十二話
「何、昼休憩長すぎるって?」
「んなわけないです、神木さんは私のことを心配してくれてて。仕事の進度を聞かれたのと、少し休憩させてくれただけですー」
会議室に戻ると、道庭がさっそく茶化してきた。それを軽くあしらうと、鈴はさっそく伝票の整理に戻る。行く前と違ってリフレッシュしたような態度をしている鈴に、道庭は興味深げにしている。
「道庭君も早くお仕事終わらせたらどーですかね」
「俺の今日の分もうすぐ終わっちゃうからね?俺仕事の鬼だから?マジかっけーな俺・・」
大げさに前髪をかき上げるようなポーズが、妙にくさくて笑ってしまう。鈴の口元が緩んだことで調子に乗り始めた道庭は、鈴の伝票を半分取り上げる。
「ちょ、何するの!」
「競争しよ?俺と鈴、どっちが仕事の効率が早いか。身を以て感じるがいいさ・・はいよーいどん!」
言うや否や猛烈な勢いでペンを動かしつつパソコンに打ち込み始める。もう何を言っても無駄な気がしたので、鈴もパソコンへ向かう。だが隣が気になるのでチラリと盗み見ると、普段鈴が入力するスピードが子供だましのような速さである。
慌てて自分も集中してパソコンへ向かうが、ようやく全て終えてバッと顔を上げた拍子に道庭と目があった。
「ふあー、終わった?俺だいぶ前に終わったんだけど」
「なっ、えっ、いつ!?」
「んー分かんない。終わったーって思って鈴見たら、あんまり集中してるから声かけづらくなっちゃってさー」
鈴が時計を確認すると、4時を回っていた。鈴の調子で進めていたら、5時に終わるのは難しかったかもしれない、と自分の能力を過信していたことに気付いた。しかしそれすら上回る速さで、すでに道庭は終えているという。
「チェックだけしてもいいかな?」
「どーっぞ。俺もチェックしてやるよ」
お互いの入力に間違いはなく、無事に仕事を終えることが出来たようだった。ホッと胸を撫で下ろすと、道庭が「ウーン」と言って立ち上がった。見上げるとどうやらストレッチをしているようだった。
「すごい、道庭君ってどこの所属なの?」
「え、それ今頃気になっちゃう感じ?でもおっしえなーい、出来る男は秘密が多いんだぜ?・・アディオス!」
昔の映画で見たような決め台詞と共に、右手を上げると会議室から出て行ってしまった。ポカーンと口を開けたままそれを見送ると、3秒で再び道庭が戻ってくる。
「鈴、明日忘れんなよ!12時に正門な!遅れたら連れていかねーからな!アッディオース」
「あ、うん、お疲れ様、でした」
鈴がかろうじて返事をするとニッと笑ってドアを閉めた。嵐のような展開に呆然としていたが、手元の資料に小さなメモがあった。そこには名前とケータイ番号が書かれていて、もちろん道庭一也のものであった。
片づけを終えると会議室に鍵をしてから事務所に向かう。途中で隠れている道庭が出てくるのではないかという疑心暗鬼にとらわれつつも、何事も無く事務所に着く。ノックをしてからドアを開けると、ちょうど5時になったところだった。
「神木さん、終わりました。チェックお願いします」
「本当に言ってたとおりの時間だったね、お疲れ様日和さん」
「チェックしてもらってる間、何か出来ることありませんか?」
神木が「んー」と言うと、氷上が自分のデスクから手を振る。
「おーい日和、こっちよろしく」
「・・じゃあ氷上君の仕事を一緒にしてもらえる?」
「もちろんです」
氷上のところに行くということは、必然的に自分のデスクに戻るということでもある。朝から一度も座っていない椅子は、とても座り心地がよかった。やはり会議室の椅子とはわけが違うな、と思いながら氷上を見る。
「ちょ・・椅子に座っただけでそんな楽しそうにしてるの、日和ぐらいだろ」
「えっ、顔に出てました?」
「丸見えだった。どうせ見せるならパンツ見せてくれってレベル」
「氷上さん冗談きついですね」
ハハ、と曖昧に笑うと氷上は真顔で続けた。
「まぁ日和のパンツとか興味ないんでどうでもいいんですけどね」
「・・ハハ」
殺意しか湧いてこない気がしたが、とりあえず自分の胸にしまっておくことにした。氷上の仕事そのものはあまり手伝えるようなことはなく、氷上が作ったテンプレートを埋めていく仕事だった。
氷上はテンプレートを作ることそのものを仕事にしている部分があるので、手伝える部分があるとすればその後の埋め作業だったのは納得だ。だが指示を飛ばす合間に入れてくる下ネタは、あまり気分の良いものではなかった。
「んじゃあとこれ埋めてー」
「ハイ」
機械的にテンプレートを受け取ると、それをもとに別の資料を埋めていく。幸い入力の邪魔をしてこないのはありがたいな、と思った。氷上との会話には気を付けないといけない、と自分メモに書き込むことに決めた。
ふと視線を感じて顔を上げると、氷上がそれを覗き込んでいた。
「何書いてんの?」
「え、あ、メモです。仕事用のメモです」
「フーン。俺の仕事は見た通りテンプレ作るんだけど、中の組み立てからやってんだよね実は」
「へ?はあ、そうなんですか」
仕事のことについて言われるのかと思ってペンを止めてメモ帳をしまうと、氷上は不思議そうな顔をした。
「メモらないの?」
「え?氷上さんの仕事の内容を、ですか?」
「そりゃそれ以外メモることないでしょ?ハァ、これだから新人は」
ヤレヤレと言いつつ鈴の椅子をグッと自分の方へ寄せた。氷上の正確な体重は分からないが、見た目からしてかなりヘビー級である。それに抵抗出来るほど鈴は重たくなかった。
「かっるいねー、ちゃんと食べてる?」
「は、はぁ、食べてます。大丈夫です、心配ないです」
「本当かなー?」
眼鏡をクイッと上げると、鈴の耳元に口を寄せた。眉間にしわを寄せると、濃いクマが更に色を増す。
「ね、今晩ご飯行こうよ。これ終わったらさ」
囁くように言われた瞬間ゾゾゾゾっと全身に鳥肌が立ち、さらに鳥肌が全身を動き回るような感じがした。耳元に口を寄せたままでいる氷上の方を見れずに硬直していると、氷上の頭部がカクンと揺れた。
「氷上さんデータ持ってきたんすけど、どれと合わせたらいいんすか?」
「いって。おい柳瀬・・」
「ひーかーみーさーん、はーやーくー」
氷上の頭を指で突きながら資料を急かす。仕方なく鈴を自分のデスクから離して、テンプレートを探して渡す。笑顔で「あざーす」と言ってその場を去る頃には、他の皆は帰り支度を始めた。
「あ、日和さん。今日はこれでおしまいだから、先にカード切ってっていいよ」
「ハイ・・でも、まだ氷上さんの仕事の方が」
「いーのいーの、もう6時まわっちゃったし。氷上くん、いいよね?」
神木ににっこりと微笑まれると、氷上はうなずいて自身も帰り支度を始めた。それを見てホッと息を旨を撫で下ろす。
「神木さんすみません、お疲れ様でした」
「気にしないで。氷上くんっていっつもあぁなのよねー。仕事は出来るのに・・とりあえず今日はもう上がって大丈夫だから」
鈴も支度を終えると事務所を後にした。
会社の外は6時過ぎとはいえ、まだまだ夏の盛りのためか明るいままだ。それなのに妙に全身がひんやりしているのは、やはり先ほどの氷上が原因だろうな、と思う。
明日以降の仕事が不安だったが、神木が采配すれば大丈夫だろうと根拠はないが確信していた。
翌日出勤すると舞原が待ち受けていたかのように駆け寄ってくる。
「おはようございます」
「おはよう、心配してたんだ・・よかったちゃんと来てくれて」
「あー、氷上さんのことですか?」
コクリと頷くと周りを見渡してから鈴の耳に届く程度の小声で話す。
「あの人結構粘着質だから・・気を付けてね」
「そうなんですね、教えてもらえてありがたいです」
「困ったときは助けに入るから、絶対に遠慮しないで言ってね」
じゃあ後で、と言ってお互い朝の作業を終える。出勤してきた人たちと挨拶を交わしながら、自分のデスクの整頓を始めると隣で気配がした。一度気持ちを落ち着けてから振り返ると、案の定氷上が出勤してきていた。
「おはようございます、氷上さん」
「はよ、日和ちょっと昼頃あけれる?飯でも食いに行こうぜ」
「あー・・実は昨日もう約束した人が居て」
それを聞いた途端、不躾な目線を送ってくる。
「ふーん?誰と約束したわけ」
「道庭さんって方です」
「・・道庭?んなやつ聞いたことないけど・・。嘘ついてない?」
嘘をついているわけではないのだが、なぜ氷上にここまで言われないといけないのかと次の言葉を選んでいると、神木が朝礼を始めるようで集合がかかった。助かった、とホッとしながら「行きましょう氷上さん」と言うと後ろをしぶしぶ付いてきた。
朝礼では業務内容が簡単に割り振られており、鈴は昨日同様に一人で作業をするようになっているようだった。そこで氷上が手を上げる。
「昨日の続き、日和に手伝ってもらいたいんだけど。ついでに俺の業務覚えてもらういい機会じゃないかって思うんですけど」
「うーん、氷上君の仕事はまだちょっと日和さんには早い・・かな。1か月様子を見て、誰の補佐するのが合うかをじっくり考えようと思ってるの」
「・・そうですか、じゃ、いーです」
若干眼鏡を直しながらもそれ以上食い下がることはなかった。神木はそのまま朝礼を終わらせると鈴を自分のデスクに呼ぶ。
「日和さん、ちょっと昼に話したいことがあるんだけどいいかしら」
「う・・ハイ、分かりました」
「そんなに緊張しないで。女子トークしましょ、女子トーク」
ポンポンと鈴の肩を叩いてから微笑む。その顔を見てなんとなく神木に任せていれば大丈夫な気が強くなっていくのであった。「ありがとうございます」と言ってから自分のデスクに戻り、資料とパソコンを交互に見やる。
途中でトイレに立った際に道庭にメールをしておかないと、と思い立つ。
「えーと・・どうしよう、日和鈴です。今日のご飯行けなくなりました、上司と少し話があります、また別の日に一緒に行きましょう・・これでいいかな」
昨日の夜になんとなくそのまま連絡先を登録しただけでメールを送ることはしなかった。だがこんなメールを最初にするぐらいなら、昨日の夜に一言入れておけば良かったと少し後悔する。送ってから10秒もしないうちにメールを受信する。
「・・返事早!鈴チース!・・ほんとこの人軽いなぁ。番号教えて・・って電話したいのかな?」
鈴はトイレから電話をすることにする。たぶん1分もかからず事情は説明出来ると思いダイヤルすると、2回目のコールの途中で道庭は電話に出た。
『鈴?』
「おはようございます、すいませんドタキャンになってしまって」
『もーちゃんと昨日約束守れって言ったのにー』
電話口で口をとがらせているような雰囲気を感じたので、とにかく平謝りを繰り返す。
「ほんとごめんなさい。メールで送った通りなんですけど・・」
『電話で敬語とか超疲れるからやめない?フツーでいいよ、フツーで』
「あ、うん・・えっと、上司が仕事のことで少し相談乗ってくれるみたいだから、今日は無理なんだ、ごめんなさい」
『えぇー仕事の相談なら出来る男の一也さんが受けて立つよ?ねーどうしてもだめなのー?』
思ったよりも食い下がってくる道庭にどうしたもんかと眉間にしわを寄せると、電話の向こうが少しガヤガヤし始める。
『うお、ごめん、俺も今日ちと無理になったっぽい』
「そうなんだ?私こそごめんね」
『いーっていーって。じゃまたねー』
あっけなく切られた電話は、おおよそ1分30秒ほどの出来事であった。本当に嵐のような男である。こうして無事に昼の予定を開けることが出来た鈴は、事務所へ戻って行った。
昼までは何事も無く、というわけもいかず、たまに氷上に絡まれながらも無事に午前中の仕事を終える。チラリと目線を向けると、神木もこちらを見てから軽くうなずいた。鈴はすぐに神木のデスクに近づくと、無言で紙を渡される。
「それじゃ、私と日和さん休憩いってくるわね」
「休憩行ってきます」
パラパラと事務所から返事が返ってくるが、その中に氷上の姿は見当たらなかった。それを確認してからメモを見ると、今ちょうど氷上が食堂へ向かってしまったので外の喫茶店でもいいかということが書かれていた。
やっぱりそういうことだったのか、という嫌な気持ちと、どうにかしてくれそうなその態度に安堵する気持ちが交互にあった。鈴は神木に「わかりました」と小声で言うと、一緒に外の喫茶店へ向かった。
「好きなの頼んで、私のおごりだから」
「ええ!申し訳ないです」
「いーっていーって、新入社員なんだから今のうちだけよ?可愛がってもらえるのは」
そう言ってメニューを開くとどれも写真付きで美味しそうな料理が並んでいた。結局神木と同じものを注文すると、先にコーヒーが出てくる。それを一口飲んでから神木はハァ、とため息をついた。
「ほんっと、氷上のヤツはあのナリで自分がイケてるって思っててね・・。今までも何度か注意してきたんだけど、ぜーんぶ右から左なのよ」
「そ、そうなんですね・・」
「でも仕事はすっごい出来るからどうにもできなくて。ほんと嫌な思いさせちゃったね、ごめんなさい」
頭を下げる神木に鈴は手を前で振りながら「とんでもないです」と言うしかなかった。それにあからさまにそういうことをされてから、まだ2日しか経っていないのにここまでしてもらえるところの方が少ないのではないか、と思っていた。
それほど曲者であるということでもあったのだが、まだ鈴はそこまで考えが至っていなかった。
「でもね、多分飲み会の時の日和ちゃん・・あ、日和ちゃんって言っていいかな?なんか苗字なのに名前みたいで、可愛いね」
「ふぐすッ、ありがとうございます」
思わずコーヒーを噴き出しそうになり、慌ててハンカチで口元を抑える。美人に笑顔で言われると鈴の胸はキュンとした。こんな下心を持った部下で申し訳ない、と土下座しそうになるのを必死にこらえながら鈴も笑顔を見せるが、正直いやらしい笑顔になっていないか心配だった。そんなことはつゆ知らず、神木は続ける。
「日和ちゃん覚えてないと思うんだけど・・。最後に乾杯したとき、あの、しょ、処女ですがって言ったの覚えてる?」
「・・えっ、そんなこと言ってました?」
『日和鈴!23歳!今までフリーターしてました!彼氏いません!処女ですが!こんな私をよろしくおねがいじまずううう』
しばらく眉を寄せながら記憶をたどっていくと、帰りがけの最後の乾杯の時のセリフを思い出す。
「・・・あー言いましたね、サラッと言いました」
「思い出せて何より・・。たぶんそれに引っかかってるんだと思うの」
「そうなんですか?」
何やら氷上は自称潔癖ということで、元彼のいる女はあまり好んでターゲットにしていないという噂がある。未婚で彼氏がいなさそうな子を狙って声をかけているそうだ。もちろん噂でしかないのだが、その噂を知っている神木たちは鈴のセリフを聞いた時になんとなく「やばいな」と思ったそうだ。
だが個人の気持ちを止める権利は会社の上司にはない、ということで怪しい流れになったら止めようという方向性を維持しているそうだ。過去の経験からしても氷上は人の言うことを聞かないそうなので、ある意味仕方のないことでもある。
「うーん、じゃあ私どうしたらいいんでしょうか・・」
「彼氏とかいないの?日和ちゃん可愛いからモテそう」
フフフと笑いながらサンドイッチをかじる。そんな神木さんの方がモテモテに決まってるじゃないですか!眼鏡美人最高!と思っていることを胸にしまいこんで、鈴も言う。
「いやぁーそれが本当にいないんですよ・・。好きな人とかはいたんですけど、気付いたら遠巻きにされてるとか・・」
「遠巻きにされるの?普通ないと思うけど・・何かやらかしたの?」
興味深げに聞いてくる神木に鈴は苦笑する。
「男友達がいるんですけど、その子がアドバイスくれるんです。その通りにすると最初はいい感じなのに、途中からどんどん離れて行っちゃって。何度その男友達に慰めてもらったかわかりません」
「えぇ!じゃあさ、じゃあさ、むしろその男友達と・・ってことは無かったの?」
よりワクワクしながら続きを促される。美人ってワクワクしてても可愛いんだな、と頓珍漢なことを考えながらも首を振る。途端に残念そうな顔をする神木だったが、すぐに立ち直ってサンドイッチを食べる。
「そっかー・・免疫ないのに、あんなのに付きまとわれたらたまったもんじゃないね」
「ブッ。神木さんすごいストレートですね」
「いーのいーの。男性としては最悪だけど、仕事人としてはすごい優秀だって頭の中で区別してるから。むしろ日和ちゃんも、仕事が辛い時はちゃんと吐き出さないとダメだよ?」
とてもさっぱりとした付き合いやすい人だ、と鈴は感心した。なかなかここまで上司としての役割を割り切ってやれる人は少ないと思うが、信頼できて何より頼もしさがあった。鈴は「はい」と答えながらも、この会社に入って良かったな、と改めて思うのだった。