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二十三話

「えっどういうこと?」

「それがさー、違う部署の子に聞いたんだけどー・・」


翌日からじわじわと広がっていく噂は、真綿のように神木の首を絞めていった。初めは事務室とはかなり離れた場所からだったのが、三日も経たずに周りの耳に入って行った。空気が変わったのが分かったのか神木もあまり大胆なことはしなくなっていく。


「氷上君、これよろしくね」

「ういー」


仕事の納期がすぐそこまできているので、あまり騒がしくなることはなく、表面的には穏やかに見えた。いつまでそれが続くかどうかは分からなかったが、それだけで鈴はほっとしていた。やはり心のどこかでは「もしかしたら」という気持ちがあったのは確かだったので、この感じだと納期まで持ちこたえることが出来そうである。


「ふぅー・・」

「お疲れ様です、これよかったら」


舞原と共に食堂へ休憩に来る。12時を過ぎてからの休憩だったためかなり人がいて混雑していたが、どうにか二人掛けの席を見つけるとそこへ腰かける。


「良かったね、ここ空いてて」

「本当です。食堂っていつも昼時はこんなに混雑してるんですか?」

「そうだよーって、日和さんもしかして今までこの時間帯に休憩取ったこと無いの・・?」


思わず苦笑が漏れるがそれだけで察した舞原は眉を下げて悲しそうな顔をしていた。


「あのね・・今だから言うけど、本当は新人さんにこの仕事たのむなんて絶対ありえないことなんだ」

「えっ?でも神木さんはいずれ覚えることだからって」

「確かにいずれは覚えて行かないといけないけど、入りたてのこのタイミングで、指導も付けずにっていうのはまずありえないんだ。だけど上がそれを許可したなら私たちは従うしかないでしょう?やっぱりあの時におかしいって言えばよかった・・」


とても悲しそうに肩を落とす舞原に鈴は笑顔を見せる。


「そうだったんですね、でもいい勉強になりました。逆にこの仕事を必死で覚えるっていう役割を持つことで皆さんと話す機会も出来て、いいこともたくさんありますよ。ありがとうございます」

「そんな・・私は全然何も出来てないから・・」


小さく顔の前で手を振っているので、鈴がその手を取って握るとハッとして顔を上げる。


「私、前に聞いたんです。神木さんに「日和さんは頑張ってます、疑うのはおかしいです」ってちゃんと言ってくれたってこと。それだけで十分私は救われました。だからそんなに気にしないでください!今はこうしていい方向に向かってますし」

「そうかな・・?そう言ってもらえると、私も嬉しい」

「当たり前じゃないですか!」


そこでようやく手を離すと水を持って舞原のコップへ寄せる。舞原もそれに倣ってコップを持ち上げると鈴と小さく乾杯をする。


「これからの私たちに」

「乾杯」


味気のない食堂の水がとても美味しく感じられた。

その後は納期に向けての仕事の話をしながら、ゆっくりと休憩を終えると13時には事務室へ戻った。そして仕事の続きを始める。終わりが見えてきた仕事にある種の喜びを感じながら打ち込む作業は、いつも通り残業をして仕上げることが出来た。


「神木さん、チェックお願いします」

「そこへ置いておいて」


資料のバックアップを済ませてからプリントをして神木のデスクへ持っていく。もうすぐ週末がくるが、そこが納期なので皆自分の仕事に追い込みをかけているようだった。一足早く仕上がった鈴は神木にチェックだけ頼むと自分は帰る準備を始める。

それをジト目で見てくるのが一名ほどいたが気にすることなく荷物をまとめるとタイムカードを押して事務室を出た。かなり夜風が冷たくなってきたので、コートを羽織るようになったが今日はまた特別風が冷えているようだ。

ストッキングが風を受けて全身を冷やしてくる。思わず大きく身震いをすると足早に家に帰る。


「おかえり」

「ただいまー・・さむかったー!」


家に帰ると靖春がすでに居て、部屋を暖めてくれていた。急いでコートを脱ぐとこたつに入りこむ。足元に温かさが広がると思わず「はぁ~」と息が漏れた。


「鈴おっさんみたいじゃない」

「あったかぁーい・・。春ちゃんが家を暖めてくれてなかったら、私多分コートのままウロウロしてたよーほんと今日寒いね!やんなるー」

「明日はもっと冷えるって。朝もちゃんと着込んでおかないとだめよ?冷えるってよくないんだから」

「ふぁあーい」


こたつでぬくぬくと温まりながら待っていると、すぐに配膳してくれる。二人分の配膳を終えるとすぐに食事に入る。


「仕事順調?なんか毎日忙しそうだけど」

「順調だよー、もうあんまり邪魔されないし。何より仕事に集中できるのがこんなに素敵だなんて・・一応私の分の仕事は終わったからね」

「へぇーやるじゃない。よくできました」


よしよしと頭を撫でてくる靖春に「うへへ」と笑みをこぼす。初めて自身に任された仕事を仕上げることができたのだ。嬉しくないわけが無かった。ご飯を食べ終わる頃にはいい時間になっていたので、靖春は帰っていく。

一応週末で納期だということは言ってあったので、来週にでも一緒に食事に行こうとお誘いしておいたがどうなるかは鈴の仕事しだいである。



翌日出社すると酷い有様であった。

提出してあった資料はバラバラにされていて、いったい何が起きたのか良く分からない状態であった。


「こ・・れは、私の資料?」

「・・酷い。こんなのって酷すぎる」


舞原が先に出勤していたため片づけをしてくれていたが、バラバラにされた資料はもう一度印刷しなおさなければいけないようだった。よっぽど気に入らない仕上がりだったのかもしれない、と自分を慰めながら片づけを済ますとその頃には他の人のいつもの出勤時間になっていた。


「おはよう皆」


神木もいつも通りの時間に出勤すると、何事も無い笑顔で入ってくる。舞原は何とも言えない顔をしていたが鈴がいつも通りの返事をするとそのままデスクへ向かう。そして朝礼を終えてから鈴を自分のデスクへ呼んだ。


「昨日ここに置いてあった資料持って行っちゃった?」

「え?そんなことしてないです、けど・・あの、朝バラバラになってたので破棄しておきました」

「えっ?どういうこと?」


何と無くつい最近同じような流れがあったなぁ、と嫌な予感がしつつも今朝の事を説明するが全く心当たりがないという。むしろ昨日チェックした状態で手直ししないといけない部分をマーカーでしてあったので、それを今日鈴に訂正してもらおうと思っていたところだという。

どうしたものかと顔を見合わせてみるが、なかなかうまい考えが思いつくはずもない。仕方がないので鈴はもう一度資料をまとめて神木に見せ、その間他の人の仕事を手伝うことにする。手伝うと言ってもほぼ納期目前だったため手伝えることは少なく、おろそかになっていた通常業務の資料整理などをすることになった。


「どうしたもんかねぇ・・」


トイレで一息ついていると思わず口からこぼれてしまった。あの日社長室で行われた会話そのものを再びするとは思っていなかった。ということはまた神木が嘘をついていることになるのだが、昨日は生憎先に帰ってしまったので顛末が見られていない。最後に会社を出た人さえ分かればその人が知っているはずなのだが、舞原も最後までは残っていないという。


「・・でさー、なんか、事務室の子がすっごいいじめられてるらしぃよー」

「マジで?じゃあまたあの人がやらかしたんじゃないのー?サイアクー。あたし事務室希望だったけどこっちでよかったー」

「そうそう。同じ人らしいんだよねー、新人いじめて何が楽しいの?って感じー」


トイレに化粧直しに来た女性たちは口々にこのようなことを言っている。先ほどから個室から出るタイミングをつかみ損ねていて、なかなか事務室に戻れずにいたがこんなに早く噂が回るとは思っていなかった。やはりある程度の会社とはいえ、人の口に戸は立てられないのだろう。

この会話も3組目になるためいい加減他の情報が欲しいと思っていたところで、彼女たちが出ていく気配がした。このタイミングを逃してはならないと急いで個室から出ると、ちょうど神木が入ってくるところであった。


「あー・・お疲れ様です」

「ん、えらく長いから心配したけど大丈夫そうね」

「すみません。長らく出てなかったもので」


下手くそな嘘だったがどうやら誤魔化せたようで、可哀想な人を見る目で見られたがそれはこの際甘んじて受け止めることにする。すぐにトイレから出ると舞原も急いでこちらに向かってきていた。何事かと思っていると鈴に一目散に駆け寄ってくる。


「大丈夫!?何も、されてないっ・・!?」

「え、はい、ええと、トイレ行ってました・・けど・・」

「それだけ?本当にそれだけ?」


必死な形相の舞原に気圧されるようにコクコクと頷くと、胸に手を置いて「はぁ~よかったぁ~」ととても安心しているようだった。何が何だか分からずにいるとそのまま手を引かれて事務室へ戻る。一旦自分のデスクに戻った後でメモ用紙を鈴に手渡す。


「これ、あとで私のケータイに連絡ちょうだいね」

「あ、はい、わかりました」


中身は「今日夜7時に近所のカフェで」というものであった。夜カフェに行ったことのない鈴はまさかのお誘いにワクワクしていた。その日はいつもより短い残業を終えると、先に店に入って舞原を待つ。途中何度かメールのやり取りをしながら30分もすると合流する。


「お待たせしました」

「いえ、お誘いありがとうございます。夜カフェ初めてなんですけどすごく居心地いいですね」


ほんのり暗めの照明はお互いの顔がはっきりとは確認出来ないながらも、おしゃべりを楽しむには最適な空間であった。特にそれぞれソファにこだわりがあるようなところも良かった。仕事帰りのOLがそこかしこで会話に花を咲かせている。


「あのね、私言ってなかったことがあるの」

「え?なんですか?」

「もう知ってると思うけど、神木さんは前にも一度こんなようなことをしていたことがあるの。それで、ね、前にターゲットになっていたの、私なの」


顔を真っ赤にして俯くとそのまま舞原は何も言わなくなってしまう。思っていなかった告白に目を丸くしたまま鈴も動けずにいると、ウェイターが注文していたアイスティーを届けてくれた。それでどうにか口を潤すと舞原は意を決したようにして続ける。


「神木さんとは新卒で同期入社したの。その頃から事務室は慢性的な人手不足で、私たちの上司に当たる人が一人一人仕事量をきっちり仕分けしてくれていたんだけど。上司がね、女性だったの」

「女性ですか、今時だとあまり珍しくはないですよね」

「うん。だけどすごく美人で、仕事が出来て、部下に信頼されて、今でいう神木さんそのままだったの」

「なるほど・・」


通りで理想的な上司を演じることが出来たわけだ、神木にも理想の上司が居たのだったらそれを真似すればいいのだ。ただ真似をすると言ってもそれを実際に実行できる能力がある人は少ないはずだが。


「その人は日和さんと入れ替わりで退職していったの。3年前までは私たちの上司だったけど、結婚してから臨時社員で出たり入ったりしていてね。でももう本格的に辞めることにしたみたいで、新しく社員さんを募集したの」

「それが私だったわけですね、なるほど」

「私も神木さんも、憧れの人だったから・・その分仕事も回してもらえたし、私はそういうところで競ってる気持ちはなかったの。でも神木さんは私をライバルだと思ったみたいで・・最初は些細なことから、次第に事が大きくなっていっちゃってついに上司の耳に入ったの」


「どうしてこんなことをしたの?神木さん、あなたの事を私は信頼していたけれど」

「・・悔しかったんです。私の方が、舞原さんより頑張ってるのにって」

「はぁー、神木。ほんとバカだな」


ツカツカと神木に寄り、そのままパアン!と顔をはたく。驚いて涙目になっているのは分かっているようだったが構わずに続ける。


「神木より舞原が頑張ってるって、あたしは一度でも言ったことがあるか?ないだろ?なんでこんなこと言わせるんだ、二人とも大切に決まっているじゃないか。ガキじゃないんだから仕事に差し支えるようなことで時間を取らせるな。そんなことして何になるんだ?神木の大好きな社長は、そんなことしてもなびきゃしないよ」


それから舞原にも向き直る。ビクリと体を震わせる舞原に、上司は優しく笑みを向ける。


「舞原、あんたもだよ。辛いなら辛いってちゃんと言わないとダメじゃないか。あたしはあんたたちを信じるって言ってんだから、二人もあたしを信じてくれているなら・・ちゃんと思ってること、言ってくれないと分からない。思うだけで伝わるなんて思うなよ、わかった?」


その場で二人に握手をさせると、あっけらかんと「はい仕事再開ー」と言って仕事に戻らせる。


「その時は上司が社長に掛け合ってくれて、処分は無しってことになったの。一応2日間出勤停止にはなったけど、公で発表されるようなことはなかったかな。だけど次に同じことをしたら、その時は容赦しないって言ってたわ。今でもそれが適用されるかは・・わかんないけど」

「すごいですね・・あの神木さんを言いくるめるなんて」


舞原はとても嬉しそうな笑顔で、その上司にまつわる武勇伝をたくさん教えてくれた。どの話も「本当に?」と疑うようなものばかりだったが、舞原が言うのだから間違いが無いのだろう。特に社長が絡んだ話が面白く、どうやら社長もその上司には手を焼いていたようであった。


「私、社長が言い負かされるなんて初めて見た日はびっくりして目が飛んでっちゃうかと思って」

「ええ!あの社長が・・すごい、一度会ってみたい気もします」


それから楽しく食事を終えると、2日後に迫った納期に向けてお互い鋭気を養うために解散するのだった。

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