十七話
目が覚めるとそこは見慣れない部屋だった。高価そうなインテリアが並んだ室内をぼんやりと見渡すと、いつもよりもふんわりとしたベッドに寝ていることに気付いた。横にあった塊に目を向けると、眠っている靖春の顔があった。ここは靖春の部屋だったことを思い出した。
時計は6時30分を指している。会社に通うことが身についた証拠だったが、今はとにかくもう一度眠ることを決めた。ずるずると布団にもぐりこむと目の前に美麗な寝顔がズームされる。靖春はどちらかと言えば夜型なので、朝は目覚ましが無いと絶対に起きれないと断言していた。
すぅすぅと形のいい鼻が呼吸をするたびに、そこからいい香りがしてくるような錯覚に陥る。もちろんそんなことは断じてない。それほど端正な顔をした人が、なぜ女の子になりたいなんて言ったのだろうか。
とりとめのないことを考え始めたら頭が冴えてしまった。やはり起きることにしよう、と体を起こそうとするとふと手をつかまれた。
「ん・・鈴、はよ」
「おはよ春ちゃん。ごめん、起こしちゃった?」
「だいじょぶ、今起きる・・ふぁああ」
大きな欠伸をしながら靖春も体を起こした。コキコキと首を鳴らすと枕元の時計を見る。
「げ、まだ7時前じゃん」
「いつもこの時間に起きてるから、うっかり」
「・・ったく、しゃーないなー。今飯作るから待ってろ」
のたのたと布団から出ようとする靖春を押しとどめると「自分が作るから」と言ってみるが「バーカ」という有難い言葉と共に布団に倒された。ぐっと伸びをしてからニッと笑う。
「鈴に作らせたらキッチンが爆発しそうでヤダ」
「パンぐらい焼けますうううう!!」
ムキーと反論してみるがワハハと声を立てて笑うだけで特に何とも思っていないようだった。鈴は久しぶりに聞く靖春の男言葉に、やっぱ元々は男だったんだよなぁ、としみじみ実感する。何せ女性になってかれこれ6年になる。その間に男に戻ったことは片手で足りる程度だ。
そして取り残される前に鈴も体を起こして、キッチンへついていく。もちろん爆発のお手伝いをするためだ。
「もう卵レンチンすんじゃねーぞ、あれ結構いいやつだったんだからな」
「ご、ごめん・・もうフライパンでやるから大丈夫だよ」
「いや、パンを2分だけトースターかけてくれりゃそれで十分だよ」
ニヤニヤしながら過去の古傷を抉ってくる。一度だけではなく、物を変えて3度程やらかしたことがあるのだ。鈴は言われた通りにパンをトースターに入れてジジジっとタイマーを回す。
「すーずー。2分って言っただろうが」
「・・2分も5分も変わらないよ!」
「そういうところがダメなんだよ・・」
てきぱきと朝食の準備を終えると、声を揃えてから食べ始める。無事2分だけかけることのできたトーストは、程よいきつね色をしていてとても香ばしくておいしい。しっかりおかわりまで済ませると、食器を片づける。
「久しぶりに春ちゃんち来たけど、全然変わってないね」
「そうか?まああんまりいじるものも無いしな。んじゃこれスイッチだけ押しといて」
「うぃー」
ピッとスイッチを押す仕事を終えると、鈴は満足げに親指を立てた。
「・・ったく」
どことなく嬉しそうな顔をしてそれに返すと、靖春は着替えのために脱衣所へ入って行った。鈴はリビングのテレビをつけるとぼんやりとそれを眺める。10分もしないうちに靖春が出てくると、黒のスウェットを着てメイクもしていなかった。髪の毛は後ろに一つに束ねられていて、なんとも中性的な恰好だった。
「今日はメイクしないんだ?」
「出かける用事もねーしな。ていうか鈴はしねーの?」
「メイク道具持ってきてないし・・」
しょうがねーなーと腰を上げると、靖春は自分のメイク道具を駆使して鈴を仕上げる。いつもより3倍ぐらい肌のきめが細かくなった気がする。上品なタッチのメイクはプロさながらの腕前だった。
「ん。可愛いじゃん」
「いつもながらすごいね、プロみたい!」
「まあな。あ、鈴ごめん、マスカラ前髪ついてる」
その言葉にスッと目を閉じると手入れを待つ。だがいつまでたっても手を出さない靖春に、目を閉じながら「まだー?」と言うと「あ、うん」とようやく指先が目元に触れた。しばらくそうしていると目を開ける許可が出る。
パチッと開いた瞬間目の前には靖春の顔があった。鼻と鼻が触れてしまいそうな距離にある端正な顔立ちに驚いて「わっ!」と声を上げる。ワハハと笑いながら顔を離すと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「びっくりするじゃん!春ちゃん自分が思ってる以上にいい顔してんだからね!?心臓に悪い!」
「んー?ごめんごめん、あんまり鈴が可愛かったもんだから見とれてた」
「この期に及んでそんな嘘を!」
キッと睨みつけるが全く意に介さずにしている靖春に、鈴は成す術なく脱力するのだった。
「もー、そういうのは彼氏としなよ!30歳のあの人どうなったの?」
「・・とっくに別れたわよ。あーあ。鈴に先越されたわー」
「そんなことないじゃん、私よりも春ちゃんの方が経験豊富なくせに」
靖春はなんとも難しい顔で「そうね」とだけ言うと、鈴のケータイを指差す。視線を向けるとランプが光っており、どうやらメールを受信したようだ。
「あ、和也さんだ!昨日の事改めて謝っておかないと・・」
「ほんとそうよー、もう二度とあんなことしちゃだめよ?」
「気を付けマス」
やはり本文は昨日無事に仲直り出来たかどうかということが書いてあった。無事に仲直りをしてもう少ししたら家に帰ると返事をすると、昼食を一緒に取らないかとさらに返事がきた。しかも靖春も一緒に、という言葉と共に。
「えっ、なんであたしまで・・」
「分かんないけど、是非って書いてあるよ?一緒に行こうよ」
「・・鈴にそんな顔して頼まれたら、行かないわけにはいかないでしょ?ハァー、着替えてくるわ」
「やった!」
嬉しそうに何を食べに行くのかを悩み始める鈴を横目で見ながら、寝室へ入って行った。
靖春の支度を終わらせると、次に鈴の家へ向かう。顔だけはバッチリなのだが靖春の服では鈴とはサイズが違って着られないのだ。電車に乗って鈴の最寄駅で降りると歩いて家へ向かう。
1日ぶりの家は、それはもう散らかった状態のままきっちり保存されていた。背後で靖春のため息が聞こえたが聞こえないふりをして中へ入る。
着替え終わると部屋の中を一緒に片づけてから、約束の時間に合わせて出発する。最寄駅に着くとすでに和也はそこで待っていた。二人に気付くと手を振って合流をする。
「突然のお誘いですみませんでした」
「いいのよー、鈴も嬉しそうだしね」
「嬉しくないわけないじゃん!和也さん、お誘いありがとうございます!」
頭を下げると和也は嬉しそうに笑みを返す。靖春も二人を見てヤレヤレという顔をしているが、そのまま全員で車に乗り込むと予約してあるという店へ向かう。車内では昨日の鈴のグダグダな様子を面白おかしく靖春が話したため、皆一様に笑顔であった。
店に着くと予約席に通されてメニューを渡される。それぞれが好きなものを頼んでからようやく一息ついてノンアルコールで乾杯をする。
「もう聞いているとは思うんですが、鈴さんとお付き合いさせていただくことになりました」
「知ってるわよ、おめでとう。こんなおバカの良さを見出せるなんて、意外といい男ね」
「ちょっ春ちゃんひどくないそれ!」
意味ありげにフフッと笑みを浮かべると、靖春は和也に耳打ちをする。
「こんな子よりもあたしにすれば良かったのに・・ね?」
「ハハ・・冗談を。僕の一方的な片思いだとばかり思っていたので、今とても幸せですよ」
「ちぇーっ」
口をパクパクとさせている鈴を尻目に、靖春は色っぽく唇を尖らせた。それから優しく鈴に視線を向けると続ける。
「だってさ、鈴。和也さんもあんたと同じ思いなんだって?」
「は、は、は、春ちゃん心臓に悪いから!ヤメテ!」
「・・同じ思いであってくれていたなら、嬉しいです」
何とも言えない羞恥プレイに消えてなくなりたい気持ちでいっぱいになりながらも、ようやく前菜が運ばれてくる。これ幸いとすぐに話を食事の内容に切り替えて堪能する。三人で食べる食事は、とても美味しく会話が弾んで仕方がなかった。
デザートが運ばれる頃には落ち着くかと思われた会話も未だ続き、最初よりも大分雰囲気が和やかになった。真意の分からない靖春の行動が無くなっただけでも鈴はありがたかった。
「和也さん、今日は本当にありがとうございました」
「昼食だけになってごめんなさい、ちょっと仕事の続きがあるんで今日はこの辺で・・」
「あたしまでご馳走になっちゃって悪かったわ」
まるで悪いと思っていませんけどね、という口調でそう伝える靖春に二人は笑顔を見せた。和也も靖春の性格をなんとなくこの食事会で掴み始めているようであった。そして再び最寄駅まで鈴たちを送ると、和也は仕事のために会社へ戻って行った。
残された二人もそこで解散すると、翌日の仕事に備えて鈴は資料を読み込むことにした。やはり心配事が無いと資料がサクサクと頭の中に入ってくる。今日までに覚えたことの反復まで終えるとすでに夜になっておりいい時間になっていた。風呂やご飯を済ませると早々に布団に入る鈴だった。
翌朝から始まった新たな一週間はよく覚えていない。なぜなら仕事が立て込みすぎて、毎日必死にしがみついて皆に付いて行っていたからだ。もちろん鈴だけではなく、他の人も漏れなくそんな状態であったため中々にハードな一週間となった。
途中で励ましあうかのように靖春や和也と電話をしたが、あまり内容は覚えていない。翌日に向けての資料を頭に叩き込む時間が必須だったため、なかなか睡眠時間も取れなかったのだ。カチリとスイッチが入ったように目を開けると、時計は6時30分を指していた。
「・・仕事」
ボソリと呟いてテレビをつけると、いつもと違ったニュース番組が映る。どうやら週末になっていたようだった。なんとなく安堵してゆっくりコーヒーでも飲もうとやかんに火をかけると、着信音が鳴る。どうやらメールのようだった。
【日和ちゃん起きてるかなー?ごめんねーこんな朝早くに!今日会議室使いたいから鍵開けて帰ってねって言ってたの・・覚えてるかな?休日なのに悪いけど鍵の開錠と施錠よろしくね】
目をぱちくりしながら思い出してみる。特にそう言われた記憶はなかったが、今日が何曜日なのかも忘れるレベルだ。きっと忘れてしまっていたのだ。
【ごめんなさい!何時までに開けておけばいいですか!?】
【いいよいいよ、気にしないで。とりあえず8時には開けてもらえるとありがたいんだけど、いい?】
鈴はしつこくない程度にすみません、と繰り返し入力してからメールを送る。急いでスーツに着替えると、時間は早かったが会議室を開けに行くことにした。満員ではない電車に乗るのが久しぶりだったが、鈴はそれどころではなかった。30分もしないうちに会社に着くと、急いで会議室のドアを開けに行く。
正門が開いていなかったので裏門へ回ると、いつもの警備のおじさんが出てくる。目を丸くして「どうしたんだい?」と聞かれるとすぐに中に入れてくれるように頼んだ。
「忘れ物か何かかい?」
「いえ。昨日会議室を開けるように言われていたのを忘れてしまっていて、開けてほしいと上司に頼まれました」
「そうかい?それじゃあここに記名だけしてくれるかな」
名前と時間を書き込むと会社へ入る。シンと静まり返ったオフィスに足を踏み入れると、昼間の騒々しさとは打って変わって朝日が差し込みとても神秘的に見える。無事に会議室の鍵を開けるとすぐ近くでボソボソと声が聞こえた。
一気に背筋がゾワッとするのが分かった。誰もいないはずの場所から聞こえる声は、どう考えてもオカルトチックな方向でしかない。突然の心霊現象に頭がいっぱいになる。朝だから怖くない、というのはその場で体感しないからだ。朝だけど、会社に人が居ないと分かっているからか恐ろしさが一気に襲ってきた。
鈴が硬直している間に声は聞こえなくなった。恐ろしさでその場をなかなか動けずにいると、突然肩に手を置かれる。
「ヒィイイッ!!」
「えっ、ちょ、何?どしたの、こんなとこで」
掠れて音のない悲鳴を上げると無理やり体を振り向かされる。そこには道庭が居た。