二十五話
月曜日になり、支度を整えて出勤すると朝の仕事を済ませる。舞原と共にする作業は、気付けはかなり早く終わらせることが出来るようになっていた。手を抜いているわけではないのだが自然と効率が上がっていたらしい。
空いた時間のおしゃべりを楽しみながら朝礼が始まると整列をする。
「おはよう皆。金曜日はご苦労様でした」
そこから業務内容の確認をしていると事務室のドアが開いて社長が入ってくる。皆表情を硬くさせると社長の言葉を待つ。
「皆。9月の業務は多忙を極めたけれど、付いてきてくれてありがとう。無事に仕上げることが出来た」
その言葉にそこかしこで喜びの声が上がった。それを手で制すると続ける。
「10月からはいつもの業務に戻るが、嬉しいお知らせだ。業務を拡大するかもしれないという話があることは皆知っての通りなんだが、それについて事務室の業務も増えそうなんだ。ということで10月から今までどおりってわけにはいかないが、そこそこ忙しいかもしれない。事務室員全員の協力を期待している」
颯爽と部屋から出て行き事務室は静まり返った。業務拡大というのは喜ばしいことなのだが、それに際して仕事が増えてしまうとなるとあまり嬉しいニュースとは言えない。少しずつザワザワしだす事務室に響く声で神木は言った。
「みんなー、馬車馬のようにこき使われてやろうじゃないの!9月を乗り切ったんだから大丈夫、社長にもっと仕事くださいって言えるぐらいの仕事っぷりを見せてやりましょう!」
「おー!」
それぞれデスクに戻ると8月まで行っていた通常業務に戻る。しばらくすると神木に呼ばれたためデスクへ向かうと、過去の資料を地下から持ってきて整理するように言われる。快く引き受けると鈴は地下へ向かうためのエレベーターに乗り込んだ。
「あ、すみません乗ります」
閉まる直前に声をかけられ開くボタンを押して待つと、ほどなくしてスーツ姿の女性が乗ってくる。同じ階から来たにしては初めて見る姿に、どこか違う階から来たのかと推測していると「ありがとうございます」と言って相乗りをする。
「何階ですか?」
「あ、一階をお願いします」
鈴が一階を押すと軽く会釈をされる。黒髪ストレートを1つに束ねて腰まであるポニーテールを作るその人は、どことなく自分と顔が似ている気がした。相手も鈴の顔を見るとニコリと笑顔を向けてくるため、鈴も笑顔を向ける。すぐに一階に着くとその人は下りていくが、下りない鈴を振り返るときょとんとした顔をする。
「降りないんですか?」
「地下室に用事がありますので」
「・・そうなんですね、お気をつけて」
では、と言って閉めるボタンを押すとそのままエレベーターは地下室へと向かっていく。地下二階に着くと紙の湿ったような匂いが漂っていた。電気をつけると明るくなった室内は意外と清潔感がある。誰かがマメに掃除をしているのかもしれないな、と鈴は思った。
「えーと・・5年前の資料だっけ。うわー結構あるなー、二往復ぐらいしないとダメかな」
ずっしりとした厚みのあるファイルに綴じられた書類はかなり多く、これをデジタル化するには少し骨が折れそうであった。だがこういう仕事をコツコツと積み上げることがあまり苦に感じない性分なのは助かった。4冊程抱えて持つと事務室へ戻る。そのような作業を2往復分繰り返してようやく鈴の机の上にはファイルが揃った。
「うし、やるか」
「よろしくね日和ちゃん」
大きな独り言になっていたため神木が返事をすると顔を真っ赤にして「は、はい」と言う鈴であった。
それからどれほど時間が経ったのだろうか、ふと体の痛みを感じて顔を上げると12時を回ったところであった。思っていたよりも文字が読み取りやすくスムーズに打ち込むことが出来たため、一旦休憩をとることにした。
「休憩行ってきますー」
「ハーイ」
誰からともなく返ってきた返事を聞いてから自分のデスクを後にすると、食堂へと向かっていった。今日の食堂はあまり人がおらず、ゆったりと過ごすにはぴったりな場所になりそうであった。あえて窓に面した一人掛け用の席に腰かけると、定食を食べながらケータイを触る。
靖春と和也にメールをするためなのだが、ここのところ和也からの返事が前より遅くなってきている。どうやらこちらで片付いた仕事の更に後片付けをしているらしく、忙しいようなことをメールで送ってきていた。もちろん鈴も困らせるつもりはなかったので和也のペースに合わせた返事をしているのだが、靖春とのメールの方が圧倒的に多かった。
「・・サミシーナー、なんてね。送ったところでどうしようもないっか」
「そんなことないんじゃね?送ってみりゃいーじゃん」
「ばっ、びっくりした・・突然くるのはやめてよ!」
振り返るとそこには道庭が居た。ニヤニヤしながら背後に立つその姿に鈴は心臓がドクドクと音を立てていた。心霊的な意味で。
「鈴ってば相変わらずビビりだなー。俺は幽霊じゃないっつの」
「そういう風に出てくるのが悪い!はーびっくりした・・」
「ふーん?ていうか和也兄今そんなに仕事溜まってたかなー」
その言葉にピクリと肩を震わせると、知ってか知らずか道庭は首を傾げる。なんとなく気持ちがもやもやとするのを感じながらも「和也さんは忙しいから」と言うだけに留める。だが更にウーンと頭を傾けてあまり納得のいっていないような道庭に、鈴の不安がもやもやと暗雲を立ち込めさせる。
「和也さんも疲れてるんだよ、きっと」
「んー、まぁそうだよなぁ。うん」
「ていうか堂々と隣に来てるけど、道庭君も一人なの?」
「え?そうだけど。いーじゃん俺が隣にきても」
むっとした顔で鈴と同じ定食を食べ始める。慌てて「そういう意味じゃないよ」と言うが道庭はもうその言葉は気にしていないようだった。パクパクと食べ進めながら愛車の話や広まりつつある噂の話をしながら昼食を終えると、すぐに仕事に戻っていってしまった。
鈴は半分ほど残った定食をゆっくり食べていると、再び誰かが隣に座る。
「相席、いいかしら」
「どうぞ」
それは朝エレベーターで見かけた黒髪のポニーテールの女性であった。やっぱりどこの部署でも見たことがないなぁ、などとのん気にご飯を食べていると声をかけられる。
「今朝はありがとう、エレベーター」
「いえいえ、こちらこそお気遣いありがとうございました」
「普段地下室なんて誰も行かないから、どうしたのかなって思ったの」
「そうなんですね。私も初めて行きましたけど、思ってたより綺麗にされてましたよ」
そうなんだーと相槌を打ちつつご飯を頬張るその人は、なんとなく話しやすくて鈴も会話を続けてしまう。
「最後に行ったときは結構汚かったからなー。誰か掃除してくれたのかもね」
「埃っぽくはなかったですよ、湿った匂いはしてましたけど。行かれたことあったんですね」
「ん、資料の整頓は大事だからねー。ところでさ、あたし10月から事務室勤務になったんだけど一樹達から聞いてる?」
まさかここで聞くとは思わなかった名前に一瞬噴き出しそうになりながら顔を見ると、きょとんとした顔で鈴を見ている。事務室勤務になったということは、やはり来月から人員は拡充していくということなのだろう。来月から勤務のはずなのに、過去に地下室に入ったこともあるということは、勤務していたことがあるということなのだろうか。鈴が混乱していると「アハハ」と声をあげて笑う。
「ごめんごめん、話全然伝わってないみたいね。あたしは一樹と和也と一也の姉の雫っていうの。道庭雫。なーんか事務室に不穏な動きがあるからって、あたしが召喚されちゃったのよー。ほんと勘弁してほしいわ」
「そ、そうなんですか?和也さんたちのお姉さんだったんですね、ど、どうも初めまして」
慌てて頭を下げると「いーのいーの」と頭をあげさせる。
「・・っていうかごめんね、今気付いたけどこっちは話よく聞いてるから完全に初めての人じゃないけど、鈴ちゃんにとっては初めましてよね」
「ええと、はい、でも大丈夫です。お姉さんもここに勤務することになるとは知らなかったです」
和也と同じ呼び方をされることにくすぐったさを感じながら、鈴は食事をする手を休める。雫は一也と同じようにパクパクと食べ進めながら器用におしゃべりをする。
「一樹はともかく、和也には早めに話すように言ったんだけどね。ごめんね驚かせちゃって、ていうか拡充するなら新規採ればいいと思わない?こんな子育て真っ最中のオバサン採用して何がしたいんだか」
「中の事が良く分かっている方の方が都合が良かったんですかね・・社長は効率重視みたいですし」
「フフ、さすが一樹と和也を見分けただけあるじゃない。そういう鈴ちゃんもまだ3か月なのに色々大変だったみたいじゃない、あたしも出来るだけフォローするからいつでも頼ってね」
どこか人懐っこく笑われて悪く思う人はいないはずだ。あっというまにご飯を食べ終わると鈴も慌ててご飯を片づける。
「それよりも、朝は地下に何の資料取りに行ったの?」
「ええと、5年前の資料をデータ化してほしいってことで取りに行きました」
そこで雫は「5年前・・」と言ったまま黙り込んでしまう。声を駆けて良いものなのか分からずに黙ってそれを見ていると、ハッとした顔をして鈴を見る。
「どこまで進めたの?」
「今1冊目の半分ぐらいです。全部で4冊あるんで、中々に終わりが見えません」
「そう・・あ、そろそろ日和ちゃん休憩終わりじゃない?」
時計を見るともうすぐ13時になろうとしていた。トレーの上を片づけると、鈴は雫に「お先に失礼します」と声をかけてからトレーを下げに行った。その後ろ姿を見て雫は軽く手を振ってからため息をつく。
「・・あんな子だったんだ」
事務室へ戻るとさっそく続きを始める。睡魔と闘いながら数値だけは間違えないように打ち込んでいく作業は、普段通りにすればいいと分かっていても少し目の前がかすんでしまうこともあった。休憩がてら椅子に深く腰かけて時計を見ると、まだ仕事を始めてから30分しか経っていなかった。今日の午後はつらい仕事になりそうだと気合を入れるためにコーヒーを淹れに行くと、そこには先客がいた。
「神木さん、コーヒー今からですか?私と同じもので良ければ淹れてデスクまで持って行きます」
「ああ、いいわ。あたしはもう飲んだところだから・・ねぇ日和ちゃん?あたしがあなたの事をいじめているなんて噂、誰が流したんだろうね」
超ドストレートな言葉にビクンと背筋が伸びる。その顔にはにっこりと作られた笑顔が張り付いていた。恐ろしさに背筋に悪寒が走るのを必死にこらえるが、答えをもらうまでは動かないようだ。さりげなく入り口に移動されてしまった。
「私はいじめられてるなんて、思ったことは・・」
「でもそういう噂なんだって?どういうことなんだろうね、日和ちゃんじゃなければ・・誰かな」
「いやー・・どうでしょうか、人によってはそういう見方になっちゃうのかもしれないですね・・?で、でも私はそんなに辛いとか思ったことは」
「フーン。あ、柳瀬くんもコーヒー飲む?」
ちょうど給湯室の前を通りがかった柳瀬にいつもの笑顔で声をかけると、鈴は柳瀬のカップを持っていつでもコーヒーを淹れられるように準備をする。「あ、すんませんー」と聞こえてくるところをみると、淹れてもよさそうである。忘れかけていた自分の分も含めてインスタントを量るとお湯を注ぐ。
「ああ、日和さんもいたんすね。今二人がすっげー噂になってるのって知ってますー?」
「そうそう今その話してたんだよねー」
「ハイ」
柳瀬のチャラさに救われたこともあったが、今はそのチャラさに焦っていた。どうしてさっきの今でその話題を出されなければいけないのか、ようやく回避できた話題を再び盛り返されて焦らなくてもいいはずなのに鈴は胸中穏やかではない。
「確かにああやって事務室で揉めちゃったは揉めちゃったけど、いじめってのはまた違うよねぇ?」
「そ、そうですね」
「えぇ?んなこと噂になってないよー。なんか神木さんが一方的に日和さんをーみたいなのだけど、実際どーなの?」
神木から鈴に向けて「フォローしろ」という視線を送られているのをヒシヒシと感じるが、鈴にはどうすればこの柳瀬を説き伏せることが出来るのかが分からなかった。どーなの?とマイクを向けられても「あるはずのない」ことを「フォロー」しようと思ってもフォローの仕様がない。
だがとりあえず今は柳瀬の意識を逸らさなければこの話題は続いてしまいそうだ。
「それは事実ではないです。柳瀬さんはどなたから聞いたんですか?」
「んー?俺のカノジョ。営業してんだけどすげー上手いんだよー」
「柳瀬君の彼女すっごい綺麗な人でね」
そこからは柳瀬と神木が二人で彼女のことについて色々と話している。どうやら柳瀬の彼女と神木は同期だったようで、いろいろと積もる話があるようだ。その間にそっとその場を抜け出すと鈴はようやく自分のデスクへ戻っていく。
「コーヒー淹れるだけでどんだけ時間食ってんだよ」
「スミマセン」
隣のデスクから飛んできたヤジにもあの場を脱出出来た喜びから笑顔で対応すると、氷上は「んだよその顔」と追撃をしてくるが、それすら今は安堵するのだった。あの場にずっと居続けなければならない苦痛よりも、氷上の一瞬のヤジだ。