十四話
午後からは腫れ物に触るような扱いを受けながらも仕事を終わらせた。珍しく残業が無かったのは、神木の配慮だったのかもしれない。
正門から出ると見覚えのあるファミリーカーがある。見ないふりをして通り過ぎようとしたが、運転席で電話をしている和也を見つけてしまった。同様に和也も鈴を見つけると、すぐに電話を終わらせたようで車から降りてきた。
「お疲れ様です、今日は定時なんですね」
「あ・・はい。光葉さんも定時だったんですか?」
「そうなんです、せっかくなのでお家まで送りますよ」
ニコリと笑いかけられるが、今の鈴は割とひどい顔をしているのではないかと思っていた。午前中にあったことを思うと、今でも口をついてその事をぶちまけてしまいそうな気がする。そうすると同じ会社に働いている和也にはかなり迷惑な話題なのではないか。
鈴は少し残念そうな顔を作ると頭を下げた。
「ごめんなさい、少し帰りに寄りたいところがあって・・」
「そうですか。じゃあ僕も一緒に行っても・・いいですか?」
「えっ?」
とっさに顔を上げると和也が心配そうに鈴を見ていることに気付いた。やはりいつもと違うことに気付かれてしまっているのだ、と鈴は後悔した。
「直接言うのは・・ちょっと気が引けるんですけど、なんだかいつもより元気がない気がして」
「そ、そうですかっ?もう一か月なんで、少し疲れが出てきてるのかもしれないです」
「それじゃあ尚の事、一緒に行ってもいいですか。心配なんです」
改めて少し強めに言われると鈴もさすがに断りづらくなってしまった。本当は家に帰ってからすぐに靖春に話を聞いてもらう予定だったのだが、少し時間をずらさなければならなさそうだ。
「分かりました、じゃあ・・あの、一緒に行ってもらっていいですか?」
「もちろんですよ。乗ってください、ドア閉めますね」
助手席に乗せられると何となくため息が出てしまった。それに気付いて、慌てて佇まいを直すと同時に和也が乗ってくる。
「ところでどこへ行くつもりだったんですか?」
「あっ、えーっと、そのー・・」
そこで鈴はどこへ行くかを考えていなかったことに気付いた。慌てて取り繕おうとするが、多分和也にはお見通しだろう。少し迷ったが思い切って言うことにした。
「・・ごめんなさい、本当はどこにも寄るつもりなかったんです。嘘ついちゃってごめんなさい」
「そうだったんですか。それじゃあ、僕のおすすめの場所に行ってもいいですか?」
「えっ?怒らないんですか?」
鈴が言ったことはストレートに言えば「あなたと帰る気はないから嘘をついて予定を作った」ということだったのだが、特に怒ってる様子は見られなかった。むしろ素直に謝罪したことを喜んでいるようにも見える。
「怒るなんて、とんでもない。代わりに、あの、ちょっとだけ遠いので・・今日の夜ご飯ご一緒してもらってもいいですか?」
「おすすめの場所ってそんなに遠いんですか?」
「ご、ごめんなさい。高速使えばほんとにちょっとなんです。あ、あの、変なこととか絶対しないんで、僕の事信じてもらえませんか?」
緊張しているのかハンドルを握る手をグーにしたりパーにしたり忙しそうだ。鈴はむしろそんなに遠いのに仕事終わりに運転してもらって大丈夫なのか、という心配からの言葉だったのだが和也は違う意味で捉えたようだった。
慌ててそのことを指摘すると和也はほっとした顔をする。
「是非、行きたいです。運転よろしくお願いします」
「安全運転でいきますね、ドライブ中の金銭のことは今日は何も気にしないでください」
「・・先にそれ言っちゃいますか」
「僕のわがままで行くんですから。これぐらい当然です、じゃなきゃここで降ろしちゃいますよ?」
和也らしからぬ言葉に驚いて横顔を見ると、顔が真っ赤になっている。する気がないなら言わなければいいのに、と思いながらもそれを嬉しく思う自分が居た。
「それは困っちゃいます、でももしそうなったら・・走って追いつくので大丈夫ですよ」
「えっ!お、降ろすわけないじゃないですかっ!」
「明日の朝出勤出来なかったら、社長に直談判しちゃいますからね」
いつの間にか普段通りの空気になってしまった。何度か食事をして話していると、その人のくせも見えてくる。例えば和也は少し言いづらい事や、冗談だったり、普段自分から言わなさそうな事を言おうとすると100%言葉に詰まる。
一度シフォンスカートを履いて待ち合わせ場所に行った時のことだった。駅ビル近辺のリーズナブルなご飯屋だったので駅の改札近くで待っていると、早足で和也が合流した。そして第一声がこれだ。
「お、お待たせしました。ス、スカート、あの、遠目からでも日和さんだって分かりました。っかわいいですね、似合っていると思います」
顔まで真っ赤にされたら、鈴も顔を真っ赤にするしかない。周りの視線が気になったが、何よりもその言葉が嬉しくて仕方がなかった。その日からそのシフォンスカートは一番お気に入りのものになっている。
思い出してニヤニヤしていると、和也が赤信号で止まると同時に鈴を見る。
「・・ちょっとは気分、良くなりましたか?」
「えっ?あ・・」
言われてから、そういえば今日は嫌な一日だったことを思い出す。だが鈴はそのことをすっかり忘れていた。誘い方は割と強引だったはずなのに、今はこの時間を心の底から楽しんでいるのだ。それに気付いた時に胸の奥がドキドキと強く音を立て始めた。
「誘うときに、ちょっと強引すぎたかなって思ってすごく不安だったんです。でも、今の日和さんはすごく楽しそうで・・本当に、誘って良かったなって思いました」
「そうだったんですね。私も・・私も、誘ってもらえて本当に嬉しいです」
ありがとうございます、と頭を下げると後ろからクラクションを鳴らされる。すでに信号が変わっていて、少しの間流れを止めてしまっていたようだった。和也が車を発進させてから近くのコンビニに駐車する。
「の、飲み物でも買いませんか?会社からそのまま来てしまったんで、僕喉が乾いちゃって」
「じゃあ私買ってきます!何がいいですか?リクエストが無いなら、お茶にしちゃいます」
「・・僕に出させない気ですね?」
すぐに鈴の意図に気付くと困ったような顔をする。だが鈴も譲る気がさらさらなかったので、涼しい顔をしている。ここでは和也が折れると、コンビニに入っていくのを見送った。
お茶とお菓子の入った袋を持って助手席に座ると、和也は「ありがとう」と受け取る。
それからすぐに高速に乗ると、1時間ほどであっという間に目的地に着いた。まだ夕日が沈みきっておらずうっすらと帳が下りている程度だが、ここは割と人の居る夜景スポットのようであった。所々カップルが肩を寄せて夕日が沈むのを眺めている。
「ご、ごめんなさい、いつもは一人で夜中に来てぼんやりしてるんで気にしてなかったんですけど・・」
「アハハ、むしろ今まで気付かなかった方が奇跡ですよ!光葉さんってやっぱりどこかうっかりしてますね」
「返す言葉もありません・・」
ゆっくりと日が沈んでいく。夏の蒸し暑さがまだ少し残っているが、もう9月になっている。風が少しだけ冷たくなってきていて、夜風にはあまり当たりすぎない方が良さそうだった。だが会話が途切れることは無く、完全に日が沈むとまばゆく光る街が一望できた。
なんとなくそれを無言で眺めると、和也は改めて鈴に向き直って真剣な表情になる。
「僕、自分がこんなに女性に積極的になれるなんて、思ってなかったです。昔から本当に、本当に兄無しでは何もできないグズでした。日和さんの傍にいると、何でも楽しくて仕方がないんです。返事は分かってるんです、でももう言わずにはいられない」
ゆっくりと右手を差し出されて鈴の前で止まる。あまり光が無いこの場所でもわかるぐらい顔が真っ赤になっていた。
「僕と、付き合ってもらえませんか」
はっきりとそれだけを言うと、黙って顔を下に向けた。自分よりも背が高いはずなのに、なんだか小さく見えてしまう。
それまでは最初がマイナスだったがために、好きかもしれない、遊ばれているだけかも、などと頭をかすめるのはネガティブなことばかりであった。それが今自分が望んだ最高の形になって目の前に差し出されている。
現実として受け止めるまでに少し時間がかかってしまった。だがそれを理解した瞬間に両手で差し出された現実をそっと包んだ。和也がゆっくり顔を上げながら、鈴の手を軽く握り返したのが分かった。
「私なんかで、いいんですか?本当に嬉しいです・・!よろしくお願いします」
二人の周りでパチパチと拍手が聞こえた。その声で我に返ると周りのカップルが自分たちに向けて送っているようであった。急に恥ずかしさがこみあげてきて、軽く会釈を返しながら急いで車に戻る。ドアを閉めたところでフゥとどちらからともなく息をつく音が漏れた。
「・・ククッ、こんなところで言えばこうなりますよね」
「ほんとですね、恥ずかしがりのくせに・・フフッ」
お互い自分の顔がどんな状態になっているのかが分かっているので、あまり目を合わせようとはしなかった。たまにチラリと目線を向けると目が合ったり、合わなかったりしてなんとなく気恥ずかしい。
そのままその場所を離れて帰路についた。
行きの高速も早かったが、帰りはもっと早いように感じた。あっという間に鈴の家の近くまで帰ってきてしまう。
「・・もう着いてしまいました」
「早かったですね、でももう結構いい時間ですよね」
時計を確認すると21時を回ったところである。そこで気がついた。
「あ・・ご飯・・」
「忘れてた!ご、ごめんなさい日和さん・・」
この世の終わりのような顔をして謝ってくる和也に、思わず鈴は噴き出した。
「ちょっ、そんな顔しなくて大丈夫ですよ!私も今の今までご飯の事すっかり忘れてましたし」
「うう・・でも今からだと、ちょっと女性向ではない時間ですもんね・・。また後日、あの、お誘いしてもいいですか?」
「・・どうしよっかな」
鈴が意地悪そうな顔をして言うと、再びこの世の終わりのような顔を作っていく。それが面白くてつい意地悪してしまったが、コホンとわざとらしい咳払いをしてから和也に向き直る。
「あの、私って光葉さんの彼女・・でいいんですよね?光葉さんは私の彼です・・し、これからは誘うことを躊躇する必要は無いんです!私にとって人生初の彼なんで、至らないことばかりだと思うんですけど、これからたくさんデートとか、しましょうね!」
恥ずかしさで詰まりながらも言い切ると、和也は実に幸せそうな笑みを浮かべる。もちろん直接和也の顔を見れずに視線を彷徨わせている鈴には見えなかったのだが。
「うん、たくさんしよう。僕の方が至らないことばっかりになると思うけど、その時はビシバシ言って・・鈴ちゃん」
名前を呼ばれてボッと顔を赤くすると、和也も顔をボッと赤くさせる。変な間を開けてから鈴も負けじと言い返す。
「わ、わ、分かりましたっ、和也さ、ん」
一度赤くなっているのでそれ以上赤くなることはなかったが、気持ち的にはボッと顔を赤くさせる二人だった。そのまま「それじゃあ」と名残惜しくも別れて和也のテールランプが見えなくなるまで見送る。
ようやく見えなくなったと思ったら、走って部屋に戻る。
バン!とドアを開けるとそこには靖春が居た。
「もー!遅くなる時はあれほど連絡しなさいって言って・・どしたのその顔?」
「フォオオオオ!!初めて彼氏ができっ!!フォオオオ!!」
「ちょ、ちょ、日本語しゃべりなさいって!あと落ち着きなさい!」
鈴に人生初めて彼氏が出来た日となった。