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十六話

「神木さん、資料って持ち帰っても大丈夫なんですか?」

「あー・・本当はダメだけど、ここは私の権限でオッケーにしておくわ。なるべく会社で読み込む方向で、どうしてもって部分だけ抜いて帰ってもらってもいい?」


わかりました、と言ってデスクへ戻る。やはりそうそう簡単に資料は社外に持ち出せないようだ。小説を読むことは苦痛ではないのに、こういった資料を読み込むとなると頭をフル回転させなければならないため時間がかかりそうだった。

先に今日の分の仕事を終わらせると、すでに時間は16時30分を回っていた。残業確定である。

皆あまり余裕がないのか、ほぼ事務的な会話だけが交わされる中17時を回り、18時を回り、19時を回ったところで鈴は自分と神木、氷上しか残っていないことに気付いた。


「日和ちゃん、今日はもう私たちも上がるから一緒に上がりましょう」

「こんな時間になってるなんて気付いてませんでした・・あの、ここからこの部分を持ち帰ってもいいですか?」

「分かったわ。じゃあこの用紙に必要なところを書いて、私にまたちょうだい」

「じゃー俺先帰るわ。お疲れーっす」


氷上はそのやり取りをしている中でてきぱきと片づけを終えると、待つことなく帰ってしまった。神木は「まったくー」と言いながらも、いつものことなのか戸締りを始めた。鈴が書き終わる頃には戸締りも終わり、用紙のチェックを終えると二人は同時にタイムカードを押して出る。


「あー、まだまだ仕事見通し立たないなー」

「私もです・・なるべく資料読み込めるように頑張ります」

「日和ちゃん頑張り屋さんだからねぇ、舞ちゃんのお墨付きだよー?あの怪文書だって、舞ちゃんが真っ先に『私、日和さんを信じてますぅ!』って言い出したんだから」


口調を真似すると思いのほか似ていて驚いた。そして鈴の見ていないところでも、そうやってフォローをしてくれている人がいることにとても嬉しくなった。「日和ちゃん頑張ってきたもんねー」と頭をヨシヨシされると何となくくすぐったい気持ちになる。


「あとはこの頑張る姿を見て、彼氏の一人や二人ゲット出来れば完璧じゃん」


その言葉でボッと顔を赤らめる。鈴の変化に「おやおや~?」と口元を抑えながら脇をツンツンされる。


「この前聞いたときは居ないって断言してたじゃない?どこで知り合ったのよー」

「じ、実は・・昨日から付き合うことになりまして・・」

「昨日!?わお、おめでとう!どんな人なの?」


シャイだが優しく、とても安心できる人だと伝えると「そっかー」と笑顔で相槌を打つ。あらかた話終わると鈴も尋ねた。


「あの・・皆さんが言ってる通り、神木さんは本当に社長の事が好きなんですか?」

「なっ、えっ、ちょっ、まだ覚えてたの!?」


顔を真っ赤にしながら突然の反撃に無意味に手を振り始める。可愛い人だなーと思いながら見ていると、やはり神木は「一樹」が好きなようだった。そのことを確認できてなんとなくホッとする。あれだけ似ているのだから、もしかしたら、ということがあってもおかしくはなかった。

そんなずるい感情を持っている自分に軽く罪悪感を感じつつも、神木は「そうよ」と断言した。


「おぉお・・!」

「も、もう!あれだけ大勢にバレてるとは知らなかったけど・・も・・。でも、素敵じゃない?あんな若さで会社切り盛りして、些細なことでもフォローを忘れない姿勢とか。サプライズ好きなのは困ったけど、たまに妙に色気が出てる時とかも・・ね」

「そうだったんですね、でもその妙な色気ってわかる気がします」


恋する乙女そのもののリアクションに若干戸惑いつつも、本当に好きなんだなぁと感心した。そしてこのタイミングで正直にしゃべるのも、きっと鈴に「彼氏が出来た」という部分が大きかったのではないかと思った。

すでに駅前にはついており、これ以上踏み込んだ話が出来ないというところまでくると「それじゃあ、また明日」と神木と別れた。時刻は20時に近づいており、早く連絡をしないと靖春に怒られると思いメールを開くと和也からも受信していた。

週末にご飯に行かないかというもので、鈴は家に帰りつくまで何を着て行こうかとワクワクしながら考えていた。


「おかえり、残業大変ね」

「ただいま春ちゃん!大変だけど、すごくやりがいがあるよー。今日から毎日このぐらいの時間になっちゃいそう・・自分の仕事優先してね」

「フフッ、鈴に言われなくても分かってるわよ」


柔和に微笑んで鈴のコートを預かる。本当にいい嫁だ、と改めて思う。自分に同じことが出来るのかと言われたら、絶対に無理だと断言できる。乳がない、くびれがない、色気がない、器用じゃない、何を取っても靖春には勝てない気がした。


「・・また変なこと考えてるでしょう」

「べ、べっつにー」


下手くそな口笛でごまかすと「もー」と言いながらもご飯を配膳してくれる。それを食べながら今日あったことを話すのが日課になって、もう6年経つ。そのころから料理は美味かったが、今はその何倍も早く上手に作っている。味ももちろん向上していて驚かされることが多い。


「ふ~ん。その神木って人は、いつから社長が好きなのかしらね」

「さぁ・・どうなんだろう。事務室の全員が知ってるってことは、だいぶ前から・・なのかな?」


少し顎に指を置いて考えているようだ。その間に無言でモグモグとご飯を食べ進めるが、靖春の焼いたサンマはまだ旬ではないのにいい塩加減になっておりとても美味しい。もう一口ご飯を口に含んだ瞬間に靖春は言った。


「んー、鈴あんまりその人信用しない方がいいんじゃない?」

「ゴホッ!ゴッホッ、・・え、春ちゃんどういうこと・・?」


予想もしない言葉に思わずむせて、箸が一本転がってしまった。動じることなく背中をさすりながら、靖春は至って真面目な顔をして言う。だが鈴には信じられなかった。


「なんかねー、ヤーな感じ。聞くだけでゾワッてしちゃう」

「で、でも、春ちゃんが思ってる程嫌な人じゃないよ?すごく仕事の面でも、精神的な面でもフォローしてくれるし」

「鈴が言うなら・・って言いたいところだけど、その人はやっぱ気を付けた方がいいと思うわ」


いつもならば「そうかな~?」で終わらせる靖春も、今日はしつこく言ってくる。もちろん靖春を信じていないわけではないが、今日までの神木の行動に不審な点は一つもない。どれもが理想的な上司の対応を完璧にしている。

それに事務室の誰もが神木を慕っているのだ。これ以上の何を以て信じられないのかが、鈴には分からなかった。少し眉間に皺が寄ってしまったらしく、靖春が困った顔をしながら人差し指で鈴の眉間を揉む。


「そんな怖い顔しないで、よく知りもしない癖にぃ~って思ってるでしょ。ごめんってば」

「うん・・でもね、本当ーにいい人だよ?春ちゃんが思ってるような人じゃないよ」

「分かってるわ。ただ、鈴が心配だっただけ」


まるで子供をあやすかのような口ぶりに、なんとなく鈴はイラッとしてしまう。それが態度に出ていたのか、靖春は眉間に置いていた指を引っ込めて鈴の背後から抱きしめる。いつもならそれで仲直りだったのだが、なんとなく拒絶するようにご飯を食べ進める。

じっと靖春の視線が鈴を刺すが、気付かないふりをしてご飯を食べ終えた。


「鈴おかわり・・」

「いらない、ごちそう様。お風呂入ったらすぐ資料読んで明日返さないといけないから。春ちゃんも好きな時に帰っていいよ、ご飯ありがとう」

「・・分かったわ。じゃああたしも帰るわ、おやすみ」


「おやすみ」と声をかけると同時にドアが閉まる。カチャリと上下の鍵がかけられた音がして、いつもの場所に鍵が仕舞われる音も聞こえた。だが鈴には動く気が起きなかった。

何度反芻し、行動を照らし合わせても神木に特別厄介な点は見当たらない。信頼していると前々から言っていた事も含め、靖春の言葉の意味の方が理解できなかった。和也へのメールの返事を済ませると、すぐにお風呂を済ませて資料を読み込む。いくら読んでも頭の中へ入る気がしなかったが、無理やり読み込んでいるうちに眠ってしまった。


翌朝、すっきりしない頭で会社へ向かうと朝の作業をこなす。それから通常業務をしつつ、資料を読み込む。そんなことをしているとあっというまに週末になってしまった。

その間に一度も靖春は家に遊びに来なかった。鈴からのメールに返事はよこすものの、家の中に入っていることはなかった。その証拠に食事の支度やお風呂の支度、朝出かけたまま散らかった室内がそれを物語っている。

完全に靖春に依存していたことを知り、申し訳なく思う気持ちが後から後から押し寄せてきた。だが決定的なことの無いままに和也との食事の日になってしまった。朝起きてからいつものようにメイクをし、着替えるがいつものようにウキウキと浮き足立った気持ちにはなれていない。

その時メールを受信した。


「和也さんだ・・」


どうやら家の前まで迎えに来てくれるらしい。今日は午前中に映画を見て、午後はカフェで休憩するようなデートの予定らしい。何か不都合なことがあったら教えてほしい、と締め括られていたが特に問題ないように思えたので「楽しみです」とだけ返した。

一応靖春にもメールを入れる。


「今日は和也さんと映画に行ってくるよ、春ちゃんもお仕事頑張って・・でいいかな・・」


決定的な言葉がまだ欠けているが、まだ言えるような勇気を持てなかったのでそのまま送ることにした。すぐに「いってらっしゃい、楽しんできて」という返事はきたが気持ちはあまり上がらなかった。

1時間程経つと家の前に車が停まった気配がする。窓から覗くといつものファミリーカーが停まっていたので、急いで車のもとへ行くと和也が出てくる。


「おはよう、鈴ちゃん」


そう言うと助手席のドアを開けて乗りやすいように手を出してくれる。鈴も簡単に挨拶をしてから車に乗り込むと、さっそく映画館のある場所へ走り出す。車中で会話が途切れることが無かったし、とても楽しいのだがどうにも棘が引っかかる。

そうこうしている間に映画館へ着いて車から降りると、何を観ようかと話し合う。心ここに非ずな鈴についに和也は切り出した。


「・・気のせいならいいんだけど、何かあった?」


心配そうに見上げてくる視線はとてもこれから映画を見ようとするような顔ではなかった。きっと同様の顔を自身もしているのかと思ったら、急に泣けてきてしまう。わたわたと慌てる和也の前でぽたぽたと涙を流すと、そっとハンカチが目元に添えられる。


「ごめ・・なさい・・」

「とりあえずそこのベンチ座ろうか」


肩にそっと手を回されて誘導されると二人で並んで座る。なんとなく周りの視線が痛いが、どうにも涙は止まらない。しばらくそうしていたが、和也が一向に何も言ってこないことに気付いて顔を上げると、困ったような笑顔で鈴を見下ろしていた。


「何も、聞かないんですか?」

「聞いてもいいなら聞くけど・・それどころじゃないかな、って。それに今は隣にこうして居られるだけで、僕は嬉しいよ」


もちろん理由が聞けたらもっと嬉しいけど、と続ける。


「・・実は、春ちゃんとケンカっていうか、一方的に私が怒っちゃって」

「そうだったんだ」


それから「神木を信用するな」というようなことも言われたとぼやくと、和也はピクリと一瞬体をこわばらせる。あまりに一瞬だったので自分のことで精一杯な鈴は気付けなかったが、和也は硬い表情をしていた。


「それで、私がそんな人じゃないって春ちゃん追い出すような形になっちゃって・・。ずっとメールはしてるんだけど、仲直りがなかなかできずにいて。でもデート中にする話じゃないですよね!ごめんなさい」

「僕は、さ。親友って居ないから分かんないんだ、ごめん。でもそういうのって親友だからこそ、だよね?すごく大事なことだから鈴ちゃんが悪いと思っているなら、今すぐにでも会いに行くべきだと思う」

「えっ、でもそれじゃあ和也さんと・・」


再び困ったように笑い「うーん」と唸ってから鈴に言う。


「気にしないことはないけど、やっぱり悩んでる鈴ちゃん見てると、僕も苦しいよ。仲直りしてからでもデートは遅くないと思うんだ」

「ううっ、そんな、なんで、うっ、ぐ」


再びボロボロと出てくる涙に今度はすぐに優しくハンカチで目元を拭いてあげると「だって彼氏だからね」と鈴の手を取る。付き合うことになったあの日の夜のように、鈴の右手を和也の両手で包み込む。温かい両手が鈴のこわばった手をほぐしていくような気がした。


「鈴ちゃんが大事なんだ。送っていくから、今日はこのまま春さんのところに行こう?」


ね、と諭されるように言われると鈴も頷くことしかできなかった。映画館に訪れた客に「なんだなんだ」と好奇の視線を浴びているのは分かっていたが、それでも和也の優しさにしばらく涙が止まらなかった。

そのまま来た道を戻って靖春の家へ向かう。鈴の家とは違ってオートロックのマンションなので、部屋番号を押してインターホンを押すと不機嫌そうな靖春の声が聞こえた。


「えっ、鈴なんでいんの・・」

「ご、ごべん、ごべんねええ春ちゃああん」

「ちょ、ちょ、待って、今開けるから!」


部屋着のまま慌てて下りてきた靖春に鈴が飛びつくのを確認すると、和也は静かに車を出した。途中靖春と目があったため軽く会釈すると、向こうも訝しそうに会釈を返した。そのまま車は自宅へ向けて進んでいった。


「・・で、わざわざデートを切り上げて、うちにきたの?あんた」

「ハイ、そうでづ」

「はぁー、一回大声出すわよ?」


すううっと息を吸い込むと、部屋中に響く声で靖春は怒鳴った。


「ばあああっかじゃないのおおお!!!」

「おっじゃる通りでございまずうう」


それでもまだ怒りが収まらないようで、ブチブチと文句を続ける。


「大体ね!あんなことぐらいよくあるじゃないの!なあああんでわざわざ初デート切り上げてこっち来ちゃうかなぁ!?このバカ鈴!ちったあ彼氏の立場ってもんを考えてやりなさいよ!あたしだって忙しくて2,3日鈴んちいけないことぐらいあるわよ!ほんっとになあああに考えてんのかしらねぇこのちっさい頭でえええ!!?」


グリグリとげんこつで頭を抉る。それはもう豪快に抉りまくって鈴の顔が苦痛に歪みつつも、辛うじて泣かずに耐える。先ほどの涙がウソのように別の涙になっていくのが分かったが、必死でこらえている。


「あい、ホンドウニ、ズミマベンデジダ」

「・・ったく。そんぐらいで見放せるほど、あんたのこと嫌いなわけないじゃないの」

「うう、春ちゃん・・」


ハアア、と盛大にため息をつきながらげんこつの手を引っ込める。痛みで視界がぼやけるという初体験をしながらも靖春にすがりつこうと、鈴の方から両手を伸ばす。それをそっと受け止めると、自分の胸元に誘導する。

ポスンという音と共にその場所へ頭が落ち着くと、突然鈴が手を振り払って背中に抱き着く。「あっ」という声と共に床にたたきつけられる靖春がギンと睨みを利かせると、涙でいっぱいになった目と目が合った。


「春ぢゃん、ずぎぃい」

「・・あーもう。あたしだって鈴のことが大好きよ!このバカチンが」


ぎゅうと抱きしめると小声でつぶやいた。


「彼氏との初デート放ってまでくるなんで、本当に大馬鹿よ。ちょっとだけ嬉しかったわ・・」


その言葉を聞くや否や「ウオオオオ」と吠えてから再び鈴の涙腺が決壊することになったのは言うまでもない。

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