうまくやっていけると僕は思うよ。期待している、今日から社のために頑張ってくれ」

「もちろんです、微力ながら期待に添えられるように精一杯頑張ります」


鈴がぺこりと頭を下げると、光葉一樹は満足そうにうなずいた。

頭を上げると、椅子を勧められたため鈴はそこへ座った。

そして一樹は正面へと座る。


「さて、では今日から日和さんには事務として働いてもらうわけなんだけれども・・日和さんの席は、こうなってるデスクのここの場所だからね。よく覚えておくように。それから・・」


そこからは淡々とこの会社における事務職の立ち位置の説明を受けた。

事務職と言っても雑務をほとんど請け負う会社の柱の一つであり、ここの人材は優秀でないと務まらないということ。そのためかなり変わった人が多いが、その人たち一人一人がここまでこの会社を大きくしてきてくれたということ。

とにかくこの会社での事務職はとても重要なポイントであるという説明であった。


「それじゃあ、移動しようか。みんなに紹介しないといけないからね」

「はい、よろしくお願いします」


さっと立ち上がり、一樹が前を歩く。それを追いかけるような形で鈴もついていくが、頭の中では疑問符がたくさん浮かんでいた。

なぜ?どうして?顔が似すぎている?特徴も?

それよりも決定的だったのは雰囲気であった。


(・・土曜日の最初に声かけてきた人、この人だったのかな)


それだと途中で退席すると同時に、本物が現れたのも納得できる気がした。

本当に、光葉 和也がいるのであれば、の話だが。


「ここだよ、準備はいいかな?開けるよ」

「は、はい」


頭の中のもやもやを振り払うと、鈴はドアの先だけを見つめた。


コンコン

「みんなおはよう。今日から入る事務員の日和 鈴さんだ。お手柔らかに頼むよ」


ざわ、と一瞬ざわついた事務室だったが、何事もなかったかのように再び静まり返る。

そして一番奥の広いデスクに座っていた人が近くまで来る。


「社長自ら紹介されるのが珍しくて、皆固まってますよ。事前連絡って言葉を知らないんですか」

「いつも悪いね、こういうサプライズって社員の士気を高めるんじゃない?」

「はぁ。めんどくさい人ですね本当に」


赤い縁の眼鏡をかけた黒髪の女性が近づきながら、がんがん毒を吐き散らす。

それを当然のように受け流す一樹は、顔色一つ変えていない。

むしろどんどん楽しそうに笑顔になっていく。


「僕ね、そういうところがよくて君のこと採用したから。でも他の人にはあまり言わないように」

「何ですかそれ、セクハラですか?とりあえず日和さん、今日からよろしくお願いします」

「あ、はい、よろし」

「はいそこ腰に手を回さない。日和さんもさっさとこっちに来なさい」

「ハイッすみま」

「はいじゃあ後は色々することあるので、社長出てってくださいね」


全ての言葉を遮られ、全ての動作に無駄がなく、全ての言葉にキレのあるこの女性は、最高権力者の社長を追い出すとドアを閉めて鍵をかけた。

他の社員がそれを当然ように受け止め、誰も突っ込むことがなかったので日和は先ほどの疑問がどこかへ吹っ飛んでしまっていた事に気付かなかった。

それぐらい初出勤の出来事としては衝撃的なことであった。


「うちの社長、本気で事務職のことを雑用としか見てないから。無理だと思ったらすぐ上に回してね。私は神木(かみき) 一花(いちか)。この事務所の中で一番権力を持ってて、仕事を割り振る役目を持ってる。事務室にはあなたで10人目よ。よろしくね」

「はい、私は日和」

「知ってるから大丈夫。とりあえず机はここ、隣に座ってるのがあなたの教育係。すぐに慣れろとは言わないけど、なるべく早く仕事を覚えてもらえると助かるわ」

「分かりました」

「よろしい。じゃああとはよろしく」


怒涛のように言いたいことだけ言い放つと、返事を待たずに自分のデスクへ戻って行ってしまった。

興味深げに自分のことを見ている人もいたけれど、とりあえず教育係に挨拶をすることにした。


「あ、あの、初めまして。今日からよろしくお願いします」

「・・よろしく」


パソコンの画面からちらりとも目線を外すことなく答える。

そして無言で席を立つと、どこかへ行ってしまった。

鈴はとりあえず椅子に座って、鞄から荷物を取り出して机に並べた。

5分経った頃、ようやく教育係が戻ってくる。


「あの・・」

「これ」


今度は一人きりにならないように思い切って声をかけると、無言でプリント用紙を一枚渡された。

それには何やら大量に文字が打ち込んであった。


「読めってことですか?」

「・・そう」


そこには教育係の名前などが書いてあった。


「ひ・・かみさん?ひかみさんで合ってますか?」

「そう」

「分かりました」


それから再び書類に目を通していく。

名前に始まり、事務職の内容や、ほうれんそうの意味など基本的なことが簡潔にわかりやすく書いてあった。

何より一番助かる情報は、デスクの番号とそこに座っている人の名前である。

とりあえず一通り目を通してから氷上に声をかける。


「読み終わりました。私は今日何をしたらいいですか?」

「・・神木に聞いて」

「分かりました」


氷上に言われるがまま神木のデスクへ向かうと、神木は無言で立ち上がり、鈴の横を通りすぎて氷上のデスクへ踵落としを決めた。

そこまでの動作のどれもが無駄のない切れのある動きであったのは言うまでもない。


「氷上、仕事しろよ。サボんな」

「はい」

「次やったら踵じゃ済まさねえからな」


ツカツカと自分のデスクに戻ると、神木は再び自分の仕事を続けた。

その姿を見て鈴はくるりと自分のデスクに戻って、氷上に声をかける。


「私にもお仕事ください」






***






お昼になると事務室には人の姿が無くなった。

一人を除いて、だが。

無心に手を動かして何をしているのかと思えば、ただひたすらに書類をまとめていた。

デスクの上には午後から使う資料がいくつかあり、必要な番号順にホチキスで留めていく至って簡単な作業である。

それを60部だったり、50部だったりとさまざまな種類に分けていくため、コツをつかむまで少し時間がかかってしまった。

必然的に鈴の周りは書類だらけになるが、他の事務員は自分の仕事が終わるとすぐにお昼に抜けていき、居なくなってしまっていた。

もちろん氷上は真っ先にお昼に抜けていき、一時間経った今も戻ってきていない。


「日和さん」


名前を呼ばれて振り返ると、見覚えのある黒髪があった。

鈴は持っていたホチキスを思わずデスクの下に落としてしまった。


「え、あ、光葉さん?」

「仕事は順調かな、僕のことは気軽に一樹社長って呼んでくれていいよ」

「社長でしたか…」


少しだけ落胆した様子に、一樹は「おやおやー?」と言いながらホチキスを拾う。

そして日和の手にしっかりと乗せると、デスクの上に並ぶ資料を見る。


「終わりそうだね、もう少しだ」

「仕事が遅くてすみません…」

「初日だからしょうがないさ、日和さんなら昼休みの間に片付けられるだろ」


こくりと頷くと、一樹も「よしよし」と頷いた。

そしてそっと鈴の肩に手を回すと、ポンポンと軽くたたく。


「僕はね、社員が頑張っている姿が一番自分の仕事の励みになるんだ。日和さんのおかげで今日の午後からの仕事も頑張れる気がするよ」

「はい、頑張ります」

「でもね、最初から頑張りすぎるのは僕も心配だから」


そこで突然両脇に手を入れられると、椅子から強制的に立たされる。

「わひょっ!?」という悲鳴ともつかない声と共に鈴は一樹の顔を見た。


「ちゃんと、休憩取ってきてね?」

「は、はい、わかりましたので、あの、手を、社長、すみませ」

「はいセクハラー」


スパンという音とともにドアが開き、ゾロゾロと事務員たちが入ってきた。

時間はちょうど13時を回ったところで昼食を終えて帰ってきたようだった。


「社長早く自分の仕事に帰らないと、神木さんの怒りが限界突破しますよ!」

「はいはーい。じゃあ日和さんと一緒に休憩取ってこようかな」

「その湧いた脳みそでどうやって会社経営してんのかなー社長は。さっさと仕事に戻ってください」


神木の強烈な一言により一樹は部屋から退室していくが、最後まで余裕たっぷりに手を振りながら出て行った。


「日和さん」

「は、ハイッ!」


キッと赤縁メガネを光らせながら神木は鈴に近づいていく。

そしてあと1メートル、というところまで来てから書類を指差した。


「これ、今なら会議室が開いているからそこでまとめなさい」

「え?」

「そこなら広くスペースが取れるから。はい指示を受けたら2秒以内に返事、そして行動」

「わ、はい、わかりました!いってきます!」


わたわたと書類の束をかき集めると、鈴は会議室へ向かうためにドアを開けようとする。

だが両手いっぱいの書類が邪魔をしてなかなかドアノブに手が届かない。


「日和さん」


声の主を振り返ると、そこには先ほどまで怒り心頭だった神木の姿があった。

思わず小さくなりながら「ハッイ」と裏返りつつある声で返事をする。


「会議室はここを出て左にまっすぐ。大きめのドアの上に会議室って書いてあるから、それを目印にして。それからその書類まとめたら、すぐ私に報告しにくること。それが終わったら1時間休憩していいから」

「はい」


早口でまくし立ててから「あと・・」と続ける。


「困ったときは、いつでも頼りなさい。これは上司からの命令。ドアを開けてほしかったら、手の空いた人に開けてもらえばいいんだから」


そう言うとそっと事務室のドアを開ける。

先ほどとは打って変わったやわらかい声、そして困ったような笑みで鈴の顔をしっかりと見据えていた。

思わず涙ぐみそうになりながらも「はい、以後気を付けます。ドア、ありがとうございます」と言ってから事務室から廊下へと出た。



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