二十話
朝が来た。
鈴はいつもよりも気持ちが昂っているのを感じた。初めて会社へ向かう時のような気持ちは中々落ち着かない。部屋の中を意味も無くうろうろしながら出勤時間を待つ。
鞄に入れていたケータイが振動して着信を知らせ、取り出すと靖春からだった。
「おはよ、本当に直接聞くつもり?」
「もちろんだよ。もうこうなったら聞いてみるしかないし」
「・・ほんっとバカ正直っていうのは、とんでもないこと考えるわね」
「む、それ褒めてるんだよね?」
はぁーと深いため息が電話の向こうから聞こえてくる。これは確実に聞かせるためのため息だ、と唇を尖らせるが靖春はそれすらも見えているかのような様子だ。
「また口尖らせてるでしょ?ほんっと、聞くタイミングだけはちゃんと計らないとダメだからね?」
「ワーカッテマース」
まだ何か言いたげだったが「じゃあ行ってくるね」と強制的に電話を切った。靖春の言いたいことも分かるが、鈴の頭の中ではもう直接理由を聞くことしか考えていない。確かに直接聞くのは緊張するが、今までのことを思えば何でもないように見える。
いつもの時間の電車を乗り継ぎ正門に着くと、ちょうど中から出てくる一樹と出会う。
「おはよう日和さん、今日は特に早いね」
「社長!おはようございます。いつもと同じ時間ですよ?社長こそ早いじゃないですか」
「そうかな、色々と仕事が山積みだからね。今日もよろしく頼むよ」
珍しく励まされ「もちろんです」とにこやかに返すと、一樹は足早に駐車場へ向かった。忙しそうだなあと呑気にそれを見送ると、意気揚々と事務室へ乗り込む。するとすでにそこには神木が居た。
「ッう、おはようございます」
「・・おはよう日和さん」
ビクンと全身が跳ねてしまったのはご愛嬌だ。一気に極限まで心臓が脈を打ち始める。不意打ち同然だったのもそうだが、なぜ朝一に居るのかが鈴には分からなかった。よく見てみると唇がやや青ざめているようにも見える。
「あの、どうかされましたか・・?体調悪いんですか?」
「えっ?何でもないわ、気にしないで」
ハンカチを口に当てたまま神木は事務室を出ていく。首を傾げてそれを見送ると、入れ替わりに舞原が入ってくる。どうやら今日は少し遅くなったようだった。
「おはようございます」
「おはよう。・・神木さん、どうかしたの?」
「いえ私も今来たんですけど、さっぱりです」
首をすくめると心配そうにドアの方を見るが戻ってくる気配はなさそうだ。そのまま朝の仕事を済ませるが、終わってもまだ戻ってくる気配はない。すでに皆事務室に集まっているのに神木だけが居ないのは、とても不思議な光景であった。
鈴と舞原は顔を見合わせると、朝一で向かったと思われるトイレへ行ってみる。小さくだが、すすり泣くような声が聞こえていた。
「・・神木さん?大丈夫ですか?」
舞原がノックをしながら声をかけるが反応が無い。ハッと息を呑んだような音は聞こえたが、それ以上のリアクションは見えなかった。一体どういうことなのか分からないが、鈴も声をかけてみる。
「あの、やっぱり体調悪いんですか?今日は早退したほうが・・」
「気に、しないで。お願いだから」
「でも・・」
「ほっといて、今だけでいいから」
いつにない厳しい声色に変に心臓がドクドクし始める。二人で顔を見合わせるが、この場をうまく切り抜ける方法は考え付かなかった。それぞれがしばらく沈黙するが本当に微動だにしない神木に再び舞原が声をかける。
「あの、もう始業時間で、みなさんが待っていて・・もし辛いんでしたら、このまま仕事始めるように伝えてきましょうか?」
「・・そう、ね」
カチャリと鍵が開いた音がすると、目を真っ赤にした神木が出てくる。二人が安堵して改めて声をかけようとするよりも早く鈴の前に立つ。耳元で囁かれた次の瞬間、何かが目の前ではじけた。
チカチカとした光が見えた後、頬から熱いものを感じ、それが痛みだと気付いた時には反対側からも同様の熱さと痛みを感じた。
「最ッ低」
「え・・」
隣に立つ舞原が自身の口元を抑えているのが見えた。その横を素通りしてトイレから出る間際に振り返りもせずに去って行った。それをぼんやり見送っていると、舞原が何かを言っている。隣で言われているはずなのに、全く耳にその言葉が入らないまま鈴は意識を失った。
「・・・ん・・・・さん・・・・」
「・・あれ、まいは、らさん?」
目を開けると舞原の顔が目の前にあった。どうやらトイレの中のようであるが、鈴は自分が舞原の膝に頭を乗せて横になっていることに気が付いた。慌てて立ち上がろうとするが足がガクガクして力が入りづらい。ようやく立ち上がったが、頭がぼんやりしていた。
「良かった、目が覚めて本当によかった・・!」
「神木さんは・・」
「もう事務室に戻ったみたい。だけど、どうしてこんなことに・・」
とても困惑している舞原に悪いが、鈴もさっぱり分かっていなかった。どうやら気絶していたのはほんの2,3分のことだったらしい。崩れ落ちる前にとっさに頭だけ守ると、ずっと声をかけてくれていたようであった。
嘘みたいな状況に頭がついて行けていない。それとも忙しすぎて記憶障害になってしまっているのだろうか。もしかしたら睡眠不足で今も夢を見ているのかもしれない。鈴はいろいろと考えを巡らせてみたが、どう考えても頬の痛みは『神木』が『鈴』を『往復ビンタ』したことを現実のものとしている。舞原が心配そうに見つめているが、心の底からほの暗い感情が押し寄せてくるのを感じた。
「分かりません・・。今朝私が来た時には、もう居ましたし。その時から様子はおかしかったと思いますが」
「確かにドアから出てきた時の様子は、おかしかったと思う・・。でもだからってこんなこと・・」
「私たちも、戻らないと・・いけないですよね?」
鈴の顔を見た舞原は、とても悲しそうな顔をしている。やはり戻った方が賢明なようだが、それを舞原が口にするのは鈴に悪いと思っているのだろう。あえて自分からトイレの外に出ると、舞原もそれに続いた。とても重たい足取りで事務室に戻ると皆の視線が痛いぐらいに突き刺さるのを感じた。
だがそれはすぐに怪訝なものとなり、神木と鈴の間を視線が行ったり来たりしている。不思議に思い視線の先を追うと、先ほどよりも分かりやすく涙を流している神木の姿があった。
「・・っ、でも、皆は日和さんを責めないで。お願いッ、私が全部・・悪いだけなの。確かに社長と付き合いが長いのは私だけど・・それを日和さんが気に病む必要なんて無いのに」
「どういう、ことですか」
「いいの日和さん・・ッ、私も言い過ぎたわ。本当にごめんなさい、許してなんて言えないけど・・でも許してほしいですッ」
よく見ると神木の頬には爪でひっかいたような傷がある。さっきまでは付いていなかったように思うが、鈴が色々と聞く前に頭を深々と下げる。これではまるで鈴が悪者のようであった。隣にいる舞原も困惑を隠しきれないようである。
そんな中誰かが呟いた。
「神木さん可哀想」
それは一滴の雫だった。小声だったので誰ともつかない声だったが、どんどん大きく輪を作り出していくように皆の視線が険しいものに変わっていくのを感じた。喉まで出かかった声が張り付いて出てこない。舞原がハッとした顔をして鈴の前に立つ。
「日和さんは何もしてないです!何かの誤解があります!」
神木の周りに居る人たちは隣同士でヒソヒソと何かを言い合っている。舞原は鈴にも何か言ってほしそうに眉を寄せているが、張り付いた声は未だ剥がれようとしない。むしろどんどん喉が締まっている気がする。
圧倒的劣勢かと思われたその時、新藤が舞原のそばに寄ってくる。安心したように舞原が近寄るとそのまま無言で神木の方へ連れて行かれる。「なんで」や「離して」と抵抗する小さな体をすっぽりと覆い隠して、鈴は完璧に孤立無援状態となってしまった。
一瞬でも味方が増えるかと思った期待は、鈴の気持ちをどん底へと突き落して這い上がることを許さなかった。相変わらず物が言えなくなった口を、空気を求める金魚のようにパクパクと動かす。射抜くように刺さる視線がとても悲しかった。
「・・皆、日和さんのこと、そんな風にしないで・・。私は大丈夫、ほらっ、ね・・?」
「神木さん・・」
視線が一気に神木へ向く。鈴はその場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえたが、徐々に意識が現実を拒絶していくのを感じた。異口同音で神木を心配し、励まし、囲んでいるのを見ると圧倒的な信頼の差を感じた。じりじりとドアへ後退していくと、静かにそこから出ていくのだった。
「あいつ、あれだけ神木さんに目かけてもらいながら酷いですね」
「そうでもないわ・・だって私にも至らないところはたくさんあったし」
「これ使ってください、少し血が出てますよ」
鈴が出て行ったのを知りながらも誰も声をかけることはなかった。新藤に抑えられた口の隙間から漏れる声は鈴には届くことがなかった。すると突然こんな声が上がる。
「やっぱりあの怪文書は日和さんが作ったんじゃ・・」
シンと静まり返る事務室は、それを肯定する空気そのものであった。舞原の口を塞ぐ手が一瞬緩んだが、ショックのあまりその場に立ち尽くすことしかできなかった。神木は「そんな・・」と呆然と口元を押さえたままその場にへたりこんでしまう。
数人でどうにか支えると、そのまま医務室へ連れて行った。
どこを通って来たのか分からないが、気付いたら鈴は食堂へいた。入り口から死角になる場所へストンと腰を落とすと、そのまま横へ倒れこんでしまう。くにゃりとソファへ横たわると先ほどの出来事があまりに非現実的すぎて何も考えられなくなってしまった。
昨日の夜から決意していたのはなんだったのだろう。今朝あれほど意気込んで来たのに、その気持ちはもう露ほども無くなっていた。しばらくそうしていると誰かが入ってくる気配がしたが、死角に横たわる鈴の事は気付いていないようだ。2,3人で話しながら食堂の券売機に並んでいる気配がした。
「そろそろ、あのケーキ、食べたい、ですなあ」
「研究中は、甘いの、必須、ですね、ですね」
「自分で買ってくりゃいーじゃん?通勤帰りにとかよ」
ガタガタッと何かが倒れこむ音がした。
「なっ、なっ、なっ、ぼっ、僕には、無理無理無理、無理すぎて無理ですぞお」
「我々と!道庭殿を!同一視!厳禁ですぞお!」
「はぁ、とりあえずそれ直しとけよお前ら」
どうやら人間が倒れこんでいたらしい。そう気付いても頭も体も動くことは無かった。その間にも割と大きめの声で会話は続いている。
「おばちゃーん、これお願い」
「あいよー」
「オホホホ、オホホ、この時間帯は、誰も人がおらぬのだ、聖域、聖域すぎてすでに楽しい」
「ハハ、ハハ、待ちたまえ、いるし、ここ、いるし」
一瞬自分の事かと思ったがそういうわけではなく、何とも言えないテンションで食事を楽しんでいるようだった。その声はどれも楽しそうで鈴は再び涙があふれてくるのを感じた。それを拭う元気はもう残っていない。
「・・?・・!!おぶっふぇええええ!!」
「ど!?どうなされたし!?なん、なん、なんてことを!俺の飯!聖域飯があああ」
何かを噴き出す音がすると同時に騒がしくなった。元々騒がしかったのだが、どうやら何かをこぼしたらしい。噴き出した人物に怒っているようだ。すると突然小声でボソボソと会話が始まる。もう何を言っているのかも聞き取れなくなり、閉じていた目から光が遮られたような気がした。
身体を突かれて目を開くとそこには道庭がいた。
「・・ちょっと来い」
「・・・」
身体を起こさずに首を振るが認めてもらえなかった。険しい顔のまま腕を回されると、思ったよりも簡単に身体が浮いた。一瞬抵抗しようと思ったが、今ここに居てもいずれは移動しなければならないことを思い出して、抵抗するのをやめた。
横にして抱き上げられながら食堂を出ていく。どこに向かうのか分からないが、その足取りはどこへ向かうか決めているようだった。あっという間に3階に下りてくると社長室をノックも何もせずに開ける。そこでさすがに何かがおかしいと感じて顔を見上げるが、視線に応えないままに応接用ソファに降ろされる。
すぐに身体を起こそうとするが首を振って止められる。すると社長室のどこかでドアが開いた音がした。
「おい一也、ちゃんとノックぐらいしろっていつも言ってんだろうが。ったく他の社員が見てたらどうす、ん・・だ」
「もう見られてっからいんじゃねーの?それより和也兄どこだよ」




