三十話
明日が休みで良かった、と鈴は思った。土曜日に家に呼ばれて和也の一日過ごし「泊まっていけば?」という言葉に覚悟を決めた。ついに意識があるうちにそういう体験をするのだ。途中まではいつもの二人だったが、夜が更けていくにつれて徐々に汗ばんでいく手を互いに寄せると、ベッドへ場所を移す。
それが4時間後に終了するなんて思ってもみなかった。
「ごめん・・いつも止められなくて・・」
「私は初めてだから分かんないけど、こういうものじゃないの?」
「あ、いや、その、・・うん。こんな感じだよ」
和也の腕に抱かれながら荒かった息も落ち着き、幸せな時間を過ごしていた。快感の波に翻弄されるばかりでどうしていいか分からずにいたが、鈴を上手にリードして何度も二人で果てた。今も少し和也の手が動くだけでピクリと反応してしまう体が恥ずかしかったが、それは「イイコト」だと和也は言った。
「私、最初道庭さんに嫉妬してたんだ」
「・・うん」
「でもさ、こんなに私の事好きって言ってくれる人の事ちゃんと信用しないとって思ったら、そういう気持ち全部どっか飛んでっちゃった」
笑顔で言う鈴の頭を優しく撫でる。嬉しくなって和也の上半身にピタリと張り付くと、反対側から手が伸びてきてそのまま抱きしめられた。幸せで涙が出る事なんてドラマでしかありえないと思っていた鈴の目からは、ポロポロと涙が出てきていた。
「すごく幸せ」
「僕も、こんなに他人を好きになったこと、無いよ」
「くっつきすぎてこのまま溶けちゃったらどうしよう」
鈴の言葉にククッと笑いをこぼすと、心臓の音がドキドキと早くなっていることに気付いた。顔を見ると困ったような、嬉しいような笑顔をしている。ほっとして耳を更に近づけると、更に心音が早くなる。
「ドキドキしてる」
「鈴ちゃんが可愛くて」
「・・恥ずかしいから真顔で言わないで」
すっかり夜も更けてしまい、二人は寄り添うようにして眠った。
翌朝はスッキリとした目覚めとなった。いつもの時間よりも2時間程遅かったが、十分な睡眠をとれたおかげで今にも歌いだしそうな程気分が良かった。隣を見ると、まだ和也は眠っている。羨ましいほど長いまつげが伏せられているのを間近で見ることが出来るなんて、3か月前には思ってもいなかった。しばらくそれを眺めているとゆっくりと目が開かれた。
「おはよう」
「ん・・起きてたの?起こしてくれれば良かったのに」
「今日休みだし、いいかなって思って。それに見てて飽きなかったよ」
恥ずかしそうに布団を口元まで隠す姿は女の子のようである。知れば知るほどに愛しさが募るのをひしひしと感じながら、わざと布団をひっぺがす。
「わ!」
「さ、起きよ!せっかくの秋晴れが勿体無いよ!」
先に体を起こし、すぐにカーテンを開けて光を入れるとじんわりと陽気が伝わってくる。じっとしているのが勿体なく思える陽気だった。振り返ると和也もノロノロと体を起こしたところで、陽射しの効果でかっこよさが5割増しほどになっていた。
「・・陽射しとイケメン、爽やかさが止まるところを知らないね」
「何のこと?ね、もう少しゆっくりしようよ」
トロンとした目を擦ると鈴に両手を伸ばして抱き締めてくる。そのまま後ろに倒れると、再びベッドに逆戻りである。
「ん、鈴ちゃん」
「わっ」
体を反転させられて顔と顔が近付いたと思った瞬間に唇が重なる。朝イチは口の中のバイ菌が!などと考えている鈴の気持ちも知らずに、しっかりと時間をかけて口内をまさぐった後で唇を離すとヘラリと笑う。
「ごちそうさま」
「あ、は、い。おそまつさまです」
「クッ・・なにそれ、ほんと飽きないなぁ」
小さく笑いながら鈴が体を起こすのを手伝う。真っ赤になった頬に優しく触れられると、とても大切にされているのが伝わってくる。壊れ物を触るような手つきは、昨夜のこともついでに思い出させてくれたが必死に頭の中から追い出す。
視界の端に何かが映りこんだためそちらに視線を向けると、カーテンの影になっているが見覚えのあるものがそこに鎮座していた。
「・・マルコポーロ様?」
「え、何それ」
「やっぱり!マルコポーロ様だー!お花咲いてる、きれい・・」
鈴が窓辺に駆け寄ると後ろから和也も付いてくる。そしてソレを見つけると笑顔になる。
「サボテンのことね、何のことかと思ってびっくりした。そういえば鈴ちゃんのところに取りに行ったときも、そんな名前が出てたような」
「3日ぐらいしか一緒に居なかったけど、毎日毎日暇ばっかりだったからずっと話しかけてたもん。久しぶりのマルコポーロ様は元気そうで何よりだね」
にこにことサボテンに話しかける鈴に思わず頭をなでる。それから朝食は簡単にトーストと目玉焼きを作る。それぐらいはやらせてほしいと鈴が申し出ると、靖春と作った日々を思い出して壊さないように注意しながら作り上げる。微笑ましそうにそれを見守る和也には申し訳ないぐらい内心は緊張しまくりであったが、壊すことなく、焦がすことなく、完成させることが出来た。
心の中で靖春に何度も「ありがとう」と伝えながら朝食を済ませると、着替えてからソファに座る。特に何をするわけではなかったが、ピタリとくっついているととても幸せな気持ちになる。
「今日はずっと家で過ごす?それともどこか行きたいところとか、ある?」
「んー陽がさしてて気持ちいいから、外で過ごしてもいいよね。和也さんは?」
「鈴ちゃんが行きたいところならどこでも楽しいから」
少し遠くにあるショッピングモールに行くことに決める。お互いに買いたいものは無かったが、ウィンドウショッピングをするのもいいかもしれないと鈴が提案すると、すぐに和也は頷いた。そんなに急いでいなかったため、途中のパーキングエリアで買い物を楽しみながらもショッピングモールに到着すると意外と人が多かった。
駐車場へ停めると腕を組んで中へ入っていく。いつもは手をつないでいたのだが、あまりの人ごみにとっさに和也の腕を掴むとそのまま腕を回されたので振りほどくわけにもいかず、そのままにしてある。
「あ、これ・・」
「わーキレイだね!」
ガラス細工のお店の前に来ると和也が足を止めた。飾ってあるのは十二支の手のひらサイズの置物だったが、綺麗にカットされており店内の明かりを内側からキラキラと反射させていた。台に乗せられてゆっくりと回転しているので、全面から見ることが出来たがどこから見てもきれいである。
「こういうの、好きなの?」
「いや・・僕はそんなに好きじゃないかな。落ちたら割れちゃうし」
「和也さんならうっかり、ってことも多そうだもんね」
「鈴ちゃん言うねぇ?」
反対側の手で頭をグリグリとしてくる和也に「ゴメンゴメン」と言いながら、店内に見覚えのある人物が居た。向こうも気づいたらしく、傍にいる人に何かを伝えてから店内から出てくる。
「や、デート?こんなところで会うなんて偶然だね」
「道庭さん!あ、じゃあ中の方たちはご家族ですか?」
「そーなのよ。チビたち連れて外で待っててよって言ったのに、一人じゃ待てないーとかホントふざけてるわよね!たまには一人でのんびり買い物したいのにさー」
ぶーぶーと文句を言う雫に、鈴は思わず笑みが漏れた。とても素直に感情を表す人なのだなぁと、羨ましくも思った。そういえば和也が一言もしゃべっていないことに気付いて顔を上げると、喜びとも悲しみとのつかない笑顔を見せていた。その顔を見た瞬間に、先ほどまでの楽しい気持ちが一転するのを感じた。黒くドロドロと濁った塊が鈴の胸の内から這い出してくる。
「ええと・・このお店にはよく来るんですか?」
「ウン、あたしガラス細工大好きなんだよね!自分にご褒美あげようって思うと、絶対ここのお店に来ちゃうんだ。今日はたまたまモールに用事があったからついでに寄ったんだけどね」
「そう、なんですか」
そして雫は「そうそう、これこれ」と後ろを指差す。そこにあったのは先ほど和也が足を止めた十二支の置物があった。
「これさー、まだ結婚する前なんだけど見つけた瞬間に絶対全種類揃えてやる!って決めたぐらい大好きなんだよね。ようやく9個集まって、もう少しで全種類揃うんだ」
「雫さん、中で待ってるからそろそろ」
「え?あー夫困ってるね、ゴメンゴメン。じゃあもしかしたらまた会うかもだけど、またね」
手を振って店内に戻っていく雫を見送ると、二人の間に沈黙が落ちた。先ほどまでの雰囲気と打って変わって暗く、淀んだような空気を感じてお互いに言葉を発することが出来ずにいた。それでも組んだ腕を外すことは無く、足だけは前へ前へと動いていく。
何と言えばよかったのだろうか、今までの気がかりだったことが全てまた気になってしまうようになってしまった。「同じのが好きだなんて、やっぱり兄弟ですね」と言うのも違う気がするし「和也さんも同じもの持ってたりして」なんて茶化すのも今は出来ない雰囲気だ。そしてそれを肯定されるのも怖かった。
「・・コーヒーでも飲もうか」
「あ、うん。じゃあ私ホットにしよっと、陽射しはあったかいけどやっぱり風は冷たいね」
「そうだね・・ここのお店でいい?」
テラスのある店に入ると今日は陽射しが暖かいからかテラスにも人がパラパラと居るようであった。注文を済ませると二人はテラスへ出ていく。暖かいはずなのに、どことなく二人の間に流れている冷たい空気がそれをひどくどんよりとさせていた。
「おいしー」
笑顔でコーヒーを口に含むが、どうにも和也の顔は乗り気ではない。それもそうだろう、先ほどあんなに分かりやすい態度を取ったのだ。すぐに切り替えるのが難しいぐらい、和也と雫の関係は簡単なものではないのだろう。そう頭で分かっていても心にはずっと黒く濁った塊が這い出てきているままであった。
どれぐらいそうしていたかは分からないが、ホットコーヒーを半分ぐらい飲んだ頃にぽつりと和也は言った。
「僕に前、鈴ちゃんは隠し事がないかって聞いたことがあるんだけど」
「え?そんなこと言ったっけ・・」
「うちで初めてご飯をご馳走した日だよ。すごく酔ってたから覚えてないかもしれないけど、はっきりとそう聞いたんだ」
鈴は自分が他にもとんでもないことを言っていそうで耳を塞ぎたくなったが、どうやらメインはそこではないらしいので大人しく話を聞く。
「その時僕は、無いともあるとも言わなかったんだ。だけど本当は隠してること、ある」
「・・今それを言うってことは、道庭さんに関係があることなの?」
コクリと頷くと、真剣な顔をして鈴を見た。
「少し長いんだけど聞いてほしいんだ。僕と雫さんの関係を」
「・・嫌だ」
やはり、と鈴は思った。自分の勘はずっとそう告げていたのだ「あの二人の関係は変だ」と。それを聞かないふりをしていた罰が当たったに違いない、そうでないと「二人の関係の話を聞いてくれ」だなんて事を言う訳がない。もし関係があったとしても聞きたくない話だったのに、どうして和也は今それを言うのだろうか。鈴の頭の中は嫌な予感しかしていなかった。
「変な話じゃないんだ、ただの僕の過去の話なんだ」
「い、いやだ・・。嫌な予感しかしないもん、そんな話は聞きたくない」
「鈴ちゃん、多分だけどその予感は間違ってる。雫さんを見かける度に鈴ちゃんの顔があんまり嬉しく無さそうなのは、気付いてたんだ。だからこそ聞いてほしいんだ」
優しく諭すような言い方だったがそれが逆に鈴の不信感を煽る。どうして、なぜ、なんで私に、そんな言葉ばかりが鈴の心を支配していく。黒く濁った塊はもう胸いっぱいになろうとしていた。
「いや・・です」
小さく首を振って拒絶を繰り返すが、和也はそれを良しとはしなかった。ただひたすら「聞いてほしい」と繰り返すばかりで鈴はついに両手で顔を覆った。その隙間から大粒の涙がポロポロと零れているのに気付くと、和也は慌てて近くへ寄って跪いた。
「ごめん、鈴ちゃん本当にごめん。泣かせるつもりはなかったんだ、ご、ごめんね」
「いや・・いやです・・。聞きたくないもん、道庭さんの話なんて・・やだもん」
「ごめんね、ごめん・・」
ハンカチを取り出して鈴に手渡すが、それを受け取ることなく両手で顔を覆って泣き続ける。周りの客が何事かと注目し始めたことに気付くと、和也は鈴を連れてそそくさとその場を後にした。飲みかけのコーヒーはテーブルの上に置いたままだったが、二人ともそれを気にする余裕は無かった。
周りの視線に耐えながら車の中へ戻るが、未だ鈴は手で顔を覆ったままであった。涙は止まったものの、グチャグチャになってしまった顔をどうしようかと思っていた。このまま顔を上げるととんでもない状態の鈴を見られてしまうことになる。さすがにそんな空気ではないのは分かってはいたが、可愛いところだけを見せたいと思う乙女心は消すことが出来なかった。
「鈴ちゃん・・ティッシュ、ここに置いておくから使って。これから鈴ちゃんちに戻るから・・」
返事をせずにコクリと一度頷くと、それを確認してから和也は車を発進させた。朝とは全く違ってしまった空気は時間をゆっくりとしか進ませてくれない。行きよりも何倍も時間がかかってしまった気がしたが、それほど変わらない時間で鈴のアパートへ到着する。
「着いたよ。・・あの、さ」
ティッシュを使ってやや元の状態に戻った顔を上げると、緊張した顔の和也が正面を見たまま言う。
「もし、だけど、そんなに鈴ちゃんを悲しませるなら・・僕たち、このまま別れた方が・・いいの?」
「えっ・・どういう意味・・」
鈴は頭をガツンと殴られた気がした。別れた方がいいの?という問い掛けに応えるような元気は残っていない。和也が今日のことで愛想を尽かしてしまったのか、あの時に素直に話を聞いておけばよかったのだろうか、それこそ雫のように素直になっていれば良かったのだろうか。様々な思いが頭の中をグルグルとせわしなく巡るが、どれも正解で、どれも不正解な気がした。
和也は遠くを見ながら続ける。
「僕と付き合っている限り、雫さんとのことでずっと悩まないといけない・・。その度に鈴ちゃんが悲しい思いをするなんて、僕も辛いよ・・」
あまりに予想外の展開に鈴は頭の中が真っ白になってしまった。何かを言わなければ関係が終わってしまう、そう思っているのに言葉の引き出しの中は空っぽだった。心臓がバクバクと音を立てて鈴を急かしている。早く何かを言わないと、言わないと和也さんが、早く何かを。
口から出てくるのは呼吸の音ばかりで無言の時間が続く。
「僕も辛いけど、一番辛いのは・・鈴ちゃんだよね。あんなに雫さんの話を嫌がられるとは思ってなかったっていうのもあるけど、雫さんとはこれからも職場で一緒だから、さ。あんまり嫌な気持ちばかりを残しておくのも、仕事がし辛くなっちゃうし」
それは一体どういう意味なのだろうか。雫に嫌な思いを抱いていたのは確かだが、それを再燃させたのは和也自身だ。それを分かっていないのはこの場合仕方ないと言えるのだろうか?和也なりの優しさだとしたら、とても悲しい優しさだった。鈴の事も、雫の事も考えた末に「別れる」という結論になったとしたら、あまりに今までの日々が無意味に感じられた。
「そっ・・か」
口から出たのはあまりにあっけない一言だった。それを聞いた和也はようやく鈴の顔を見て悲しそうに笑顔を見せる。そのまま車を降りると助手席のドアを開けてエスコートをし、鈴の頭をポンポンと撫でてから車に戻る。助手席側の窓を開けると「おやすみ」とだけ言って車を発進させた。
テールランプをぼんやりと見送りながら視界が再びぼやけてきているのが分かった。どんどん数を増やすテールランプが消えた時、鈴の目からは大量の涙が溢れ出た。




