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四十一話

ヒンヤリとした感覚に薄目を開けると、豆電気が付いた部屋に誰かが居た。その人は額の何かを取り替えると、視界から消えてしまった。時間の感覚は無かったが、どうやら外はもう真っ暗なようであった。水の音が聞こえて心地よく眠りに就こうとしていると、着信音が鳴る。

鈴のケータイは枕元に置いていたはずなので、それは「誰か」のものだった。初期設定のままなのか単調な音が響き、小さな声が聞こえてくる。聞こえるはずのないその声に、まどろんでいた意識が急激に鮮明になった。


「もしもし・・いや鈴ちゃんちだけど・・。・・ないって、そういうの、ないから。ホントに。ない・・あーハイハイ。それじゃあ」


もしかして、そこに居るのは和也ではないのだろうか。だが今日は神木とデートをしているはずだ。電話で呼び出されて駅に辿り着いたのはいいが、その後の記憶がサッパリだった。ここに連れてきてもらっているということは、何かしらあったはずなのだろうが、それを考えようにも途切れた記憶は戻せなかった。

聞こえてくる音全てが、よく聞こえる。最小限の音しか立てていないのが分かったが、小さく靴下が擦れる音すら聞こえてきた。どうやら今は何かを作っているようだった。本当は目を開けるのが一番いいのだろうが、和也本人を確認するのが怖かった。

確認したところで気まずくなるだけなのだ、それならばこのまま眠ったふりをして過ごしていた方がよっぽどいい。明日からの仕事にも差し障りが出てしまう。

クツクツと煮込まれる音だけが響く。鍋の前から一歩も動く気配は無く、たまにかき混ぜる音だけが部屋に響いた。響くと言ってもそんなに大きな音ではないはずなのだが、とても敏感になっている耳にとっては自分の呼吸でさえも大きく感じられた。

しばらくするとパチリと火を止める音が聞こえ、和也が近くに来る気配がした。思わず寝返りを打って背中を向けるとベッドの縁に手がかけられたのが分かった。そしてそのまま鈴の顔がある方を覗き込み、耳元で囁くように言った。


「・・鈴ちゃん、起きなきゃ襲っちゃうよ」

「っひう」

「わ!?起きてたの!?」


思わず喉の奥が鳴ってしまうが、和也も本気で寝たふりをしていたことに気付かなかったようだった。これなら寝たふりをしておけば良かった!と後悔したが、もう遅い。だが直接顔を見ることが出来ずに、布団を頭からかぶってしまう。


「ご、ごめんね。起きてるって思ってなくって・・」


首を振ると頭が痛んだが、そんなことに構ってはいられなかった。なぜそんなことを言うのだろうか、頭の中はそのことで一杯だ。和也は布団の上から優しく肩の辺りを叩いて言った。


「鈴ちゃん、熱測るからこっち向いて」

「・・自分で出来ます、から」

「分かった。じゃあここに置いておくから、測れたらご飯にしよ。ね」


布団に入り口の辺りに置かれたそれを受け取ると、熱を測る。測っている間にも和也はぽつぽつと話し出した。


「熱が出てるなんて知らずに、駅まで呼びつけて本当にごめんね。あの後カフェに入ってから、どんどん鈴ちゃんの顔赤くなっていくから無理にでも帰らせればよかった・・。でも僕が鈴ちゃんに同席させた理由をきちんと聞くまで帰らないって言って、こんなに具合悪くしちゃうし」


鈴は自分がそんなことを言ったのは意外だった。熱で自分の欲求がストレートに出てしまったみたいだったが、それが今後どういう展開を生むのかは想像するに容易い。鈴は数時間前に戻って自分を殴ってしまいたかった。そして行くのをやめろと問い詰めたかったが、それが出来ないから今の状況になっているのだ。

だがそれにしたって、なぜ和也はわざわざ自分を看病してくれているのだろうか、とも思う。少しずつ胸の内に沸く希望が苦しかった。


「ごめん、なさい」

「いや謝らないで。僕の方が謝らないといけないんだから・・それで、その後僕が言ったことは覚えてる?」

「・・いえ何も」


ホッとしたような息をついている和也に、胸がズキズキと痛んだ。どうしてそんなにホッとするのだろう、何か都合のいいことを言っていたということなのか。いろいろ考えているとそっと布団をめくられた。

顔を上げると笑顔の和也がいた。


「聞いてくれるかい、僕の気持ち」

「私は・・」


布団をめくられると同時に、ご飯のいい香りが漂ってきた。その香りに誘われてお腹がクゥーっと鳴く。泣きたいぐらい恥ずかしい気持ちになり、布団の奥へとモゾモゾと隠れた。


「クク、少し元気になってきてる証拠だね。さっきお粥作ったんだ、よかったら食べて」

「・・ウン」


すぐに準備されたそれを食べるために身体を起こすと、眠る前よりもかなり熱は引いているようだった。入れっぱなしになっていた体温計はエラーになっていて、再び検温すると終わると同時に和也に取り上げられる。


「37度6分か・・微妙だね。とりあえずご飯食べて、薬飲んだらしっかり熱も下がると思うけど・・」

「う・・ありがとう」

「熱いから、少しずつね」


少しずつ掬って食べると、ほんのり梅の味がしてとても美味しかった。ゆっくりと食べ進めている間、和也は特に何も言うことなく鈴が食べるのを見ているだけである。それがどこか嬉しくもあり、薬を飲んだら帰ってしまうのだろうな、という確信があった。

全て平らげると「じゃあこれ、薬だから」と手渡されて、素直にそれを飲む。そこでようやく時計を見てみると、22時を回ったところであった。


「ご、ごめんなさい、こんな時間まで・・」

「僕の方こそ、こんな時間まで長居してごめんね。・・ねえ鈴ちゃん」


きた、と鈴は思った。これで鈴と和也の関係が完全に終わってしまうのだろう、と思わず目線を逸らしてしまう。困ったような顔をしながらも、それを咎めることはしなかった。


「僕の方見てなくてもいいから、話・・聞いてくれる?」


そのあまりに優しい言い方に、鈴はコクリと頷いた。もう二度とあの日と同じ失敗はしたくはなかった。一度拒絶しただけで、和也の全てを失ってしまったあの日には戻りたくなかった。


「ありがとう。鈴ちゃん、僕は君の事が好きだ」

「・・へ?」

「これを伝えたくて、ずっとここに居させてもらったんだ。病気が心配だったのもあるけどね」


突然の言葉に目を白黒させていると、付き合っていた時のような笑顔で笑う。


「鈴ちゃん、すごい百面相だよ!ククッ、か、可愛いね」

「え、あ、えーと?」

「振っておいてどういうこと、って感じだよね。・・ごめんね、30になるくせに大事な人を守るための言葉や、行動を知らなかったんだ。でも鈴ちゃんのことを諦めることが、出来ないんだ。どうしても」


そう言う和也の目はとても真剣で、惹きこまれてしまった。少しして和也が鈴の顔に手を伸ばす。


「・・どうして泣いているの?」

「あ・・」


知らないうちに両頬に涙が流れていた。それに気付いた瞬間、更に涙が溢れて止まらない。とても傷ついた顔をしながらも、笑顔のままでいる和也に伝えなくてはいけなかった。


「私も・・好きなの」

「・・そんな」

「一番、好きなの。和也さんじゃないと・・ダメなの」


頬に伸ばされた手に自身の手を重ねると、和也の顔がくしゃりと歪んだ。


「・・本当に?本当に、そう思ってくれてる?」

「ウン、ずっと振られて哀しかった。和也さんと会う度に、苦しかったけど・・でも会えて嬉しい気持ちの方が何倍も大きかったよ」

「・・うう、ごめんね、ごめんね・・」


和也が反対の手で鈴の目元を覆ってしまう。どうしたのかとそれを下げようとすると「見ないで・・」と力なく返事があった。


「僕こそ、あの時に変に我慢なんて、するんじゃなかった・・どうかしてた・・こんなに、こんなに近くにいるのに触れられないことが、辛いなんて思わなかった」

「泣かないで、もう触れられるよ」

「うう、ごめんね、ごめんね」


和也はそう言うと鈴を手元に引き寄せ、抱きしめた。そして小さい子供のように鈴の肩で涙を流し、鈴は泣く背中をずっと撫でていた。しばらくすると徐々に和也の身体が緊張していくのがわかった。どうしたのかと思い顔を見ようとすると、更に肩に顔を押し当ててくる。


「恥ずかしい・・2回目だ・・」

「え、今更・・?」

「・・まあ、そうだよね。今更こんなカッコ悪い姿見ても、なんとも思わない・・よね?」


和也がそっと力を抜くと鈴はすぐに和也の顔を見る。涙でぐしゃぐしゃになり、肩にしばらく埋もれていたためかほんのり全体が赤くなっている。もしかしたらそれ以外の赤みもあったかもしれないが、思わず唇へ口づけた。


「そういうところも、大好き」

「・・もっと風邪移して」


今度は深く口づけをして、鈴はベッドへ寝かされる。そして布団をかけられると目を閉じた。しばらく近くに居る気配があったが、気付いた時には夢の中へ入っていた為いつ出て行ったかは分からなかった。

だが翌朝起きると、テーブルの上に手紙が一通置いてあった。


「和也さん・・やっぱり夢じゃないんだ!」


夢落ちだったら最悪だ、と思いながら目覚めたため朝からホッとした。時計を見ると6時を少し過ぎた頃で、熱を測ったが平熱に戻っていた。一日寝ていた為体はガチガチになっていたが、だるさが抜けてとてもスッキリしていた。

会社にも行けそうなので、着替えることにした。前日の残りのお粥を食べていると、和也が作ってくれたというだけでただのお粥が何倍も美味しく感じる。キッチンも綺麗に片づけられていて、まとめて洗おうと思っていた食器まで拭かれて仕舞われていたことに気付き、もう少し日ごろからマメに掃除をしようと心に決める。


「おはようございます」

「日和さん、会社に来て大丈夫なのかい?」


いつものように警備員に挨拶をして通り過ぎようとすると、声をかけられる。体調が悪い事を言った覚えはなかったため「え?はい、大丈夫ですよ」と答えると、見覚えのある目じりの皺を作って笑顔になった。


「そうかい、それは良かった。今日もお勤め頑張って」

「ハイ!いってきますー!」


エレベーターに乗りながら、あれは誰だったのだろうと考えた。どこかで見たことのある顔をしていたが、誰なのかは分からない。しばらく考えても思い出せそうになかったので、事務室へ入るとすでに神木が来ていた。


「おはようございます」

「・・オハヨ。もう元気になったの?早いわね」

「いやー若さだけはありますから」


それを聞いた神木は「言うようになったわね」とニヤリと笑うと、一緒に朝の片づけを始める。


「あれから、あたしと社長超ーいい感じになったよ」

「え?」

「熱出してる日和ちゃんカフェに置いて、二人でホテル行ってきたの」


ニヤニヤと笑いながら言う神木に、鈴はきょとんとした顔をする。すると神木は「もー、性質の悪い冗談じゃないのー」と言いながら、ドアを開けて硬直している和也を振り返る。どうやら鈴が出勤したのを見ていたらしく、慌てて事務室へ来たらしい。

少し息が上がっている姿はとても険しい顔をしていた。


「神木さん、話が・・」

「いいじゃんちょっとぐらい、どうせ二人はまたくっついたんでしょ?ハイハイおめでとうおめでとう」

「え、どうして」


鈴が全てを言い切る前に、神木はため息をついて二人を見比べる。


「そんな甘い空気出す社長と社員、居ないから。あーもうヤダヤダ」


その場から逃げるように立ち去ると、その場に残ったのは和也と鈴の二人だけだ。お互い顔を合わせた途端に「ボッ」と音を立てるようにして顔が赤くなった。先に我に返ったのは和也であった。


「す、鈴ちゃん。今日の夜、うちに来れない・・かな?」

「えっ、和也さんの家に?」

「・・両親が、鈴ちゃんに会いたがってるんだ」


鈴はその言葉にサァっと顔が蒼くなった。最後に会った時のことを思い出したのだ。逃げるようにして家を出て行ったことを、きっとよく思ってはいないだろう。それにこのタイミングということは、何か計り知れない意味があるのだ。


「で、でも、私・・」

「僕はそこで、鈴ちゃんにとっても、僕の家族にとっても大切な話をしようと思ってる」

「大切な・・話って、どういうこと?」


鈴は不安げに聞くが、和也は首を振った。


「僕一人じゃ、考えもつかなかったことなんだ。家族に話す時、鈴ちゃんが隣に居てくれればそれだけで勇気が出るから。・・いいかな?」


少し悩んだが、一度頷いた。ほっとした顔をして軽く鈴を抱きしめると「それじゃあまた夜に」と言って事務室から出て行った。それから1,2分ほどして一気に他の社員が流れ込んでくる。


「神木さん、なんであんなとこで止めるんすか?」

「いーのいーの。大人の事情ってやつだから」

「・・チェー」


どうやら神木が気を利かせて止めてくれていたらしいが、止められていた中に鈴だけが居ない事を知っている人が居ない事を願うばかりであった。

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