彼女がいた理由3
少しの間、静かな時間が流れた。すると隣の部屋のベッドで寝ていた男の子がやってきた。
「パパ?」
「……悠人?」
「おしっこ」
「あ、あぁ、トイレはそこだよ」
「うん。パパ」
「ん?」
「泣いてるの?」
パパは答えられなかった。また少し静かになって、中井が口を開いた。
「パパはね、今おじちゃんとお話ししててね、面白すぎて泣いてるんだ。それより、いいのか?トイレ?」
「あ、そうだった」
と男の子は急いでトイレに入って行った。
また沈黙が続いた。中井は刃物を拾った。
「生きる理由なんて、いくらでもあるはずです。なぜこんなことを?」
「……沙弓は、俺の心の支えでした。どんなに辛いことがあっても、彼女の笑顔で救われました。」
「……」
中井は刃物を控室の入り口にある靴箱の上に置いた。
左手がズキズキする。スーツのズボンから、黒いハンカチを取り出し、手に巻いた。
男は話を続けた。
「沙弓は、一人目の子供を産んだ後、鬱になりました。不規則な生活と家事で、自分の心を削り続けていきました。俺は仕事が忙しく、かまってやること、協力することができませんでした。二人目を産んでからは、病院にずっと入院していました。実は明日、退院する予定だったんです」
男は泣き崩れる。中井は、男を見つめ続ける。
「俺が殺したも同然です。俺がもっとそばにいてやれたら……」
その時、男の子がトイレから出てきた。
「パパ、僕、寝るね」
「うん、おやすみ」
「おやすみなさい」
男の子はそう言って、隣の部屋へ戻った。
ドアの閉まる音が、控室に響く。
「悠人はまだわかっていません。ここに寝ている沙弓が、明日になったらたま起きて、いつもの生活が送れると思っている。まだ8才です。理解できないのも無理ありません」
男は、そろそろと故人のお体のそばにいくと、故人の頬に手を当てた。
「もう沙弓は帰ってこない。俺は、彼女に謝ることもできない……」
男は、故人の胸に顔をうずめて、声をあげて泣いた。中井はずっと見つめている。そして、やっと口を開けた。
「子供さんには、きちんと伝えるべきです。お母さんはいなくなったって。でも、心の中でお母さんは生きているって」
中井は、枕飾りの香炉に、新しく線香を立てた。
「沙弓さんはなくなりました。でも、沙弓さんの遺伝子は、お子さんにしっかりと継がれているはずです。そしてあなたも、沙弓さんがいた証人として、これからも生きていくべきです」
中井は立ち上がった。
「すみません、ベラベラと喋ってしまいした……」
中井は一礼する。
「明日、打ち合わせなどがあります。ご親戚の方はいらっしゃいますか?」
男は顔をあげた。
「沙弓の両親が、もうすぐ買い物から帰ってくると思います。他は、明日来るそうです……」
「かしこまりました。私は事務所におります。何かありましたら、内線でお呼びください」
そう言って中井は控室をでようとする。
「あ、あの……」
男は中井を呼び止めた。中井は振り返る。
「あ、あなたは、誰を失ったんですか?」
中井は何も言わず、ただ口角を少しあげた。その時の目は、悲しそうだった。