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十五話

昨晩は興奮しすぎてあまり上手に伝えられたかが分からない。だが鈴にとってはとても衝撃的な一日になった。会社で突然身に覚えのない事を突き付けられた帰りに、まさか和也と付き合うことになるとは思ってもいなかった。

部屋にいた靖春にゆっくりと話を聞いてもらい、少しずつ冷静にはなった。だが23年目にして初めての彼氏である。あまり興奮は冷めていなかった。


「あああ・・幸せ・・。朝ごはんがこんなに幸せだなんて・・」


鈴は昨晩靖春が作っておいてくれていた朝ごはんを噛みしめ、幸せを堪能していた。だがそれも出勤時間が近づくにつれて重たい暗雲が立ち込め始める。会社に行けば運が良ければ和也に会える、だがあの事務室に行かなければ自分の仕事は始まらないのだ。

幸せのため息とも、不幸のため息ともしれないものを吐き出すと食事を終える。ぼやぼやしていてもしょうがない、行けばなんとかなるはずだ。そう気持ちを奮い立たせると出勤の支度を始めた。


「お、おはようございます!」

「おはよう日和さん」


にこりと舞原に笑いかけられて、鈴はほっとした。昨日はほとんど他の事務員の顔を見ることなく帰宅してしまったので、なんとなく挨拶をするのにも勇気が要った。だが舞原はいつもと同じ笑顔を向けてくれる。


「日和さん、なんだか変なことになっているけど・・私は日和さんの事、信じてるからね」

「ま、舞原さぁん・・!」


嬉しくてじわりと涙が浮かぶが、急いで引っ込める。少しおしゃべりをしながら朝の準備をしていくと、続々と社員が集合してくる。だが誰もが舞原同様に、いつもと変わらない様子であった。皆の様子に段々といつもの調子を取り戻しつつあり、神木が昨日言っていたことは本当だったのだな、と鈴は胸を撫で下ろした。


「皆、おはよう。今日はちょっと厄介な仕事があるけど、協力すれば定時も夢じゃないはずよ。頑張りましょうね」


いつもの朝礼が始まる。厄介な仕事とはなんだろう、と頭を巡らせていると神木は続けた。


「それから、昨日の日和さんのことなんだけど」


無意識の喉の奥から「ヒッ」と呼吸が漏れてしまった。聞かれているかは分からないが、視線が自分に向き始めた。同時に心臓が早鐘を打ち始め、ドッドッドッドという音がまるで耳のすぐ近くで聞こえてくるような気がする。意を決してチラリと周りを見やると、やはり周りも鈴の方を見ているようだった。

その場から逃げたしたい気持ちを必死にこらえてその場に立つ。


「皆が思ってた通り、いたずらだったみたい。一応私の方でも気を付けてみるけど、日和さんは犯人ではないわ。皆も気にしないように」


ポンと肩を叩かれる。その拍子に無意識に握りしめていた手に血が巡る感覚がした。鈴が隣を見ると舞原がそこにいた。いつの間に居たのだろうか、どのようにして並んだかもあまりよく思い出せないが皆が鈴同様にほっとしていたのは確かだった。

どこからともなく良かったなーなどと声を掛けられ、軽く頭を下げながらデスクへ戻って行った。

いつものように滞りなく仕事は進んでいく。途中で何人かに励まされるかのように、肩をポンとされることが多かったがそれは鈴にとっては心臓に悪いものだった。振り返るとウンウン、と頷いたりブイサインを出されたりするのでその度にほっとするのだが。

もうすぐ11時になるか、という時に神木に呼ばれる。


「日和ちゃんー、これちょっとコピーお願い」

「はい、行ってきます」

「あ、ついでにこれも」


横から書類を差し出してきたのは氷上だった。分かりました、と受け取るとジト目を向けてくる。少し心臓がドクドクと嫌な音を立て始めたので、すぐに頭を下げて下がろうとすると呼び止められる。嫌な汗が背中を伝うが、それを顔になるべく出さずに振り返る。


「変な噂、大変だったな」

「は、はい。ご迷惑おかけしました」

「別に俺は迷惑とは思ってないけど?日和がどうなろうが俺の知ったことじゃないし」

「ちょっと氷上くん、いい加減にしなさい」


神木に鋭く言葉を入れられるとあっさりと引き下がる。ハイハイと気の抜けたような返事をする氷上は、あまり鈴のことを快く思っていないという態度がありありと出ていた。鈴もそれを空気で感じているからこそ、すぐにコピーを取りに会議室へ向かう。

後ろ手に事務所のドアを閉めると無意識にため息が出てしまった。だが肯定ばかりされていた中で向けられる否定は、なんとなく鈴の気持ちを安定させてくれた。口に出さないだけで胸の内では何を思われているのか、鈴には図れないからだ。

会議室へ入ると誰もおらず、コピーを取る間機械の前でぼんやりしているとドアの開く音がした。だが振り返った時にはすでに閉まっていて、会議室にも人影は見えない。疑問に思いながらドアに近づくとノックが3度響いた。


「はい?」


ドアを開けるとそこには和也が立っていた。緊張した面持ちだが、顔が少し赤らんでいる。


「あっ、み・・和也さん!」

「す、鈴さんがこの部屋に入るところを偶然見たので・・あの、邪魔じゃなかったですか?」

「いえ、コピー中だったので大丈夫です」


どうぞ、と中に招き入れると鈴はドアを閉める。コピーが終わるまでの短い時間だったが、お互いに立ち話を愉しむ。ものの5分もかからないような時間だったが、鈴にとっては嫌なことをその時だけは全て忘れることのできる時間であった。

コピーが終わり機械が止まると、和也は慌てて用件を伝える。


「あの、確認したかったんです」

「え?何をですか?」

「・・昨日のことが夢だったんじゃないかって、不安で」


照れたように頭をかきながらも、嬉しそうにしている。最初に名前を呼び合ったことで夢じゃなかったことを確認できて、うっかりそのことを伝え忘れていたのだ。鈴はクスクス笑いながら「実は」と自分も同じ気持ちだったことを伝える。


「朝起きてからもぼんやりしちゃって、昨日のことが本当に夢じゃないのか不安でした。私たち、同じですね」

「す、鈴ちゃんも?本当に?・・やっぱり今、確認に来れて良かったです」


目を細めて笑う姿は本当に嬉しそうで鈴は思わず赤面してしまう。それから会議室の時計を確認すると、慌てて和也は部屋を出て行った。


「また、メールしますね」

「待ってます。あ・・私もメールします!」

「クク・・それじゃあ」


ドアが閉められると、朝とは違った意味でドキドキしている心臓が落ち着くまで会議室で気持ちを落ち着ける。それからすぐに事務室に戻るとコピーした書類を神木と氷上に渡す。


「ありがとね、日和ちゃん」

「まあこれぐらい出来てもらわないと困るんだけど」


神木が氷上を睨みつけると「おおこわっ」と言いながら作業を再開する。鈴も自分の仕事を再開すると、すぐにお昼が近くなってしまった。順番に仕事にきりがついた人から休憩に入る中、神木がウーンと渋い顔をしている事に気付いた。

自分の仕事を終わらせて提出しに行くと、どうやら「厄介な仕事」の一部を持て余しているようであった。内容は誰でもできるようなニュアンスだがどうも歯切れが悪い。


「あの・・よければ私でも出来そうなら、やりましょうか?」

「えっ!でもまだ通常業務で手一杯・・でしょ?」


遠慮がちだが、その方が助かるような視線を送ってくる。そんなに困っているのならばもう助けるしかあるまい。「ぜひ」と言うと神木はほっとした顔をしてから、申し訳なさそうな声で言う。


「ほんと悪いんだけど・・少し頼んでもいいかな?」

「えっ、私が触っても大丈夫なんでしょうか?」

「やり方さえ分かれば誰でもできるはずよ、ただ・・皆自分の作業で手一杯だから自分でこの冊子読みながら頑張ってもらわないといけないの」


ドンと置かれた資料は5冊にものぼった。「お、おおう・・」と一瞬たじろいでしまったが、キッと顔を正すと神木に告げた。


「やらせてください」

「ええ!?でもこれ、自分の仕事抱えながらだと結構大変よ?日和ちゃん仕事出来る方だけど、これはもう少し段階置いた方がよかったかも・・」


珍しく弱腰になる神木だったが、鈴にやりきれない仕事を回すような人ではないことを知っていた。きっと直接指導出来ないことを気に病んでいるに違いない、と鈴は改めて「やらせてください」と言いきった。

しばらく渋面を作っていた神木だったが「資料見ても解決出来無さそうな時は、必ず誰かに聞くこと」を条件に仕事を任せてもらえることになった。資料を自分のデスクへ運ぶと結構な重みがあったが、いずれはこれも覚えて行かなければならない仕事に違いない。

鈴は覚悟を決めてその仕事てきと向き合うことになった。


12時が過ぎ、13時が過ぎても一向に資料を読み終わることは出来なかった。何せ仕事の概要だけで1冊分あるのだ。これを一朝一夕で身に着けることが出来る人は、そう居ないに違いない。14時を過ぎたあたりで鈴は声をかけられる。


「日和ちゃん、まさかと思うけど休憩行ってないこと、ないよね?」

「・・忘れてました」

「い・ま・す・ぐ行きなさい!」


笑顔の神木に事務室を追い出されると、自分が思ったよりもお腹がすいていることに気付いた。財布を握って正門を出ると、なんとなくパンが食べたい気分になってくる。そこで通勤ルートにあるあのパン屋に行くことにする。


カランコロン

「いらっしゃいませ」


いつもの店員が笑顔で出迎えてくれる。相変わらず8畳ほどの店内には少量ずつ、たくさんの種類のパンが置いてあった。だが前に見た時よりも数が少ない。やはり昼時を過ぎると売れてしまうのだろう。どれにしようかとパントレーを持って悩んでいるのは、鈴ぐらいなものだった。

総菜パンはほとんど出てしまっていたが、クリームの乗ったパンや、フルーツの入ったパンは割と残っているように思える。やはり昼時にはガッツリと食べられるものが売れるのだろう。今日は残業が確実な予感がしたのでパンを5つ取るとレジへ持っていく。


「これから休憩ですか?」

「そうなんです、取り忘れていたんで上司に怒られちゃって」

「ええ!お昼食べないと午後から元気になれませんよ!うちのパンを食べたら元気になれるんで、午後からも頑張ってください」


にこやかにしながらも、慣れた手つきでパンを1つずつ袋に入れていく。相変わらずの早業だと思っていると、裏から何かを持ってきた。


「・・これは?」

「当店からのサービスです、店長が新しく考案中のパンなんですけど、よかったら感想教えてください」

「えっ、私なんかでいいんですか?」


私なんかで、と言ってみたものの考案中のパンということはまだお店には出ていないはずだ。そんな珍しいパン食べてみたいに決まっている。


「フフフ、お疲れの時に食べてほしいパンということで試作中なので、お客様にぴったりなんですよ」

「わ、午前の仕事頑張っててよかったー!食べたら近いうちにまた来ます」

「はいお待ちしております!ありがとうございましたー」


鈴はスキップでもしそうな勢いで会社まで戻ろうとしたが、飲み物を買い忘れていたことに気付いてコンビニに寄る。お茶と水を1本ずつ買うと、食堂で一息つく。

そこで先ほど買ったばかりのパンを取り出して、何にしようか悩んでいると目の前にコーヒーが置かれた。


「よお、サボりか?」

「ビックリした・・道庭君かぁ」

「おいおいおい、おいおいおいそれは聞き捨てならないセリフなんだけど」


やや眉間に皺を寄せながらも鈴の前の椅子に座る。そしてすぐに目の前に広げられたパンの山に目を輝かせた。


「うおお、これハンドルマスターのだろ?」

「ん?ごめんもう一回言って?」

「だーから、ハンドルマスターのパンだろ?俺もあそこの好きでよく買うんだよなー1個くれよ」


勝手に盗ろうとする手をペチンと軽くたたくと、道庭はぎょっとした顔をする。


「ダメですー、私これからお昼ご飯なんだから!2個は残して、残業するときに食べるんだもん」

「ちょ、子供か・・」


今日は特別お腹がすいていたため鈴の辞書に「分ける」という文字は存在していなかった。いただきます、と手を合わせてから道庭が取ろうとしていたパンから食べ始める。もちろん見せつけるためだ。


「う、いいなあ・・」

「ご自分で買ってきたらいいんですよーっだ」


もぐもぐと食べ進めると、もう冷めていても小麦のおいしさが口いっぱいに広がる。香りも広がる。あぁなんて美味しいんだろう!と思いながらふと道庭を見ると、肘をつきながらも悪くない顔をしてこっちを見ていた。


「どしたの?そんなに食べたい?」

「いや、この前も思ったけど美味そうに食べるよなって思って」

「家じゃろくなの作らないからね。夏はそうめんで乗り切ったのです」


キリッとした顔を作る鈴に声を立てて笑う。八重歯がチラリと見えてとても幼い顔に見えた。


「マジかー、来年の夏は俺が焼肉連れてってやるよ」

「ええ!嬉しいけど、お断りします」

「何でだ?別に肉食うぐらいいいじゃねーか」


ムッとして唇を尖らせるが、弟のようにしか見えない。実際鈴に弟はいないのだが。


「来年になったら忘れてそうですもん、道庭君は。それに暑いのに焼肉って、どんな地獄ですか。そうめんで十分です」

「栄養足りないだろどう考えても。鈴マジおもしれー」

「・・もう、そんなにパンが食べたいんですか?しょうがないですねー、ちょっとだけですよ」


あまりに食べ物の話題が続いたため、鈴は道庭がパンを食べたいのだと理解した。仕方なく食べかけじゃない部分を道庭の口元に寄せると、目をキラキラとさせて大きな口を開けた。


「うお!まじで!いっただっきまーす」

「ちょ、ちょちょちょ!そこ私かじったから!」

「気にしない気にしない」


ガブリと食べられたのは、わざわざ向きを変えていたかじりかけの部分であった。慌ててパンを引っ張ったが、それ以上の力でパンを掴んだ手ごと上から握られて阻止されてしまう。更に半分以上一気に口の中に吸い込まれていき、元々小ぶりなパンは更に小さくなってしまった。


「あぁあ・・パンが・・」

「ごちそーさん。やっぱここのパンうめーわ」


満足げにコーヒーに口をつけて、ぷはーと一気に飲み干した。まだ他の種類のパンがあるとはいえ、あまりにひどい仕打ちである。だが一度どうぞ、と言ったのも事実なため泣く泣く残されたパンを精一杯噛みしめて食べた。

それから他愛もない話をしていると鈴の休憩時間が終わってしまった。道庭はこのまま今日は帰るようだったが、帰宅してからも仕事があると嘆いていた。いったいどんな仕事なのか興味が無いわけではなかったが、あまり深入りしてほしくないようなのでそこで話は終わった。


「じゃ、またな」

「うん。お疲れ様でした」


残ったパンを袋に入れると鈴は先に食堂を出る。事務室に戻ったら再びあの資料とにらめっこをする前に、自分の今日の仕事を終わらせないといけない。資料の持ち帰りが出来るかどうかを神木に聞くのを忘れていたので、事務室に戻ってからすぐに尋ねに行くことにした。


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