十九話
二人が立ち去った社長室の奥にあるドアから、和也が入ってきた。その顔は「信じられない」という表情をありありと映し出している。
「どういうことだ、やっぱり上司がクロじゃないか」
「・・どうしてそう思う?もしかしたら、日和の方が自作自演しているかもしれないじゃないか」
「それは・・!僕が断言する、鈴ちゃんに限ってそれはない、と」
和也の言葉に、プッと噴き出す。「何がおかしい」と睨まれているのに気付きながらも、茶化すように声を真似する。
「僕が断言する、鈴ちゃんに限ってそれはない?お前さ、小学生じゃないんだから名前ぐらい呼び捨てに出来ないのか?第一お前が信じてるって主張したところで、あの事務室のメンツにどうやって説明する気なんだ?僕は鈴ちゃんと付き合ってるから信じてるんだ~なんて言うつもりじゃないだろうな」
「なっ、そんなこと言えるわけないだろう!僕は真剣に言ってるんだ」
「じゃあもっと大人になれよ、なあ和也?俺たちが大事に育ててきた会社でも、こうやってちっせーことで騒ぎ立ててイジメみたいな真似をする奴がいるんだ。どうやったら優秀な人材を残しながら平和な環境を整えることが出来るのか。これが今最前提事項だろう」
一樹の言葉にグッと言葉を詰まらせる。確かにそうなのだ。個人的な意見を言えば会社としては成り立たない。だが鈴を疑われるのはとてもじゃないか気持ちが落ち着かない。落ち着かないどころか、怒りで我を忘れてしまいそうになる。
一度呼吸を落ち着けると「そうそう、いい子だ」と一樹が肩に手を置く。
「お前が怒りに駆られても、しわ寄せ食うのは日和だ。社長の権限を持ってしてもこの問題は根深いだろうな。どうしたら効率よく整えることが出来るのか・・今はこれだけ考えてろ。分かったか」
「・・悔しい、けど、そうなんだろうな」
満足そうな笑顔を見せると、一樹は社長室から出て行った。無意識のうちに握りしめていた自分の手は、血が止まってしまい真っ白になっていた。こういう時はすぐにでも鈴に会いたくなってしまう。だが今会えば、要らないことを言ってしまうのは目に見えていた。
どうにか気持ちを落ち着けると、奥のドアから出て行った。
神木が出て行ってから異様に静まり返った事務室では、キーボードをたたく音だけが響いていた。いつもは鳴る電話も、今日はあまり鳴らない日のようだ。気にしないようにしていても、鈴の周りに視線が集まるような気配を振り払うことは難しかった。
少しでも早く仕事を終わらせられるように集中するが、あまりそれは期待できそうになかった。ようやく神木が戻ってくると、少し安堵の息が漏れた。だが誰も神木に触れることはなかったので、少しだけ持ち直した空気を味方に淡々と仕事を終わらせていく。
定時になると神木から声をかけてきた。
「日和ちゃん、仕事進んでる?今日はもう上がっても大丈夫だよ」
「えっ?でもまだ皆さんが・・」
「いーっていーって、ずっと作業詰めてるでしょ?たまには定時で帰っちゃいなよ」
少し腫れた目でそう言われて「はいそうですか」と言える人間が世の中に何割いるのだろうか。少なくとも鈴にはそれができそうになかった。意を決して「そんなことは出来ません」と言おうとしたとき、隣から良く通る声が事務室中に響いた。
「日和定時で帰るわけ?ハアーありえねーんだけど。俺たちの事バカにしてんの?」
「ちょ、氷上君!」
「いや神木さんも甘いっしょ。今やらせないでいつやらせんの?余った仕事、俺たちに回せると思ってる?」
「それは・・」
困ったように視線を彷徨わせると、パチリと鈴と目が合った。鈴はあえて笑顔を見せて、氷上よりも大きな声で言った。
「大丈夫ですよ!私、こう見えてタフなんです!一緒に頑張らせてください」
「日和ちゃん・・ごめんね、私がフォローすればいいって思ってたのに・・」
「いえいえ、私にもフォローさせてください」
お願いします、と頭を下げると周りの視線がいくらか和らいだ。それを察してか神木も「分かったわ、よろしくね」と言って自分のデスクへ戻った。鈴が氷上を見やると相変わらずジト目でこちらを見ている。思わずあかんべーとすると、鼻で「はん」と一蹴して作業へ戻った。
久しぶりにイライラがよみがえってきたが、どうにかそれを作業効率へ変換すると山積みの仕事を氷上の代わりとばかりに攻撃していった。
帰宅するとすでに22時になろうとしていた。あの言葉を聞いた事務室の全員が、月曜日だからかなんなのかやる気を見せて、会社を出たのは21時をとっくに回った頃になっていた。ぐったりとベッドへ突っ伏すと、ケータイを取り出す。
途中で靖春と和也からメールがきていたのだが、どうにも返事をする間も惜しくそのままにしてしまっていたのだった。「只今、帰還」という言葉のみを二人に送ると、そのまま意識が底に沈んでいってしまった。
翌朝、規則的な振動に目を覚ますとケータイが着信を知らせていた。相手を確認しないまま受話器を耳に当てる。
「もひもひ・・」
「あ、あの、おはようございます。昨日はお疲れ様でした」
「・・和也さ、ん?ゆめ?」
半分以上まどろんだままの脳みそをフル回転させて絞り出した言葉は、和也のツボに入ったらしい。ククッという低い笑い声が耳に心地よく響き、もう一度夢の世界へ旅立とうとした鈴を次の言葉で目覚めさせる。
「昨日はあれからすぐ寝ちゃったんじゃないかな、って思ったんだけど。鈴ちゃんちゃんとお風呂入れた?」
「・・わあ、ゆめだけど、ゆめじゃなかった」
「ククッ、現実だよ?ちゃんと起きないと。もう6時だから、今から支度したら間に合うよ」
「分かった・・ありがと、和也しゃ・・グー」
寝たふりをすると、途端に電話口で「えっ、あっ、ちょっ!」と慌てた声がする。その声に顔が自然とにやけてしまう。
「嘘、だよ。ちゃんと起きてるです。和也さん、モーニングコールありがとう」
「良かった・・今から迎えに行こうかと思ったぐらい焦った」
「フフフー、嬉しいな。でも大丈夫だよ、もう起きれたから」
それじゃあまた会社で、とお互いに電話を切る。朝から電話をするのも新鮮でとてもいい気分であった。鈴はお風呂へ直行するとご飯を食べつつメイクを終わらせ、新しいスーツで出勤していった。
仕事尽くしの一週間があっという間に過ぎ、久しぶりに靖春とご飯の約束を取り付けた。残念ながら和也は土日に予定が入っているらしくデートをすることが出来ず、気分が沈みかけていた鈴を靖春が見かねて食事に誘ったのだ。
「もうすぐ9月も終わるわねー」
「地獄の9月だったよ・・早く終わればいいのに」
「そうねぇ、この季節は冷えてくるから余計残業はつらいわよね」
他愛のない話をすることが、こんなにストレス発散になるとは知らなかった。今までいかに貴重な時間を自身で感じずに生きてきたのか分かった。7月に入社してからあっという間の2か月だったが、怒涛のような日々を過ごしたなあと思い返す。
「仕事するってさ、生きるってことなんだなって、思った」
「ん、珍しく深いじゃないの。仕事とは生きること、いい言葉じゃない」
「あとストレスって、本当にあるんだなって、思った」
はい台無しチョップ、と言いながら頭に乗せられた手は店内の暖房で温められてポカポカしていた。自分がいかにストレスと無縁な生活をしてきていたのか、というのも仕事をして初めて知ったのだ。7月の暑い時期からたったの2か月、初めて就職し、初めてセクハラを経験し、初めて彼氏が出来、初めていじめに遭遇している。生きることがこんなに大変だとは思わなかったが、だからといって今辞めたいとは思えなかった。辞めたところで次の当てがないのも辛かった。
「はぁー、でも誰がやってんのかなー・・いい加減飽きてくれないと、困る」
「んーそういうのは、大なり小なりどこでもあるもんだからねぇ。相手が早く自爆してくれればいいんだけど、そういう小さい事する奴に限って狡猾なのよね」
「そーそ。証拠残さずに、事務室の誰がやっててもおかしくないようなことやってくるんだもん。気にしないようにはしてるけどやっぱ結構クルね。・・まさか全員グルとか?ありえないけど、さ」
はぁ、と無意識に出たため息はもう何度目になるだろう。社長室へ呼び出されてから一週間はなりを潜めていたのに、昨日再び神木のデスクに怪文書が入れられていた。怪文書と言いつつも相変わらず鈴の手書きの筆跡だった。
流石にこの怒涛の日々を過ごしているため、ピリピリとした空気が漂った。それに「どうでもいい」という態度の人も多く、そんなことよりも納期の方が今は大事なようだ。誰も何も言わないという異様な空気は、もしかしたらこのまま怪文書が消滅してしまうかも、と淡い期待を抱かせた。
仕事の方も少しずつ目処は立ってきているが、鈴の仕事の進度が遅いためチクチク言ってくる人もいた。主に隣のデスクからなのだが。
「でっもさー、やっぱりなんかおかしいわよね」
「・・何が?私にしてみたらもう納期もおかしいレベルなんだけど」
「いや前に無くしたって言ってた書類よ。なんで無くなったのかしら」
「そこかーい!」と突っ込みを入れるが、靖春は思ったよりも真面目な顔をしている。もう一度聞かせなさいという命令に素直に従う。
「ぼんやりしてたけど、ちゃんと書類をいつもの場所へしまって家に帰った。だけど実際蓋を開けてみると入ってなくて、会社で書類を入れ替えた時に紛れてたみたいで、日曜に会社に行ったらちゃんとあったの。どこかおかしいとこ、ある?」
「鈴さ、トイレで一旦デスク離れたって言ってなかった?」
「・・あ、うん、そうだった」
そういえばトイレへ立ったことを思い出す。だが帰宅前のトイレなんて短時間もいいところだ。疑問が丸ごと顔に出ていたのだろう、靖春は困ったような顔をしている。
「怒らない?」
「うん、大丈夫。もう何を言われても、ちゃんと怒らずに聞ける」
言いづらそうに靖春は言葉を続けた。
「もし、いつも資料をしまう場所を知っていて、それを入れ替えることが出来る人が事務室にいたとしたら?」
「・・氷上さん、とか、隣のデスクだけど」
「よく思い出してみて」
その日はいつもよりも残業の時間が少なかった。と言っても30分とかそれぐらいだ。だが皆のテンションはかなり高かった。30分でも早く家に着けるのは嬉しいのは皆同じ気持ちだったらしい。あっという間に事務室は空っぽになってしまった。
だが一人だけ、鈴と一緒に残っていた人がいるのだ。駅へ一緒に帰るのが日常と化していたのであまり疑問に思うことはなかったが、良く考えたら戸締りが終わってからトイレへ向かったのだ。ということは、必然的にその人物が故意に書類の入れ替えをしたとしか思えない。
靖春とはその後ぼんやりとしたまま解散した。せっかくの楽しいランチの予定だったのに、丸つぶれだ。全くどうしてくれようか、とどうでもいいことを考えるが、最終的に靖春の言葉へ戻ってきてしまう。
「あたしがあの時言ったこと、覚えてる?でも改めて言うわ。気をつけなさい、その上司には」
残業の日々が始まってから、必ず駅まではその人と一緒に帰っていた。戸締りの手伝いまでしていたので、それは間違いない。それはもちろん上司の務めだと思っていたし、それ以上でもそれ以下でもない。
あの時靖春が言ったこと。それが原因で喧嘩になったんだっけ、ああそんなこともあったな、初デート台無しにしちゃった。でも、だって、そんな、もし今考えた可能性があるとしたって、誰が信じるの?氷上さんが犯人に決まってる、いつも私の事睨んでくるし、それに、嫌なことだってたくさん言うし、セクハラだし、そうじゃないと困る。
『んー、鈴あんまりその人信用しない方がいいんじゃない?』
私がどれだけ会社が辛くても頑張れたのは、舞原さんが毎朝居てくれたから。
『なんかねー、ヤーな感じ。聞くだけでゾワッてしちゃう』
家に帰ると愚痴を聞いてくれる春ちゃんが、頼もしかった。一人じゃないって思わせてくれた。
『鈴が言うなら・・って言いたいところだけど、その人はやっぱ気を付けた方がいいと思うわ』
一番最初から私の事を気にしてくれていて、部下思いで、話上手で聞き上手だから会話が途切れることは滅多にない。仕事だって人より多くて、失敗しても全力でフォローしてくれる。それなのに、そんな出来た上司である神木が嫌がらせの犯人だなんて、思いたくなんか、ない。
きっと気のせい、いやでも、だけどやっぱり、頭の中ではずっとせめぎ合いだ。こんな状態で明日からまともに神木の顔が見れるわけがない。だが見なければいけないのだ、鈴が疑ってしまったことを気付かれないようにしなければいけないのだ。
いくら鈍い鈴でも、一度分かってしまうと上手に「信頼」という名のオブラートに包まれていた物がはがれていってしまう。否定すればするほど、神木を肯定しようとすればするほど速度は早まるばかりだった。だが一つ納得いかないのが、理由に心当たりが無いということだった。もちろん嫌がらせをすることに理由なんて、あってないようなものかもしれない。
だがあれだけ嫌がらせをしながらも、仕事上では理解のある上司を演じていたのだ。並大抵の苦労ではないはずである。余程の理由でない限りそんな事は出来ない。意図的に隠されている真実を全てを知るにはどうしたらいいのか、鈴は考えた。
「・・そっか、直接聞けばいいんだ」
至極簡単な答えにたどり着いた鈴は、希望が見えたような気がした。勿論それが昨日の今日ですぐにうまく行くとは思えない。
だが今はこうするしかないのだ。明日に備えて寝ようと思ったが、なかなかうまく寝つけないままに翌日を迎えるのであった。