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献立帳一冊で凶作領を預かった仮婚約者ですが、帰還した領主様を皿洗い係には採用しません

作者: 七尾 いと
掲載日:2026/08/24

「一皿、足りません」


 料理長グレーテルの声に、フェデリカは配膳台の上を見た。


 十一枚。


 厨房で働いた者は十二人。ならば不足は一枚である。算術としては、たいへん正しい。


「私のぶんなら結構よ」


「十二人働いて、十一人しか食べておりません」


「一人は食べなくても動ける仕組みなの」


 いま決めた。


 凶作の年には、子爵令嬢も便利な仕組みになるのだ。お湯で動き、帳面を食べ、空腹は翌朝へ繰り越せる。たぶん。


 グレーテルは反論せず、一枚だけ残った木皿を見た。こういうときの彼女は、鍋より重い。


 フェデリカは視線から逃げるように献立帳を開いた。


 豆が二袋。干した根菜が四籠。今週使った穀粉、塩、薪。それから厨房、畑、厩、修繕に出た者の食数。私語を書く欄はない。仮婚約者へ「お元気ですか」と尋ねる欄も、もちろんない。


 週に一度、食糧を運び込む荷車がこの帳面を持っていき、買い付けに出た領主アルブレヒトのもとから返してくる。


 フェデリカが彼と仮婚約したのは、留守中の領地を預かる権限を得るためだった。期限は彼の帰還まで。


 つまり恋愛ではなく、管理業務。胸元にしまった婚約書は、心ではなく倉庫の鍵と同類である。紙はそう言っている。紙は強い。紙に食欲はないので、なお強い。


 フェデリカは十二を十一と記し、帳面を閉じた。


 一週間後、戻ってきた帳面には、買い付け先と到着予定の数量に続いて、見慣れない一文が増えていた。


 食数を記してください


「記しましたけれど」


 紙へ返事をしても、紙は恐縮しない。


 配膳台には今日も十一枚。欠けた一枚ぶんの空白が、やけに行儀よくフェデリカを待っていた。


 冷たい叱責である。しかも字数まで少ない。仮婚約者殿は小言にも倹約が行き届いているらしい。


 フェデリカは空白へ帳面を置いた。


 皿ではないが、どちらも腹にはたまらない。問題なし。


    *    *    *


「小麦粉を半分に。潰した豆と根菜を混ぜます」


 フェデリカが言うと、料理人たちの手が一斉に動いた。


 今夜は薄焼きパンの予定だった。予定というものは、粉袋の底を叩いたくらいで遠慮なく死ぬ。だから埋葬して代用品を出す。


「塩は?」


「煮込みを優先。パンには入れません」


「食数は?」


「十一」


 グレーテルが短く問う。


「十二です」


 訂正だけはした。食べるとは言っていない。これは立派な帳簿上の進歩である。


 捏ね台の端から鍋蓋が滑った。


 フェデリカは両手を粉まみれにしたまま、右足を半歩引く。落ちてきた蓋の縁を靴の甲で受け、足首を返した。蓋が水平に跳ねる。膝を内へ入れて軌道を変え、手の高さまで押し上げ、粉を払った左手でつまみを取った。


 かちゃん、と鍋へ戻す。


 料理人たちの視線が足、膝、手、鍋の順で追いついた。


「令嬢教育です」


「どちらの?」


「身を助けるほうの」


 グレーテルだけは笑わなかった。彼女は十一枚の皿の横に、十二本目の匙を置いた。


 週末、また献立帳が戻った。


 補給量は増えている。運送の日取りも縮まった。そこまで読んで、フェデリカは次の一行に眉を寄せた。


 食数を記してください


「字数を節約しているわりに、小言の量は少しも節約されていないわ」


 うっかり声に出た。


「では十二とお書きください」


「食べた数を偽るのは管理ではありません」


「お食べください」


「それは食事です」


 グレーテルは匙を一本、フェデリカの前へ押した。


 フェデリカも押し返した。


 匙は配膳台の真ん中で止まった。どちらの陣営にも属さない、中立の一本となった。


    *    *    *


 アルブレヒトの旅の手帳には、荷車の台数より先に食数が記されていた。


 一日三食。眠った時間は六、七、四、八。四時間しか眠れなかった翌日は、交渉を部下へ渡して馬車で一時間眠った。


 自分で守れない規則を、留守宅へ命じるつもりはなかった。


 だから献立帳の数字を見たとき、最初に数えたのは在庫ではない。


 働いた人数と、食べた人数。


 何度数えても一人ぶんが欠けた。


 その一人が誰なのかだけは、帳面に書かれていなかった。


 予定より二日早く屋敷へ着いたアルブレヒトは、泥の乾いた外套のまま厨房口を開けた。


 熱気の向こうで、前掛け姿の女が大鍋を覗き込んでいる。淡い髪はひとまとめにされ、袖は肘まで上がっていた。細い手首に粉がついている。


 彼女が振り返る。


 彼の泥靴、荷紐の痕が残る手、背後の穀物袋を順番に見た。


「買い付け係さん、そこへ置いてください」


 アルブレヒトは目を瞬いた。


「あなたは厨房係さんですか」


「いまはそうです。手が空いているなら根菜を洗って」


「私が?」


「買ってきただけで食卓へ出ると思っていらっしゃる?」


 まったく思っていない。だが初対面の厨房係に領主が叱られるとも思っていなかった。


 アルブレヒトは外套を脱いだ。泥を落とし、腕をまくり、言われた桶の前へ座る。


「厨房係さん」


「はい」


「この屋敷の代理管理者は、食事をしていますか」


 女の手が止まった。


 一拍だけ。


「細かい方ですね、買い付け係さん」


「答えになっていません」


「根菜を三本洗うまでは質問禁止です」


 アルブレヒトは一本目を取った。女は鍋へ向き直ったが、耳だけが赤い。


 そこへグレーテルが裏口から入ってきた。


 泥だらけの男が桶の前にいる。前掛けの令嬢が鍋を握っている。


 彼女は二人を見比べた。


「アルブレヒト様。フェデリカ様に根菜を洗わせずに済んだ点だけは、早いお帰りを歓迎いたします」


 アルブレヒトの指から根菜が落ちた。


 フェデリカの手から匙が落ちかけた。こちらは寸前でつかんだ。さすがである。婚約者の顔は知らなくても、匙は落とさない。


「アルブレヒト様?」


「フェデリカ?」


 二人の視線が、桶の上でぶつかった。


「買い付け係さんでは」


「厨房係さんでは」


「領主が買い付けに行くとは聞いていましたが、ご自身で泥袋になるとは聞いておりません」


「代理管理者が厨房に立つとは聞いていましたが、前掛けで身分を消すとは聞いていません」


「身分で煮込みは増えません」


「泥袋でも根菜は洗えます」


 グレーテルは新しい根菜を三本、桶へ足した。


「では続けてください」


 立場が判明しても、夕食は完成していない。


 凶作とは身分制度への敬意が足りない。領主と仮婚約者が見つめ合っていようと、鍋は勝手に煮えないのである。


    *    *    *


「皮が厚すぎます」


「食べられない部分を落としている」


「食べられる部分まで落ちています。これは根菜への領地没収です」


 フェデリカはアルブレヒトの手から小刀を抜き取った。


 彼の指は長く、節に細かな傷がある。帳面へ命令だけ書いていた手ではない。荷紐の擦れ、乾いた泥、親指の付け根に潰れかけた血豆。


 見なかったことにしたい。


 たいへん困る。冷淡で融通の利かない領主なら、心置きなく帳面で喧嘩ができたのに。実物が先に傷だらけになるのは規則違反だ。


「薄く動かします。こう」


 フェデリカは根菜を回し、小刀の刃を一定の角度で滑らせた。皮が細長く落ちる。


 アルブレヒトは根菜ではなく、彼女の指先を見ていた。


「聞いていますか」


「見ています」


「根菜を」


「努力します」


「何への努力です?」


「いま検討中です」


 話が噛み合わない。帰還して十分も経たず、仮婚約者の評価は冷淡から不器用へ下方修正された。下方だろうか。なぜ胸のあたりは上向きなのか。会計が合わない。


 フェデリカは小刀を返した。


「指を切らないでください。怪我人一名ぶん献立が増えます」


「減るのでは?」


「回復食が必要でしょう」


 アルブレヒトの口元が、ほんの少し緩んだ。


「では切る価値はあります」


「ありません」


「即答ですね」


「厨房会計です」


 恋心ではない。断じて。人差し指一本へ卵を使うのが惜しいだけだ。卵は貴重品。仮婚約者の指も、まあ、比較的。


 煮込み鍋では豆と角切りの根菜が煮えている。グレーテルが匙で底をさらい、料理人たちが代用パンを焼き台へ並べていた。


 アルブレヒトは立ち上がった。長身が作業台の端へ寄ると、厨房が急に狭くなる。


「次は?」


「旅装を解いて、お休みください」


「まだ夕食前です」


「だからです。着替えて手を洗い、食べて、寝る。領主として最初のお仕事です」


「あなたの指示は細かい」


「あなたの帳面ほどではありません」


 アルブレヒトは何か言いかけ、フェデリカの頬を見た。正確には頬の下、少し痩せた顎の線を。


 視線がそこで止まる。


 フェデリカは反射的に鍋を持ち上げた。


「見ても煮込みは増えません」


「減ったものを見ています」


「根菜なら鍋の中です」


「そうではなく」


「アルブレヒト様、着替えを」


 押し切った。たぶん。


 彼は動かない。


 なぜ動かない。この領主、帳面ではあんなに短く命令するくせに、自分が命令されると足が床へ根を張る。買い付け品に樹木でも混ざったのだろうか。


 フェデリカは彼の外套をつまみ、厨房口へ向けた。


「泥が料理に入ります」


「私は根菜を洗いました」


「三本です」


「四本です」


「皮を落としすぎた一本は数えません」


「厳しい管理者だ」


「誰の代わりをしていたと思っているんです?」


 口から出て、二人とも止まった。


 アルブレヒトの肩から力が抜けた。


 笑ったわけではない。眉尻だけが下がり、目元の疲れが隠れなくなった。その顔を見た瞬間、フェデリカの手は外套から離れた。


「……お帰りなさいませ、アルブレヒト様」


 軽口が厨房の端まで退いた。


 彼は泥のついた靴を揃えた。片方が半歩ずれて、置き直す。


「ただいま、フェデリカ」


 小さな声だった。


 フェデリカは鍋へ戻った。


 いまの一往復を何食ぶんと数えればいいのだろう。少なくとも空腹は悪化した。胸の奥まで妙に空いて、困る。


 着替えたアルブレヒトが戻ってきたとき、最初の代用パンが焼き上がった。


 上が焦げていた。


 かなり。


 パンというより、玄関で侵入者を防ぐための板である。


 フェデリカは一枚を持ち上げ、指の背で叩いた。こん、と頼もしい音がした。


「備蓄庫へ回します」


「食糧として?」


「防具として」


 アルブレヒトが真顔で受け取り、胸の前に構えた。


「軽いですね」


「焼けば焼くほど強度が増します」


「領兵へ配備を?」


「凶作の次に歯の欠乏が来ますので却下です」


 彼はパンを傾けた。角度を変え、腕へ当て、今度は顔の横へ掲げる。


「盾には小さい。肩当てなら」


「領主様に焦げたパンを装備させたと知れたら、私の管理責任になります」


「仮婚約者が作ったものなら、胸当てにします」


「面積が足りません」


「では二枚」


「食べ物で両胸を守らないでください!」


 アルブレヒトの肩が揺れた。


 声を立てるまで一拍かかり、二拍目で堪えきれなくなった。目尻が下がり、焦げたパンを持つ手まで震える。フェデリカも彼の胸に二枚並んだ黒いパンを想像してしまった。


 だめだ。たいへん勇ましくない。


 笑い声が重なった。料理人たちも顔を伏せ、グレーテルは鍋を混ぜながら口元だけをわずかに曲げた。


 湯気の向こうに誰かがいる食事を、ずっと欲しかった。私の皿まで空になるのを待ってくれる誰かを。


「その鍋から手を離してください」


 アルブレヒトの手が、いつの間にか煮込み鍋の取っ手へ伸びていた。


「運びます」


「熱いです」


「布を使います」


「旅から戻ったばかりの領主へ鍋運びまでさせられません」


「根菜洗いはさせた」


「正体不明でしたから」


「正体が分かると役に立てないのですか」


「当主の体面というものが」


「いま焦げたパンを胸に二枚つけられかけました」


「つけようとしたのはアルブレヒト様です!」


 二人の手が同時に取っ手を取った。


 フェデリカは右から引く。アルブレヒトは左を上げる。鍋が一寸だけ傾き、豆の煮汁が縁へ迫った。


「動かさないで」


「あなたが離せば安定します」


「私の厨房です」


「私の屋敷です」


「留守でした」


「帰りました」


 鍋を挟んだまま、顔が近づく。


 アルブレヒトの瞳には火が映っていた。その奥にフェデリカの前掛けまで映っている。見すぎ。距離も近すぎ。煮込み一杯につき半歩離れるべきだ。


 フェデリカは取っ手を握り直した。


「帰還なさったなら、なおさら座ってください」


「フェデリカも座るなら」


「私は給仕を」


「それでは離しません」


「子どもですか」


「領主です」


「悪化しましたね」


 背後で焼き台が鳴った。


 別の料理人が振り向き、肘で粉袋を押した。袋がずれ、その下に立てかけてあった盆が床へ倒れる。


 グレーテルが避けようとして、こぼれた粉へ踵を滑らせた。


 手が鍋の縁にかかる。


 鍋が傾いた。


 フェデリカは取っ手を放した。


 右足を一歩、鍋の下へ入れる。落ちてきた蓋の縁を靴の甲で受けた。足首を返す。蓋が跳ね上がる。


 同時に左膝を沈め、滑るグレーテルの腰を肩で支えた。


 アルブレヒトが鍋を引き戻す。だが煮汁の重みで右側が下がる。


 フェデリカは上がってきた蓋を膝で押し、軌道を鍋へ向けた。左手でグレーテルの腕をつかむ。空いた右手が飛んだ蓋のつまみを取る。


 かちゃん。


 蓋が鍋を塞いだ。


 豆一粒、床へ落ちなかった。


 グレーテルの両足が戻る。アルブレヒトは鍋を作業台へ置いた。料理人たちの息が、そこでようやく動いた。


「お怪我は?」


 フェデリカはグレーテルの肘、手首、足首を順に見た。


「ありません」


 短い返答を聞いてから立ち上がる。


 アルブレヒトは鍋ではなく、フェデリカの足元を見ていた。


「いまのは」


「令嬢教育です」


「どちらの?」


「身を助けるほうです」


 彼の視線が靴先から膝、右手へ上がった。最後に顔で止まる。


 長い。


「惚れ直しました」


「直すほど前から惚れていたんですか?」


 口が先に動いた。


 アルブレヒトの唇が開く。閉じる。また開く。


「その話は、全員が食べてからにします」


「逃げましたね」


「優先順位を守りました」


 耳が赤い。領主様、耳が赤い!


 これは一杯では足りない。二杯、いや三杯食べてもらわなければ説明を聞けない赤さである。


 グレーテルは何も問わず、戸棚から十二枚目の皿を出した。


 長卓へ煮込みが運ばれる。代用パンは焦げの少ないものだけが並び、防具候補は厨房の隅へ退役した。


 フェデリカが鍋の横へ立つと、アルブレヒトが椅子を引いた。


「どうぞ」


「給仕が先です」


「座ってください」


「全員へ配ってから」


 グレーテルが献立帳を開いた。


 頁を一枚めくる。指先が先週の欄で止まった。


「働いた者、十二。食べた者、十一」


 それだけだった。


 彼女は次の頁も開かず、帳面を閉じた。


 アルブレヒトの目が、配膳台に残った一枚の皿へ向いた。次にフェデリカの手元。それから頬、肩、前掛けの紐を順に見た。


「欠けていたのは、あなたですね」


「食糧は足りました」


「答えになっていません」


「管理上は問題ありません」


「一人ぶん、毎週」


「私が決めました」


「私も決めます」


 アルブレヒトは椅子の背から手を離し、フェデリカの持っていた皿を取った。煮込みをよそい、卓へ置く。


 さらに自分の皿を、その向かいへ置いた。


「十二人働いた日は、十二人食べる。管理者も領主も抜かない」


「在庫が足りなければ?」


「私の皿から半分移します」


「領主の食事を減らすわけには」


「ならば増やして戻ります」


「また買い付けへ?」


「必要なら。ただし次は、あなたの食数が書かれた帳面を持っていきます」


 フェデリカは反論を探した。


 厨房会計。身分。仮婚約。帰還したら終わる権限。


 どれも皿の前では薄かった。


 彼の手はまだ赤い。冷えと荷紐で荒れた指が、フェデリカの匙を皿の横へ揃える。向きが少し曲がっていた。彼は直した。今度は皿がずれた。そちらも直す。


 手際が悪い。


 なのに、そこから目を離せない。


 フェデリカは自分の皿を持ち上げた。


 下げるためではない。長卓へ運び、アルブレヒトの向かいに置き直す。


「一杯です」


「はい」


「まず一杯、全部食べてください」


 アルブレヒトは座った。


 フェデリカも座る。


 その瞬間、グレーテルは鍋へ向き直った。料理人たちも各々の皿を取る。誰も二人を見ない。見ていないふりだけが、たいへん揃っている。


 アルブレヒトは煮込みを一匙すくった。


 食べる。飲み込む。もう一匙。


 眉間に残っていた線が、少しずつほどけた。肩が下がる。匙を握る指から、旅先で固めていた力が抜けていく。


「どうですか」


「美味しい」


「それだけ?」


「温かい」


「二点」


「採点されていたのですか」


「本心は何杯食べたかで判定します」


 彼は一杯目を空にし、皿を差し出した。


「では、もう一杯」


 フェデリカはよそう。


 二杯目は会話が減った。彼はパンを煮込みへ浸し、最後の豆まで匙で集めた。空になった皿を見てから、フェデリカを見る。


 言わない。


 目だけで差し出してくる。


「三杯目は食べすぎでは?」


「判定に必要かと」


「誰が三杯と決めました?」


「フェデリカの顔が」


「私の顔は献立帳ではありません」


「献立帳より読みやすい」


 フェデリカは三杯目をよそった。


 満ちた。皿も、胸の奥も。後者は会計欄がないので記載しない。


 三杯目を食べ終えたアルブレヒトは、暖炉前の長椅子へ移ると言い張った。自室まで歩く体力はあると言いながら、三歩目で欠伸を噛み殺したからである。


「眠ってください」


「まだ話が」


「寝言は記録しません」


「明日、必ず」


「八時間後に伺います」


「正確ですね」


「あなた仕込みです」


 毛布をかけると、彼の指が端をつかんだ。


 一瞬、フェデリカの指まで一緒に包まれる。


 アルブレヒトは目を閉じたまま、手を離さなかった。


「フェデリカ」


「はい」


「皿を下げないでください」


「もう空ですよ」


「あなたの皿です」


 長卓には、食べ終えた十二枚の皿が残っていた。


 フェデリカのぶんも、その中にある。


「下げません。起きるまで」


 指がほどけた。


 彼の呼吸はすぐに深くなった。


 フェデリカは暖炉の時計を見た。針の位置を確かめ、長椅子の横へ腰を下ろす。


 八時間。


 本当に、ぴったり八時間眠った。


    *    *    *


 翌朝、アルブレヒトは十二枚の皿より早く厨房へ来た。


 髪は整えている。衣服も領主らしい。けれど目元には眠った者の血色が戻り、昨日より五歳ほど若く見えた。


 煮込み三杯と睡眠八時間。回復の証拠として申し分ない。


 フェデリカは洗い桶へ湯を張った。


「仮婚約は、私の帰還まででした」


 彼が言った。


 軽口を差し込める隙がなかった。


 フェデリカの指先から、皿が一枚離れる。湯の中へ沈み、縁だけが揺れた。


「そうですね」


「領地を預かってもらうための約束でした」


「今日、婚約書と鍵をお返しします」


「返してほしくありません」


 アルブレヒトは一歩近づいた。


 昨日、泥と疲労で伏せていた目が、まっすぐフェデリカを見ている。


「あなたが必要だから結んだ婚約でした。けれど、必要がなくなったから終わらせるのは嫌です」


 彼の右手が上がる。


 触れる寸前で止まり、指先だけが曲がった。許可を待つ手だった。


「帳面からあなたの一食が消えるたび、帰る場所が削られていくようでした。食べてほしかった。眠ってほしかった。私が戻ったとき、あなたがここにいてほしかった」


 フェデリカは口を開いた。


 返事は出ない。


「職務としてではなく、フェデリカに婚約を続けてほしい」


 目尻から落ちた一滴が、洗い桶の湯へ入った。


 アルブレヒトの手が動く。頬へ届く前に、フェデリカは濡れた両手を上げた。


「いま触ると泡がつきます」


「構いません」


「領主様のお顔です」


「昨日は泥袋でした」


 彼の親指が頬へ触れた。


 一滴ぶんの跡を拭い、そのまま離れる。


 フェデリカは何も言わなかった。


 言えば、何かが決まってしまう。決めたいものと、決めるのが怖いものが胸の中で同じ椅子を取り合っている。厨房より狭い。たいへん迷惑。


 アルブレヒトは返事を待たず、上着を脱いだ。


 袖をまくる。


「何をなさるんです?」


「皿を洗います」


「なぜ?」


「同じ卓についた者として、共同作業を」


「昨日まで領主だった方が?」


「今日も領主です」


「悪化していません?」


「夫候補でもあります」


「増やさないでください!」


 真情の置き場所に困った男が、職歴を増やしてきた。


 アルブレヒトは洗い桶の前に立ち、皿を一枚取った。布へ石鹸をつけ、表を擦る。


 裏を擦らない。


「裏面」


「はい」


「縁も」


「はい」


「泡を流してから次です。重ねない」


「厳しいですね」


「皿洗いは根菜より厳格です」


 二枚目。


 今度は裏も洗ったが、泡が残っている。三枚目は布を使いすぎて、湯が跳ねた。アルブレヒトの袖が濡れる。


 厨房の料理人たちは、彼が洗った一枚目の皿を見た。


 一斉に布巾を止めた。


 領主が皿を洗っているからではない。


 汚れが残っているからだ。


 フェデリカは皿を明かりへかざした。表、裏、縁。指でなぞる。


 アルブレヒトが息を詰める。


 告白より緊張している。審査対象を間違えていないだろうか、この人。


 フェデリカは皿を戻した。


「皿洗いとしては不採用です」


 料理人たちの布巾が、揃って下がった。


 アルブレヒトは濡れた手を見た。次にフェデリカを見た。落胆するかと思えば、目元がゆっくりと細くなる。


「では、夫としての採用試験をお願いします」


「職種を変えれば通ると思わないでください!」


「試験内容は?」


「まず三食」


「食べます」


「八時間」


「眠ります」


「私の皿が空になるまで席を立たないこと」


「喜んで」


 即答だった。


 フェデリカの胸へ、昨夜より熱いものが一気に満ちる。三杯どころではない。こんなもの、帳面のどこへ書けばいいのだ。


 アルブレヒトは濡れた手を差し出した。


「ほかには?」


 フェデリカはその手を見た。


 皿洗いの手際は悪い。領主としての体面も、たった三枚で泡まみれ。夫候補としては——検分が必要だ。長期の。できれば毎日、同じ卓で。


 彼の手へ、自分の濡れた手を重ねる。


「そんな職種変更、認めていま——」

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