三十五話
いつもの時間に目を覚ますと、隣に気配を感じた。見てみるとそこには靖春が眠っていた。そこで昨日の事が夢ではなく、本当の事なのだと改めて実感した。
「ん・・?おはよ、鈴・・はやいな・・」
「おはよ、春ちゃん」
あまりベッドを揺らしたつもりはなかったが、鈴の起きた気配だけで靖春が目を覚ました。起こすつもりがなかったが、靖春もまだ神経質になっているのかもしれないと思った。眠たそうに目をこする靖春の頭を撫でると、嬉しそうな笑顔で鈴の額に口づけをする。
「朝からご褒美だね・・ありがとう」
「どっ、ういたしまして」
「ご飯にしようか」
名残惜しそうに体を起こすとカーテンを開けて伸びをする。少し前まで隣にあった体温は、一晩中鈴の事を慰めてくれていた。誰かの体温がそばにあるだけで、こんなにも気持ちが落ち着くものなのかと自分でも驚いたぐらいであった。
そのおかげで今朝起きた時も、それほど気持ちが沈むようなことはなかった。もちろん和也の事は引きずりまくっているが、会社に向かうことは億劫ではなかった。それもこれも靖春のおかげである。
「ほい、お待たせ」
「美味しそう・・ありがとう春ちゃん」
「いいって。鈴に作らせたら後が怖いからな」
いたずらっ子のような顔をしてニシシと笑っている。それは中学で出会ったころから変わらない笑い方であった。二人で並んで朝食をとりながらニュースを見る。ごく普通の日常がそこにはあった。
「あ、なぁなぁ。また靖春って呼んでくれよ」
「え?春ちゃんじゃおかしい?」
「・・いや、おかしかないけど。一応ほら、彼氏・・だろ?ビシッと呼んでくれよ。な?」
靖春の上目遣いは反則だと鈴は思った。そんな風にして頼まれて、誰が断ることが出来るだろうか。すぐに「分かった、靖春ね」と言うと何が嬉しいのか「ヤッター」と満面の笑みでハイタッチをしてきた。その笑顔につられて鈴も笑顔になるが「あ、でも」と続ける。
「まだソレついてるから、外では春ちゃんで通すからね?」
「・・う、俺は別に気にしないけど」
「私も気にしてないけど、周りが気にしちゃうから。ね、約束」
鈴が小指を向けると嬉しそうに靖春も指を絡めて約束をする。
朝食を食べ終わって洗い物をしようとすると、靖春は「帰ってからやるからやらなくていいよ」と言うのだが、作ってもらったのならば自分が洗うべきと譲らずに洗わせてもらうことになった。それから支度をして会社へ行く時間になる。
「行ってくるね」
「ん、いつでも連絡しろよ」
「ありがと靖春。じゃあ行ってきまーす」
「ちょい待ち」
ドアノブに手をかけたところでくるりと反転させられる。何事かと靖春の顔を見上げた瞬間に頬に何かが触れた。
「行ってらっしゃい」
「う、うん、イッテクル!」
ニシシと笑いながら手を振る靖春は、中学のころから本当になんら変わりない姿で、ずっとそこに居てくれたのだと改めて思った鈴であった。電車に揺られて会社へ到着すると、舞原と正門で一緒になる。
「舞原さん、おはようございます」
「あれ、やっぱり日和さんだったんですね。今朝同じ電車に乗ってたんですけど、私と方向が違うはずだったのでおかしいなって思ってたんです」
「そうなんですね、声かけてもらえたら駅から一緒に来れましたね」
そう言いながら事務室に入ると片づけを始める。早めに片づけ終わると雑談をし、少ししてから朝礼が始まった。神木が口頭で話す業務連絡をメモにとっていると、事務室のドアがノックされて一樹が入ってくる。
パッと顔色を明るくさせて神木が近寄ると、いつもよりも穏やかにそれを制して社員の前に立った。
「おはよう。話の途中で割り込んですまないが、急ぎで用事を頼みたいんだ。今日の作業で手が余る人は居ないか」
「社長のお仕事のおかげで手が余る人材なんて一人も居ませんよ・・」
「午前中なら日和がまだ仕事に余裕があるんじゃないか」
横から誰かがそう声を出す。鈴は思わずビクリと肩を震わせるが、周りはそれを「社長の生贄に選ばれた可哀想な日和」として見ていた。おずおずと手をあげて場所を知らせると、後で社長室に来るように言われる。
それだけを伝えるとすぐに事務室から出ていくが、鈴に向けられた視線は可哀想な子を見る目そのものであった。
「失礼します」
「入ってくれ」
10分もしないうちに社長室を尋ねると、ノートパソコンを開いて作業をしている一樹がいた。いつもは応接用テーブルで仕事をしていたのだが、今日は珍しく社長室のテーブルで作業をしており、今居るドアからだとやや距離があった。
「そこのテーブルに置いてある資料の整理を頼みたいんだが」
「分かりました。では資料を頂いていきますね」
応接用テーブルの上の資料の山をまとめ始めると、慌てたように続ける。
「いや、そこでやってくれないか。他の資料と紛れたら困るものが多いんだ」
「ここで、ですか?でもここは社長室なので、取引先の方たちがいらした時に大変では・・」
「今日は大丈夫だ。誰も来る予定が無い。しっかりまとめてくれ」
「はぁ・・そうですか」
どことなくいつもと違ってぎこちない対応の一樹に、鈴は曖昧な返事をする。それにすらいつものように「何ボケっとした返事をしてるんだ、さっさと働け」などと毒づくことなく自身の仕事に戻ってしまっている。
頭の中で「もしかしたら」という言葉と「でもまさか」という言葉が交互に顔を覗かせる。そのせいで資料の枚数を何度も数え直す羽目になったり、やたらとかさばる資料に苦心したが午前中いっぱい使って資料を片づけることが出来た。
顔を上げると一樹がこちらをしげしげと眺めていた。目が合った途端に「あ、あー、終わったか?」とわざとらしく声をかけてくる。鈴は半信半疑だった気持ちが嘘のようにストンと納得することができた。やはりこの人は一樹ではない、一樹のフリをした和也である。
「はい、終わりました。どこへ仕舞えばいいですか?」
「そうだな・・このあたりに積んでおいてくれ。後で片づけるから」
「分かりました」
指定されたのは和也のすぐそばにあるチェストの上であった。4つに分けられたファイルを2つずつの山にして置く。和也が一樹のフリをしているのを見破ったからと言って、それ以上の何かは期待できない事は分かっていた。それならば一樹のフリをしている事に、気付いていないフリをすればいいのだ。
今まで一度も見破れなかった事はないし、それを周りに気付かれないように合図を送っていた。今思い返せば、かなりきわどい事をしていたと思う。だがそうして二人だけの秘密を持てることが何よりも嬉しかったのだ。
そんな他愛のない事を思い出して深く自己嫌悪してしまう。気分を変えるために今日は外で昼食をとることに決めて、和也に最終確認をする。
「それでは他に資料はないですか?」
「ああ、これで全部なはず・・だ。ご苦労様」
「はい。では失礼します」
頭を下げて出て行こうとしたろころで「あーちょっと待って」と呼び止められる。期待に胸がドキドキと高鳴ってしまうが、気付かれないように平静を装って「何か?」と尋ねる。
「午前中自分の仕事をほったらかしにさせてしまったからね。よければ一緒に昼飯でもっどうだ?」
「え、でも悪いです」
口からスルリと出てくる言葉に自分の胸が張り裂けそうな思いだった。悪いなんて嘘、本当は連れて行ってほしい。そしてこの前の話を無かったことにしてほしい。喉まで出てきたそれを必死に飲み込むと何でもない顔を取り繕う。
「丁度俺も仕事を切り上げるつもりだったからな。ついでで悪いが」
「そうでしたか。じゃあ、あの、よろしくお願いします」
「5分後に駐車場で」
社長室を出ると、嬉しくて涙が出てきそうになる。本当に嫌いだったらあんなことは言わないはずだ。一樹だったらまず言わないような事が漏れていることに、きっと和也は気付いていないのだろう。鈴の前だからそうなるのか、鈴の前だとそうなってしまうのか。どちらにしてもその態度は、和也に対する「好き」という気持ちを胸の内から溢れさせるには十分な出来事だった。
浮き足立たないように注意して事務室へ戻ると、外で昼食をとることを伝えてすぐに出る。舞原には「社長がお昼ご馳走してくれるって言うから行ってきます」とコッソリ伝えると、なぜかとても嬉しそうな顔をしていた。
だがそれよりも今は和也との食事だ。自分でも嫌になるぐらい後ろ向きだった気持ちが、あっという間に前へ向いてしまった。やはり自分はウジウジと悩んでいるよりも、悩んでもポジティブな方向へ向くように頑張ってみるほうが性に合っているのかもしれない。
駐車場へ到着するとすでに和也はそこに居て、さすがに自身の車ではなく本物の一樹の車で待機していた。
「すみません、お待たせしてしまって」
「気にしないで。さあ乗って」
デートの時のようにエスコートされると、さりげない優しさに胸のときめきがどんどん力を強めていく。頭の片隅に追いやられていた「もしかしたら」という気持ちが、徐々に範囲を広げ始める。
車中では仕事上の話をし、昼食場所でも割と会話は続いていた方だと思う。だが恋人の時とは決定的に踏み込む場所が違っていた。他人以上に線を引きながら、鈴の話をどんどん引き出していく。そういうところは付き合っている時には無かったことだったためか、少し疑問に思ってしまう。
もしかしたら自分が和也だと思っているだけで、本当に一樹本人なのかもしれない。だが合間に垣間見える「いつも以上」の優しさなどからは和也にしか思えない。和也も鈴に気付かれている様子が無いと判断したのか、最初に一樹として会った時よりも大分和也の部分が出てきていた。
「美味しかったです・・満腹です。午後からの仕事頑張れそうです」
「それは良かった、ここの鰻は本当にいいものだから。今度日和も友達と来てみるといい」
「給料日後に考えます・・」
チラリとメニュー表に書いてあった値段を見た時のことを思い出す。あまりに一般的な店との違いに財布の中身を確認してしまったが、和也は「まさか社員に出させるようなことはしないよ」と安心させてくれたのだ。確かにこれを自腹で食べさせようとする社長がいるとしたら、かなりブラック寄りなのかもしれない。
「じゃあ戻ろうか」
「ハイ、本当にご馳走様でした」
車に乗る前に改めて頭を下げる。それにしてもここの鰻は美味しかった。今まで食べた中で値段も断トツだったが、味も触感も香りも全てが断トツであった。口いっぱいに広がる甘じょっぱいたれに、削りたての山椒の香りがふんわりと重なり、器の中で米粒を立てるつやつや白米の上に乗せられる肉厚の身を頬張ったあの瞬間は、言葉に出来ない程幸せな気持ちになった。
思わずほとんど無言で堪能してしまったが、それに対して和也も何を言う訳でもなく見ているだけであった。デートの時はずっとニコニコしながら食べる様子を眺めていたのだが、一樹のように淡々とご飯を食べ進めるだけであった。
食べ終わってからやはり自分の勘違いだったのかもしれない、と鈴は思った。一樹が和也に見えても、和也が一樹に見えてももうどうしようもないし、当てたところで誰ともその秘密は共有出来ない。似ている部分を探して、無理やり和也だと思い込みたかったのかもしれない。
「・・最近、変わったことは無かったか」
「へ?いえ・・特には・・」
突然の質問に即答してしまうが、社長は「そうか」と言ったまま二度と鈴の方を見ようとはしなかった。もしかしたら仕事の事でミスをしてしまい、それを試されたのかもしれない。一樹だか和也だか分からないが、どちらも社長なのは確かなので違った意味で心臓がドキドキと音を立てる。
会社に到着して車から降ろしてもらうと「資料の整理ありがとう」と言ってから一人で会社の裏側へ回ってしまった。社長は専用の入り口から入るためそちらに回ったのだが、その後ろ姿は何か苛立ったような様子であった。
重ねてみていたのがバレていたのかもしれない。小さく息をつくと、鈴も事務室へ戻っていった。




