十三話
休憩から戻ると同時に、氷上に詰め寄られる。
「日和。今日食堂でミチバってやつのこと聞いたけど、誰も知らなかったぞ?」
「え、そんなはず・・だってこの前会議室に居ましたよ?」
「会議室って・・。そんな密室で男と二人でいたのか?」
露骨に嫌な顔をして眉をひそめる。若干距離が出来たことにホッとしながら、どうやって切り抜けようか考えを巡らせる。
「そ、そうです。全然知らない人なんですけど、会議室で一週間ランチに付き合ってくれたんです」
「一週間も一緒に過ごしたのか!?」
「ハイ」
驚愕して目を見開く氷上を見て、これはいけると鈴は更に追い打ちをかける。
「実は今日も夕食に誘われてるんです。行きつけのバーを紹介してくれるそうで・・」
「もーいい。もーしゃべんな、分かったから」
「ハーイ」
とても残念そうに引き下がって見せると、氷上は舌打ちでもしそうな勢いで自分のデスクへ戻った。鈴が隣に座ると、デスクとデスクの間にわざとティッシュ箱やペン立てを並べ始める。これはもしかして撃退完了なのでは?と思い神木のデスクを見ると、満面の笑顔で親指を立ててくれていた。
「チッ・・何も・・・・・教えて・・」
ひたすら隣でブツブツ言いながら仕事をこなす氷上は、もはや鈴の姿は映っていないようだった。
三日ぶりに静かな午後を過ごすと、1時間ほど残業をして帰宅する。帰り際も必要最低限の言葉を交わすだけで終わり、完全に撃退出来たことが証明できた。
ウキウキとした気分で家に帰り、ベッドへダイブしようとドアを開けるとそこに靖春が立っていた。
「おかえり、鈴」
「はっるちゃーん!!ただいまー!!」
「えっ、なに、どうしたの?」
ご機嫌で帰ってきた鈴に何か言いたげだった靖春の顔が困惑している。「まぁまぁ」と言いながらワンルームの部屋へ入ると、ここ三日で起きた出来事を結末まで一気に話す。途中で靖春の顔が青くなったり、笑顔で怒ったりしていたが、最終的にはフウとため息をついて鈴の頭を撫でる。
「ずーっと連絡なかったから、心配だったのよ?でも頑張ってたのね、鈴も」
「ふふふふー、すごいでしょ、すごいでしょ。一度も遊んだことがないのに遊んでる風の演技!女優目指せる?」
「言い過ぎ」
パスンと頭にチョップを入れられるが、鈴は笑顔だった。久しぶりの靖春のご飯を平らげると「そういえば」と思い出す。
「春ちゃん、なんで怒ってたの?」
「・・連絡なかったから心配してたの。もー、今日もあたしが来なかったら連絡しないつもりだったでしょ?」
「トンデモゴザイマセン。電話はしようと思ってたもん」
そこで鈴がケータイを見ると、メールが届いていた。中を見てみると道庭からである。
「あ、そだ。あと新しい友達。めっちゃテンション高くておもしろいよ」
「ふぅ~ん、どんな人なの」
特徴などを話すと、靖春はニコニコしながら話を聞いてくれた。今度こそドタキャンしないようにしないとー、などと鈴が言っていると靖春は悲しそうな顔をした。
「どうしたの?え、何か気に障ること言っちゃった?」
「・・んーん、そんなことないわよ。親友の成長を真横で見ることが出来て嬉しい反面、もうあたしだけの鈴じゃなくなっちゃうのかなって」
「春ちゃん・・」
鈴は悲しそうな顔をしながらも、優しく頷いて話を聞いてくれる親友に胸がいっぱいになった。鈴だって、靖春が職場の面白かった話をしてくれるのは嬉しい反面、少し嫉妬していた部分があったのだ。
でもそれを直接言ってくれるのと、胸の内に隠すのではわけが違う。鈴は嬉しくなって靖春に抱き着いた。ボインとかすかに揺れる乳が少しギャグっぽくて笑ってしまった。
「何よう、あたしが嫉妬したらおかしい?」
「んーん。なんか同じこと思ってたんだなーって、びっくりして嬉しくなっただけ!あとおっぱいが上手いこと揺れるから、なんか面白いなって」
「・・鈴はないもんね」
「ちょ!気にしてますから!偽物めー!」
いつものような空気に戻ると、靖春もいつものような笑顔に戻った。その日の夜は翌日からの仕事に備えて早めに解散することになった。玄関先で見送ると、靖春は何度か振り返って手を振ってくれた。
部屋に戻ってから途中になっていたメールに返事をする。
「今日はごめんなー。あれ鈴のケー番しょ?登録していい感じ?・・そりゃ登録しないと、次電話したときわかんなくなるのに。いいよー、次電話したとき分かんなくなっちゃうじゃん・・っと」
午前中と同じように10秒もしないで返事がくる。もう寝るところだったかな、と思いながらメールを読む。
「次とか言われると期待しちゃうんだけど!あー早く仕事片づけー・・ってご飯食べに行くって言い出したのそっちじゃん・・。出来る男って自分で言っときながら自由な人だなー」
結局20分程メールのやり取りを続けたが、眠さに耐えきれなくなり辛うじて「もう寝るよー、おやすみ」とだけ送るとすぐに夢の中へと旅立っていった。その後一度だけメールを受信してバイブが動いたが、気付かずにそのまま朝まで眠り込んだ。
翌朝から、ようやく落ち着いた日常が戻ってきたような実感が持てた。
朝の掃除を始め、挨拶をし、仕事をこなし、氷上に邪魔されず、食堂でご飯を食べ、午後からも仕事をする。途中で休憩をはさみながらも無事に定時で上がれるときもあれば、少し残業しなくてはならないこともあるが充実した毎日であった。
家に帰るときには靖春にメールをして、たまにメールがくる道庭に適当な返事をする。なぜなら道庭からのメールは大体どうでもいいことが多かったからだ。それでもだらだらとメールを続けていると、気付いたら結構時間が過ぎているということもあった。
しかし1か月もすると少し雲行きが怪しくなってきた。
「日和ちゃん、ちょっといいかな」
「あ、はい」
小さく手招きされて神木のデスクに行くと、意を決したように言われる。
「これ・・見覚えあるかな?」
「手紙ですか?いえ、私は見たことありません」
だが文字はどう見ても鈴の字であった。たまに手書きで提出しなければならないものもあるが、その時に書く字にそっくりであった。むしろ鈴が書いたとしか思えないような筆跡である。
しかしここ1か月夢中で仕事をしていたため、手紙を書くような暇はどこにもない。それは神木も承知しているはずだ。それでもこうして提示するということは、何かしら事情があるようだ。
「ざっと目を通してもらってもいい?ごめんね、こんなこと本当はしたくないんだけど・・」
「はい・・えっ・・・?そんな・・」
手紙は全部で4枚あった。どうやら研修中から書かれているようだった。内容は「仕事がきつい」や「私の技量を超える仕事をさせられる」など仕事に対する不平不満がメインだったが、個人名を指して中傷しているようなものもあった。
しかしそれらは特に悪意を持って言ったわけではないのに、無理やり悪意のあるように捉えたような文章になっている。1言ったことが10に増幅されて書かれていた。
「実はね、これ研修中から私のデスクに週に1回入れられてたの。もちろん他の人には言わなかったんだけど、個人名とかが出てきたらさすがに確認せざるを得なくて・・」
「私やってません、本当です。確かに仕事は大変ですけど、それに不満を持ったことは一度も無いです」
突然目の前に訪れた闇に、鈴の全身は血の気が引いていた。事務所にいる全員が自分をジロジロ見ている気がして、足が震え始める。必死で自分は違うんだ!と伝えたいのに、逆に言葉が出てこない。震えながら神木を見ることしか出来ずにいると「ふぅ・・」とため息をついてから神木は微笑む。
「もちろん知ってるわ。一応確認しただけだから・・大丈夫、私たちは日和ちゃんの味方よ」
「ハイ・・」
「ちょっと早いけど、お昼休憩してくる?この時間ならまだ食堂誰も居ないと思うから」
小さくハイとだけ言うと鈴は財布を持って食堂へ向かう。事務所のみんながどんな顔をして鈴のことを見ているかを知るのがこわくて、俯いたまま部屋を出た。
「・・私、日和さんはやっぱりやってないと思うんです・・」
「フゥー・・。私もそう信じてるわ、だって日和ちゃんあんなに仕事頑張ってたし」
「ずっと朝一で仕事場に来て、一緒に掃除してるんです。そんな子が自分を落とすようなことするとは思えないです」
舞原がそう言うと、新藤も同意する。
「あそこまで正直に仕事頑張れる子ってなかなか居ないしな。ていうか舞原まだ朝一できてたのか?」
「そんなこと今はどうでもいいですっ。あんなに頑張り屋さんな日和さんが疑われるなんて・・」
「でもさー、文字とか完全に本人のだったんだろ?」
氷上は鈴を疑わしく思っているようだ。眉間のしわがあれから1本多くなっている。
「俺らもソッチ本職じゃないし何とも言えないんじゃないんすかー?まーでも真似してるってなったら、ここの事務員全員怪しいっすけどね」
柳瀬が軽く言うとシンと静まり返る。確かに鈴ではないとなると、じゃあ誰が、どういう目的をもってこんなことをしているのかということになる。しかも途中からではなく、研修中から周期的にやっているのだ。確実に鈴の評価を落としたい人物がこの中にいることになる。
「・・はぁ、とりあえずこのことは一旦保留ね。とりあえずいつもの仕事量だけはこなしていけるように、平常運転でよろしくね」
誰ともなく返事が返ってくるが、それはあまり気のない返事だったような気がした。
鈴が食堂に向かうと誰も中にいる様子はなかった。ほっとして中に入ると、食堂自体がまだ準備中のようである。談話室の隅の椅子に腰かけると鈴は頭を抱える。どうしてこんなことになっているのか、仕事を毎日していただけなのに、研修中から愚痴がずっと書かれていたし、最近思ったことも全部書き込まれていた。
ブブッとポケットで振動したので無意識に見ると、和也からのメールであった。この1か月で2度ほど夜ご飯に連れて行ってもらい、そのたびにお金のことで押し問答したものだ。仕事のことも話していたし、確か最後にご飯に行ったのはつい二日前だった。鼻の奥がツンとしたが、なるべく気にしないようにしてメールを開くと、いつものように優しいメールであった。
「こんにちは、あっというまに一か月ですね。この間のご飯の時も言いましたっけ・・同じことばかりですね、すみません。来週予定が合いそうだったらまたどうですか?とても楽しかったです、お返事待ってます・・っぐ、グス、う、泣くな、泣くな泣くな」
あっという間に画面が見えなくなって、更にぽたぽたと涙が落ちていく。先ほどのことを思い出さないように、靖春のことや、和也のこと、美味しいご飯を思い出したりもした。だがどうしても出てくる涙は止まらなかった。
ハンドタオルを手に取ると、妙に手触りのいいタオル生地だったことに気付く。見ると、汚したお礼にと後日道庭からもらったものであった。あの時は必死に仕事をこなしていたな、と記憶が顔をのぞかせた瞬間後から後から涙が出てきた。
「辛いこと、あった?」
隣から聞こえてきた声に、一瞬ビクリと身を震わせる。タオルを少しずらして見てみると、スーツを着こなした一樹がいた。柔和な笑顔を見せて無理には近づかない、とばかりに一つ隣のテーブルに座っている。鈴がブンブンと首を振ると一樹は困ったように笑う。
「そんな恰好して、辛いことが無いって方がウソでしょ。ほら、これ飲んでみて?おいしいよ」
テーブルにはフルーツジュースの紙パックが置かれる。しっかりとストローも刺さっていて、すぐに飲めるようになっていた。本当にこの社長は気が利いているな、と変なところで冷静になった鈴は目元をタオルで隠してから一樹の方へ向き直る。
「ずびばぜん、おきづがい、あでぃがどうございまず」
「ここの社長は優しくてイケメンで気遣いも完璧、本当言うことないよね」
「もぐひじまず」
「そこは同意してよ・・」
あえておどけるように言われると段々と気持ちが落ち着いてくる。一社員が社長の気を煩わせてどうするんだ、という気持ちが脳に伝わった瞬間悲しさが引っ込んでいく。タオルをどかして社長をしっかり見るが、すでに腫れてきていてあまりはっきりと見えない。まだ涙でぼやけているようだ。
「あーあ、顔が可哀想なことになってる。せっかくっ可愛い顔なのに」
「そうでづか・・どうぼあでぃがどうございまず」
「これで冷やしてあげて、多少いいんじゃないかな」
受け取る前に鼻をかむ。ビーンと勢いよくかむと、鼻の中がスッキリした。持っていたタオルで手をしっかり拭いてから、ひんやりとしたものを包んだハンカチを受け取ると、さっそく目元に当てる。冷たくて目がスッキリして気持ちがいい。だがまだあの事務所に戻ろうという気持ちまでは戻ってきてくれなかった。
ふと隣を見ると、まだ一樹がいることに気付いた。
「あれ、どうしたんですか」
「・・日和さんが心配だからここにいるんですけど」
「あっ、なるほど。すいません・・でももう大丈夫なので、どうぞ業務の方へお戻りください」
立ち上がって頭を下げると「ハァ・・」と息をついてから立ち上がる気配がした。頭を戻すと結構近くに一樹が立っていた。頭一つ以上違う身長なので見上げる形になるが、結構首がきつい。
「辛いときは、いつでも言いにおいで。僕は歓迎するよ」
「いや一々社長に言いつけるとか、どこの小学生ですかって話です」
「君ね・・まぁいいや。ジュースはありがたくもらっておきなさい」
一樹はそう言うと食堂から出て行った。そういえば今日は嫌味が無かったな、と今頃になって思う。本当に仕事の出来る人は違うんだなーとぼんやり思っていると、入れ替わりに神木が入ってくる。さっきまで背筋の一つも伸びなかった身体が、一気に緊張する。
「良かった、まだいたのね。あぁ緊張しないでね!・・って言ってもさっきの今じゃ無理よね」
「いえ・・すみません、さっきは頭真っ白になっちゃって何も言えませんでした」
「いいのよ、分かってる。皆も疑いたくないけど、とりあえず直筆のような文字だからってことで一度聞くことになったの。さっきの反応見れば誰だって日和ちゃんがしたなんて、思わないわ」
安心させるように微笑まれると、鈴も少し気が晴れたような感覚になった。神木はそのまま鈴の斜め向かいに座ると、前のようにコーヒーを淹れる。
「あら・・これ自分で買ったの?」
「いえ、さっき社長がたまたまここに来て、買ってくれたみたいです」
「そう。ごめんね気付かなくて!」
慌ててコーヒーを片づけようとするので鈴は首を振る。
「気分をシャキッとさせたいので、コーヒーぜひ飲みたいです」
「でもこれ・・飲んでたんでしょう?気にしないで、私がコーヒー飲むわ」
「まだ口つけてないんで・・口つけてない証明はできませんけど、神木さん飲みますか?私、神木さんが淹れてくださったコーヒーが飲みたいんです」
「フフ。ありがとう、ちょうど甘いのが欲しかったの」
嬉しそうにジュースを口に運ぶ。鈴もそれにならってコーヒーで気分を落ち着ける。神木が淹れてくれるコーヒーを飲むと、元気になれた。もちろん誰が淹れても同じ味なのだが、ずっと自分の味方でいてくれている神木は信頼できる上司ナンバーワンになっていた。
比較対象が氷上と社長だけというのが何とも言えない気分にさせられるが。
「・・こんなところに、サボテンなんてありましたっけ?」
「面白いでしょ。この会社にはね、いろんなところにサボテンが飾ってあるの。社長の趣味なんだけど、たまに場所が変わったりして何でこんなところに?って場所に飾られることもあるのよ」
「へぇ・・」
可笑しそうにクスクス笑いながら神木は続ける。
「それにね、最近また少しずつ増えてるの。一時期減ってたんだけど、社長に余裕が出てきた証拠だって皆言ってるわ。私たちからしてみれば、サボテンの世話なんてしてないで私たちの仕事を減らしてくれたらいいのにねーって話なんだけどね」
「そうなんですね。仕事にも少し慣れてきたんで、ちょっと意識してみることにします」
「見つけたら誰にも言っちゃだめよ?位置が変わったときに、そういえばどこどこに置いてあったの無くなりましたねーって皆で言い合うのも楽しいんだから」
なるほど、そうやって共通の話題作りも兼ねているのかと鈴は素直に感心した。そこで神木は時計を見ると鈴に目線を送る。
「・・あ、食堂開いたみたいなんで、私ご飯食べたらすぐ事務所戻りますね」
「分かった。皆で待ってるわ」
「ハイ・・ありがとうございます」
一瞬顔がこわばってしまったが、すぐに頭を下げてそれを見せないようにする。多分ばれているだろうが、直接顔を見られたくないのも確かだった。神木はそのことについては何も触れずに事務所へ戻って行った。
鈴はドアの閉まる音を聞いてから顔を上げると、両頬をパチンと叩く。それから食堂でご飯を食べ終わると事務所へ足を向かわせた。