一話
某日某所
周りの喧騒が耳障りになってきた。
虫の大合唱が始まる、暑い夏がやって来たのだ。
勿論手にはアイスクリームは欠かせない。
徒歩五分の場所にあるコンビニには、季節ごとにお世話になりっぱなしである。
夏はアイス、冬は肉まん。
春と秋はパン祭りの季節なのでポイント集めに必死だ。
日和 鈴は冷房の効いていない蒸し暑い部屋へ帰ってきた。
部屋中に散らばる広告は、全て求人広告である。
ほとんど足の踏み場のない部屋だが、自分の座る場所だけ広告を片付ける。
タンクトップに短パンというラフな格好で扇風機の前を陣取ると、アイスの続きを食べながら扇風機の横にある花を見た。
つい3日前に新たに家族の仲間入りを果たしたマルコポーロ君だ。ちなみに彼はサボテンである。
【優しくとげを触ってくださいね、触りすぎると枯れますが、適度なスキンシップはサボテンを元気にしますから】
怪しげな露店のお姉さんから買ったものである。
わりと立派な花を咲かせようと蕾までつけていたのだが、何故か売られていた。
サボテンの花って珍しいんじゃないんですか?と尋ねれば、何も言わずに微笑まれた。
微笑まれたのに背筋が寒くなったのは初めての経験だったが恐ろしかった、と鈴は思う。
思い出す度に【無言の圧力で買わされた残念なサボテン】だ、としみじみ感じるのであった。
「おーい、いつになったら花が咲くんだい」
[マダサ、ベイベェ。ハナガサクマデ イイコニシテナ コネコチャン]
勿論一人腹話術である。
一人暮らしの寂しいところでもあった。
まともな話し相手になるとは思わないが、世話をする相手がいるというのは少しだが日々に活力を与える。
朝起きてから、夕方帰ってから、夜暇なとき、寝る前に声をかける習慣が出来てしまった。
「さ、マルコポーロ君は窓際に行こうねー」
[オイオイ、ナツノアツサガ トゲニハンシャシテ マブシイゼェ]
「やだ、さすがマルコポーロ君!ヤバいチョーカッコイイー!」
道路に面した窓際に置く。
一人(これで正しいのかは分からない)で留守番していても寂しくないように、だ。
それが正しいのかは分からないが、鈴にはマルコポーロがニヒルな笑みを浮かべているような気がしていた。
マルコポーロ何人だ。
アイスを食べ終わると、じわじわと暑さが忍び寄ってきた。
まだいける、まだいけると扇風機で耐えていると視線を感じた。
振り返るとサボテンがあった。
「…見られていたような?」
気のせいか、と扇風機を陣取る作業に戻る。
部屋の中の湿気を含んだむわっとした空気を、ゆるゆるとかき回す扇風機だけが今年の夏の頼みの綱だった。
翌日は朝から求人広告先へ面接に訪れていた。
鈴は自転車で移動するのが苦でないのが幸いして、隣の区からも求人広告をもらってきている。
あちこち面接をしてみるのだが、今のご時世なかなか就職は難しいというのが現実であった。
派遣社員で入ってくれと言われても、鈴がなりたいのは正社員なので引き下がるしかないのだ。
就職活動は芳しくない。
「ただいまー」
マルコポーロに向けての挨拶をする。
日課になってしまったのだから仕方がない、一人暮らしで寂しく独り言を言うよりはまだましなような気がしている。
最も日頃から独り言は多いタイプではあったが。
すぐに窓を開けて扇風機をつけると、生ぬるい風が部屋全体を回転し始める。
さして気にすることなくガスに火を付けて、お湯を沸かす。
今日のお昼はそうめんだ。
ちなみに昨日のお昼も。
[オジョウチャン ドウシテマイニチ ソウメンナンダイ?]
「勿論節約のためですわ、マルコポーロ様」
[ナ、ナンダッテ!タダデサエ ホソイノニ モットヤセテシマッタラ ドウスルンダイ!]
「いやだわマルコポーロ様ったら、お世辞なんて言ってもお水しか出ませんわよ」
ニヤニヤしながら一人で小芝居をする、23歳独身就活中女子。
脳内がお花畑なのは暑さのせいなのかどうなのか。
ササッと素麺を茹でると、めんつゆに付けて食べる。
薬味も何もつけずに食べるのが鈴流である。
節約術ともいう。
貧乏ともいう。
ずるずると豪快にすすっていると、インターホンがなった。
「ふぁ、ハーイ今行きます」
慌てて飲み込むとドアスコープから外を覗く。
ややウェーブのかかった黒髪の男性がいた。
「??どちら様ですか」
ドア越しに声をかけると、低めのよく通る声が返ってくる。
「突然の訪問申し訳ありません。窓際に置いてあるサボテンについてお訊ねしたいのですが、お時間よろしいでしょうか?」
「え?サボテン?」
チェーンをかけると、少しだけドアを開く。
そこには鈴よりも頭ひとつ分背の高い男性がいた。
頬骨ぐらいまでウェーブのかかった髪を伸ばしており、表情はいささか緊張しているようである。
鈴には心当たりのない人物であった。
「えーっと…サボテンがなにか?」
「突然ですみません。不審者としか思えないかもしれませんが、そのサボテンは先日露店で女性から買いませんでしたか?」
「はぁ…そうですが、それが何か?」
そう答えた瞬間、はっとした顔をして目を少し輝かせる。
不審者としか思えないが、とりあえず話を聞いてみることにした。
「あの、そのサボテンなんですけど、こういう形をしていて、ここに蕾がついていませんでしたか?」
「そうですけど…」
「…えーと、とても言いづらいのですが、そのサボテンを…あの、もう一度買い取らせていただくことは出来ませんか?」
あまりに突拍子もない提案である。
鈴は一瞬目を見開いたあと、ドアをそっと閉める。
「あ、あ、あの!すみません!本当に突然そんなこと言われても困るとは思うのですが」
「どうかお引き取り願います」
「あ、わ、ちょ」
バタン
音をたててドアを閉めた。
ドアの外では謎の不審者が慌てながら何かを言っているようだったが、鈴は取り合うことをやめた。
あの人はきっと頭がおかしい人にちがいない!
鈴の第六感がそういっていた。
しばらく外に居たようであったが、鈴がそうめんの続きを食べ終えた頃には居なくなっていた。
翌日、特に何も起きることはない。
朝起きてからすぐにドアスコープから覗いてみたが、誰かが立っているとかそういうのはなかった。
昨日突然訪ねてきたパーマの変人はいったい誰だったのであろうか、さっぱり分からないままなのが恐ろしいが、とにかく今日は平和である。
家の中の掃除を終わらせると、スーツに着替える。
今日はいよいよ待望の正社員の面接である。
「マルコポーロ様・・私、頑張ってきます!」
[ガンバレヨ・・!オマエナラ デキルサ]
「マルコポーロ様・・!」
ただし相手はサボテンである。
念入りに髪の毛をとかして、いざ出発。
ピンポーン
嫌な予感がするが、もうすでに時間はない。
「はい、どちらさまでしょうか」
「あの・・すみません、昨日の者ですが、サボテンの交換をお願いしたいのですが」
フゥ、と息をつく。
せっかくの就職活動なのに、最初からケチをつけられたような気分である。
鈴はドアチェーンをすることなくドアを全開にする。
「あのですね・・」
ガンッ
「大丈夫ですか!?」
頭を下げていたと気づかずにドアを全開にしたので、頭にクリーンヒットしてしまったらしい。
いくら変人とはいえ、けがをさせるのは忍びない。
あわてて相手の顔を覗き込むように確認する。
「イッ・・・・・たくないです、痛くないので、ぜひ話を聞いてください」
ガバッと顔を上げられたので、鈴は顔を覗き込んでおいてよかったと思った。
今のは確実に自分の顔に当たっただろうなぁ、とも。
「申し訳ないんですが、これから面接があるのでもう時間がないんです」
「そこをどうにか・・あ、あの、もしよければ面接先まで送ります。どうかお願いします。僕の話を聞いてください」
「え?でも・・」
ふと変人の格好を見ると、スーツを着ているようであった。
昨日もそういえばスーツを着ていた気がするが、いかんせんパーマの変人としか記憶されていないため服まで思い出すことは難しかった。
そして変人は鈴の住んでいるアパートの前に車を停めていると話した。
(車か・・めんどくさいけど、電車で行くとお金かかるしな・・)
鈴が考え込むと、パーマの変人はお願いします、と頭を下げている。
うん、こういうシチュエーションも悪くない。
「分かりました、貴方のおかげで時間もないので、気乗りはしませんが乗せてください」
「あ、ありがとうございます!」
パッと顔を明るくさせて鈴の前を歩きだす。
鈴は慌てて鍵を閉めると、その後ろについていった。
その先にあったのは黒のファミリーカー。鈴はピタリと足を止めた。
「これは普段から甥と姪を乗せているので、仕方なく乗っているんです・・」
怪しいですよね、すみません。と言葉は続きながらも、スライドドアを操作すると中には確かにチャイルドシートが入っていた。
もう一度鈴は変人を上から下まで見る。
ウェーブのかかった髪が頬骨まであり、スーツを着こなし、足元まできっちりした割と普通の変人。
「・・じゃあ、信じますね」
「ど、どうぞ、ぜひ乗ってください」
助手席を勧められて乗るとなんとなく甘いにおいがした。
「それで、どこの会社なんですか?」
「三つ葉製薬です。○○駅前の大通りを北の方へいくとありますけど、○○駅前で下してもらえれば十分です」
「いえ、そこなら車で中に入っても問題ないので玄関前につけますね」
「??知ってるんですか?」
えぇ、ちょっとだけ、と変人は微笑んだ。
微笑む余裕があるなら早く出発してくれ、と鈴は切に願っていた。
「えーと、なんであのサボテンにこだわってるんですか?確かに露店で買いましたけど、あの時店には私と友達しかいなかったはずです」
「そうですね・・あの露天商は姉なんです」
「えっ」
あの派手なオネーチャンが・・!と鈴は驚きを隠さない。
異国のバンダナをつけ、大きなサングラスをかけて、割と肌の露出の多めの服を着ていたあの露天商がこの変人と兄弟だとは全く気付かなかった。
鈴の様子に苦笑しながら男は話を続ける。
「そしてあのサボテンは、僕の私物なんです・・」
「えっ!?」
「あのとき、ちょうどお昼ご飯を買いに抜けていたら・・。何度も売るなと言ったのに、欲しそうにしてる子が居たから売ったと聞いたときは、目の前が真っ暗になりました」
「エェッ!?」
鈴は欲しそうにした覚えはない、全くない。
ただ単にウィンドウショッピングを楽しむように、露店も流し見していただけなのだ。
すると突然呼び止められて、あのセリフである。
【優しくとげを触ってくださいね、触りすぎると枯れますが、適度なスキンシップはサボテンを元気にしますから】
はぁ、と返すと微笑みながらサボテンを鈴へ向けるのだ。
早く触れとでも言うかのように。
友達に「やめといたら?」と小声で言われ、少し恐ろしくなって断るネタに花がついているのを指摘した。
・・のだが、さらに恐ろしく微笑まれたので購入した次第である。
「そんなことが・・うちの姉が申し訳ない・・」
「いえ・・買うって決めたのは私なので、その辺は別にいいですけど。でも蕾までついていたってことは、相当大事にされていたんですよね?」
「えぇ、まぁ」
「じゃあ、返します。お金は・・ええと、まぁ落としたと思っておくので、これで終いということでいいですか?」
「えっ?」
あまりにあっさりとした返事に、変人・・ではなく、可哀想な男性はこちらを見た。
そりゃあ鈴にも四日とはいえあのサボテンに愛着は持っている。だが売り物ではなかった、大事にしていたと言われたら返さないわけにもいかないのではないのだろうか。
少なくとも、マルコポーロ様と呼べるぐらいには愛着はあった。でもそれも、話を聞いた時点ですっぱりと諦めることができた。
「私はなんとなく空気に負けて買った部分が大きいので。マルコポーロも、元の場所に戻ることを望んでいると思いますよ」
「マルコポーロ・・?」
「あ、いえ、こっちの話です」
さよならマルコポーロ様、私の初めての彼氏などと妄想を繰り広げていると車が停まった。
着いたのかと思ったが、可哀想な男性はこちらを悲しそうに見ていた。
「あの・・?」
「本当に、すみません。僕が諦めきれずに探し回ったりしなければよかったんですけど・・本当に、申し訳ないです」
車の中なのでそんなに下げられないはずの頭を深々と下げる姿は、なぜか鈴の心を躍らせた。
「大丈夫ですよ、頭上げてください。私は結構何も考えてないので、大丈夫です。今は就職活動のことで頭がいっぱいですから。遅刻しないように早く車出してもらえませんか?」
「すみません・・。ただ、遅刻は大丈夫ですよ。もう着きましたから」
きょろきょろと周りを見回すと駐車場らしき場所にいるようであった。
ほっとしてベルトを外そうとすると、可哀想な男性の手が先に延びてベルトを外した。
先にドアから外に出たなぁと思っていると、今度はドアを開けて手を貸して降りるのも手伝ってくれた。
「なんだかすみません、余計な手間までかけさせてしまって」
「余計だなんて思ってませんよ、当然のことです」
可哀想な男性は目を細めてにっこりと笑った。
突然全体に漂った大人の色香に鈴は一瞬言葉に詰まる。それと同時に顔が真っ赤になったのが分かった。
「あり・・がとうございます・・」
なぜ今まで気付かなかったのだろうか。
整えられた眉に、すっきりした目元。通った鼻筋は口元の色気を倍以上に引き出している。
そして何より先ほどまで何も感じなかったその微笑みは、全てを爆発的に魅力的にしているのだ。これはもうフェロモンとしか言いようのないぐらい本能的にやられてしまうやつだった。
何より頭を下げてばかりだった先ほどとは打って変わって、しゃんと伸びた背筋がスーツを一筋のしわをも消している。
「じゃあ、あの、失礼します。サボテンは玄関先に置いておくので、いつでも取りに来てもらって構いませんので」
「でも、ご迷惑をおかけしてしまったので・・ぜひお詫びがしたいのですが」
早く面接にいきたいな、と鈴は思う。
思うのだが、なぜか突然雰囲気の変わってしまった可哀想な男性にノーと言えない自分がいた。
その間にもじわじわと距離を詰めてくるため、イェスとしか言えないような空気になってきていた。これはまずいな・・と可哀想な男性から視線を外す。
「・・兄弟間の揉め事に巻き込んでしまって、本当に申し訳ないなって思ってるんです。定期的に会おうとか、そんなことは言いません。露店で支払った代金の代わりに、ぜひお願いします」
ゆっくりと外した視線を戻すと、すがるような目で見られている。密かに胸の奥がチリチリと焼かれたような感覚になる。
ここまで言われて断るのは鈴の良心が許さなかった。
「そこまで言うのでしたら・・わかりました」
言葉が言い終わる前に、可哀想な男性は目をキラキラさせて鈴の手を取った。
「良かった、お詫びもしていないのに帰ってしまったらどうしようかと思っていたんです!ありがとうございます!」
「はぁ、いや、こちらこそ・・」
「申し遅れました、僕は光葉 和也といいます」
「日和 鈴です。今更自己紹介っていうのも変ですよね・・」
鈴がぽつりと言うと、和也は本当だ、と言って微笑んだ。
そのまま連絡先を交換してから鈴は面接のために会場へと入っていった。