夢?現実?
と思った中井は、はっと目を覚ました。
彼は、事務所の中に設置されている仮眠室で横になっていた。
仮眠室は、当直者が使うための部屋で、テレビとテーブルと布団しかない、殺風景な一室だ。
彼が横たわる布団の隣には、事務員の石田桜子が…いない。
誰もいない。
中井は体を起こした。頭をボリボリかいて、目をこする。そして、お尻をかいてゆっくり立ち上がる。
ふと体を見ると、昨日の夜中から着ている白シャツが、胸を中心に真っ赤に染められている。
すぐに男子トイレまで走り、鏡の前で赤くなったシャツと、その下に着ているTシャツを脱いで、自分の体を鏡越しに見た。
見えるのは、傷一つない、細くムダのない体つきをした中井だ。
色白で、鍛えられた肉体は、葬儀屋で働くにつれて、自然とついた筋肉であろう。
「あれは、夢だったのか…でも、このシャツは……」
とりあえずこのシャツと、ついでにスーツを新しいものに替えようと、トイレを出て、事務所に戻った。
仮眠室に入り、部屋の隅に掛けているスーツとシャツと黒ネクタイを取り替えた。そして、仮眠室の目の前にある給湯室で、緑茶をマイカップに注ぎ、その足で事務所の自分の机に向かった。
誰もいない事務所には、朝の太陽の光が差し込んで眩しい。
外の駐車場のアスファルトは少し濡れている。
時刻は7時半。
今日の朝はとても涼しい。昨日の暑苦しさはどこにいったのだろう。
「あれは、悪夢だった?」
彼はそういいながら、自分の机から外の駐車場をみつめた。
スズメが数羽、チュンチュンと鳴きながら飛び交っている。
そよ風が吹いているのか、駐車場の脇にある銀杏の樹の葉が、ゆらゆらと揺れている。
風に揺らされる度に、葉がハラハラと落ちてきい、樹の下は黄緑色で埋め尽くされている。
その黄緑色の絨毯の中に、1人の人が、箒とちりとりを持って掃除している人がいる。
この葬儀屋の社長、本田利勝だ。
今日も白髪メッシュのオールバックで、いつもの黒いスーツに、黒と白の柄ネクタイを締め、フチなしの少し茶色がかった色眼鏡をかけ、慣れた手つきで落ち葉をかき集めている。
中井は、夜中の仕事の状況を報告することも含めて、社長の元へと行く。
北側玄関を出て左手にある用具倉庫から箒とちりとりとゴミ袋を取り出し、社長に駆け寄った。
「おはようございます」
「おう、トシ坊か」
社長は落ち葉を集める手を止め、中井をみた。
目尻と口元のシワが深い。見た目は少し強面のダンディーだ。
独特のハイバスボイスは、中井の頭によく響く。
「トシ坊、お前、大ホールの入り口で、トマトジュースの缶を持って寝てたな。寝相悪いなお前」
「そうなんですか⁈」
「おぉ、起こしたらお前、フラフラと仮眠室に戻って寝やがる。その寝姿と言ったら…お前…ククッ……」
「え、どうなってたんですか?」
「寝言は言うし、いびきはうるさいし、白目向いてるし」
「ははは…お恥ずかしい」
「あ、歯ぎしり忘れてた。歯ぎしりもしてたぞ」
「ははは…オールスターだ」
そういいながら中井と社長は、落ち葉をかき集め、どんどんゴミ袋に入れていく。
中井は、夜中の仕事の依頼があったことを報告し、世間話をしながら、落ち葉の掃除、駐車場の掃除と、道路沿いにある花壇の草取りまでやり、8時過ぎまでみっちりとこなした。
中井は事務所に戻って手を洗う。その頃に他の従業員が出社してきた。
事務の石田の他に、中井と同じ施行担当の田中辰臣、式典担当の阪口由美と松下茜、中村謙太が、この葬儀屋の従業員だ。
8時半、朝礼。
今日の予定と、当直の報告、その他連絡、最後に社長の一言で仕事が始まる。
「今日も一日、宜しくお願いします」
《お願いします。》と皆が言った後、事務の石田は中村に寄ってきた。
「中井さん聞きましたよ。ホールで寝てたんですって?トマトジュース持って」
「そうらしいね」
「社長がびっくりしたそうですよ。殺人現場みたいだったって」
と石田は吹き出して笑った。その話を聞いていたみんなも笑う。
「トシ、お前、器用だな。アッハハハ……」
田中は豪快に笑う。
「ははは、全く覚えてなくて」
「その後の仮眠室での寝相が、すごかったらしいですね」
松下がコーヒーを片手に言う。
「寝言にいびきに白目を向いて、あんた、ハットトリックも甚だしいわよ」
阪口は、長い髪を後ろに縛りながら言う。
「いや、歯ぎしり忘れてますよ。姉さん」
と、中村は茶化して言う。
中村の一言で事務所は爆笑の渦に巻き込まれていった。