献立帳一冊で凶作領を預かった仮婚約者ですが、帰還した領主様を皿洗い係には採用しません
「一皿、足りません」
料理長グレーテルの声に、フェデリカは配膳台の上を見た。
十一枚。
厨房で働いた者は十二人。ならば不足は一枚である。算術としては、たいへん正しい。
「私のぶんなら結構よ」
「十二人働いて、十一人しか食べておりません」
「一人は食べなくても動ける仕組みなの」
いま決めた。
凶作の年には、子爵令嬢も便利な仕組みになるのだ。お湯で動き、帳面を食べ、空腹は翌朝へ繰り越せる。たぶん。
グレーテルは反論せず、一枚だけ残った木皿を見た。こういうときの彼女は、鍋より重い。
フェデリカは視線から逃げるように献立帳を開いた。
豆が二袋。干した根菜が四籠。今週使った穀粉、塩、薪。それから厨房、畑、厩、修繕に出た者の食数。私語を書く欄はない。仮婚約者へ「お元気ですか」と尋ねる欄も、もちろんない。
週に一度、食糧を運び込む荷車がこの帳面を持っていき、買い付けに出た領主アルブレヒトのもとから返してくる。
フェデリカが彼と仮婚約したのは、留守中の領地を預かる権限を得るためだった。期限は彼の帰還まで。
つまり恋愛ではなく、管理業務。胸元にしまった婚約書は、心ではなく倉庫の鍵と同類である。紙はそう言っている。紙は強い。紙に食欲はないので、なお強い。
フェデリカは十二を十一と記し、帳面を閉じた。
一週間後、戻ってきた帳面には、買い付け先と到着予定の数量に続いて、見慣れない一文が増えていた。
食数を記してください
「記しましたけれど」
紙へ返事をしても、紙は恐縮しない。
配膳台には今日も十一枚。欠けた一枚ぶんの空白が、やけに行儀よくフェデリカを待っていた。
冷たい叱責である。しかも字数まで少ない。仮婚約者殿は小言にも倹約が行き届いているらしい。
フェデリカは空白へ帳面を置いた。
皿ではないが、どちらも腹にはたまらない。問題なし。
* * *
「小麦粉を半分に。潰した豆と根菜を混ぜます」
フェデリカが言うと、料理人たちの手が一斉に動いた。
今夜は薄焼きパンの予定だった。予定というものは、粉袋の底を叩いたくらいで遠慮なく死ぬ。だから埋葬して代用品を出す。
「塩は?」
「煮込みを優先。パンには入れません」
「食数は?」
「十一」
グレーテルが短く問う。
「十二です」
訂正だけはした。食べるとは言っていない。これは立派な帳簿上の進歩である。
捏ね台の端から鍋蓋が滑った。
フェデリカは両手を粉まみれにしたまま、右足を半歩引く。落ちてきた蓋の縁を靴の甲で受け、足首を返した。蓋が水平に跳ねる。膝を内へ入れて軌道を変え、手の高さまで押し上げ、粉を払った左手でつまみを取った。
かちゃん、と鍋へ戻す。
料理人たちの視線が足、膝、手、鍋の順で追いついた。
「令嬢教育です」
「どちらの?」
「身を助けるほうの」
グレーテルだけは笑わなかった。彼女は十一枚の皿の横に、十二本目の匙を置いた。
週末、また献立帳が戻った。
補給量は増えている。運送の日取りも縮まった。そこまで読んで、フェデリカは次の一行に眉を寄せた。
食数を記してください
「字数を節約しているわりに、小言の量は少しも節約されていないわ」
うっかり声に出た。
「では十二とお書きください」
「食べた数を偽るのは管理ではありません」
「お食べください」
「それは食事です」
グレーテルは匙を一本、フェデリカの前へ押した。
フェデリカも押し返した。
匙は配膳台の真ん中で止まった。どちらの陣営にも属さない、中立の一本となった。
* * *
アルブレヒトの旅の手帳には、荷車の台数より先に食数が記されていた。
一日三食。眠った時間は六、七、四、八。四時間しか眠れなかった翌日は、交渉を部下へ渡して馬車で一時間眠った。
自分で守れない規則を、留守宅へ命じるつもりはなかった。
だから献立帳の数字を見たとき、最初に数えたのは在庫ではない。
働いた人数と、食べた人数。
何度数えても一人ぶんが欠けた。
その一人が誰なのかだけは、帳面に書かれていなかった。
予定より二日早く屋敷へ着いたアルブレヒトは、泥の乾いた外套のまま厨房口を開けた。
熱気の向こうで、前掛け姿の女が大鍋を覗き込んでいる。淡い髪はひとまとめにされ、袖は肘まで上がっていた。細い手首に粉がついている。
彼女が振り返る。
彼の泥靴、荷紐の痕が残る手、背後の穀物袋を順番に見た。
「買い付け係さん、そこへ置いてください」
アルブレヒトは目を瞬いた。
「あなたは厨房係さんですか」
「いまはそうです。手が空いているなら根菜を洗って」
「私が?」
「買ってきただけで食卓へ出ると思っていらっしゃる?」
まったく思っていない。だが初対面の厨房係に領主が叱られるとも思っていなかった。
アルブレヒトは外套を脱いだ。泥を落とし、腕をまくり、言われた桶の前へ座る。
「厨房係さん」
「はい」
「この屋敷の代理管理者は、食事をしていますか」
女の手が止まった。
一拍だけ。
「細かい方ですね、買い付け係さん」
「答えになっていません」
「根菜を三本洗うまでは質問禁止です」
アルブレヒトは一本目を取った。女は鍋へ向き直ったが、耳だけが赤い。
そこへグレーテルが裏口から入ってきた。
泥だらけの男が桶の前にいる。前掛けの令嬢が鍋を握っている。
彼女は二人を見比べた。
「アルブレヒト様。フェデリカ様に根菜を洗わせずに済んだ点だけは、早いお帰りを歓迎いたします」
アルブレヒトの指から根菜が落ちた。
フェデリカの手から匙が落ちかけた。こちらは寸前でつかんだ。さすがである。婚約者の顔は知らなくても、匙は落とさない。
「アルブレヒト様?」
「フェデリカ?」
二人の視線が、桶の上でぶつかった。
「買い付け係さんでは」
「厨房係さんでは」
「領主が買い付けに行くとは聞いていましたが、ご自身で泥袋になるとは聞いておりません」
「代理管理者が厨房に立つとは聞いていましたが、前掛けで身分を消すとは聞いていません」
「身分で煮込みは増えません」
「泥袋でも根菜は洗えます」
グレーテルは新しい根菜を三本、桶へ足した。
「では続けてください」
立場が判明しても、夕食は完成していない。
凶作とは身分制度への敬意が足りない。領主と仮婚約者が見つめ合っていようと、鍋は勝手に煮えないのである。
* * *
「皮が厚すぎます」
「食べられない部分を落としている」
「食べられる部分まで落ちています。これは根菜への領地没収です」
フェデリカはアルブレヒトの手から小刀を抜き取った。
彼の指は長く、節に細かな傷がある。帳面へ命令だけ書いていた手ではない。荷紐の擦れ、乾いた泥、親指の付け根に潰れかけた血豆。
見なかったことにしたい。
たいへん困る。冷淡で融通の利かない領主なら、心置きなく帳面で喧嘩ができたのに。実物が先に傷だらけになるのは規則違反だ。
「薄く動かします。こう」
フェデリカは根菜を回し、小刀の刃を一定の角度で滑らせた。皮が細長く落ちる。
アルブレヒトは根菜ではなく、彼女の指先を見ていた。
「聞いていますか」
「見ています」
「根菜を」
「努力します」
「何への努力です?」
「いま検討中です」
話が噛み合わない。帰還して十分も経たず、仮婚約者の評価は冷淡から不器用へ下方修正された。下方だろうか。なぜ胸のあたりは上向きなのか。会計が合わない。
フェデリカは小刀を返した。
「指を切らないでください。怪我人一名ぶん献立が増えます」
「減るのでは?」
「回復食が必要でしょう」
アルブレヒトの口元が、ほんの少し緩んだ。
「では切る価値はあります」
「ありません」
「即答ですね」
「厨房会計です」
恋心ではない。断じて。人差し指一本へ卵を使うのが惜しいだけだ。卵は貴重品。仮婚約者の指も、まあ、比較的。
煮込み鍋では豆と角切りの根菜が煮えている。グレーテルが匙で底をさらい、料理人たちが代用パンを焼き台へ並べていた。
アルブレヒトは立ち上がった。長身が作業台の端へ寄ると、厨房が急に狭くなる。
「次は?」
「旅装を解いて、お休みください」
「まだ夕食前です」
「だからです。着替えて手を洗い、食べて、寝る。領主として最初のお仕事です」
「あなたの指示は細かい」
「あなたの帳面ほどではありません」
アルブレヒトは何か言いかけ、フェデリカの頬を見た。正確には頬の下、少し痩せた顎の線を。
視線がそこで止まる。
フェデリカは反射的に鍋を持ち上げた。
「見ても煮込みは増えません」
「減ったものを見ています」
「根菜なら鍋の中です」
「そうではなく」
「アルブレヒト様、着替えを」
押し切った。たぶん。
彼は動かない。
なぜ動かない。この領主、帳面ではあんなに短く命令するくせに、自分が命令されると足が床へ根を張る。買い付け品に樹木でも混ざったのだろうか。
フェデリカは彼の外套をつまみ、厨房口へ向けた。
「泥が料理に入ります」
「私は根菜を洗いました」
「三本です」
「四本です」
「皮を落としすぎた一本は数えません」
「厳しい管理者だ」
「誰の代わりをしていたと思っているんです?」
口から出て、二人とも止まった。
アルブレヒトの肩から力が抜けた。
笑ったわけではない。眉尻だけが下がり、目元の疲れが隠れなくなった。その顔を見た瞬間、フェデリカの手は外套から離れた。
「……お帰りなさいませ、アルブレヒト様」
軽口が厨房の端まで退いた。
彼は泥のついた靴を揃えた。片方が半歩ずれて、置き直す。
「ただいま、フェデリカ」
小さな声だった。
フェデリカは鍋へ戻った。
いまの一往復を何食ぶんと数えればいいのだろう。少なくとも空腹は悪化した。胸の奥まで妙に空いて、困る。
着替えたアルブレヒトが戻ってきたとき、最初の代用パンが焼き上がった。
上が焦げていた。
かなり。
パンというより、玄関で侵入者を防ぐための板である。
フェデリカは一枚を持ち上げ、指の背で叩いた。こん、と頼もしい音がした。
「備蓄庫へ回します」
「食糧として?」
「防具として」
アルブレヒトが真顔で受け取り、胸の前に構えた。
「軽いですね」
「焼けば焼くほど強度が増します」
「領兵へ配備を?」
「凶作の次に歯の欠乏が来ますので却下です」
彼はパンを傾けた。角度を変え、腕へ当て、今度は顔の横へ掲げる。
「盾には小さい。肩当てなら」
「領主様に焦げたパンを装備させたと知れたら、私の管理責任になります」
「仮婚約者が作ったものなら、胸当てにします」
「面積が足りません」
「では二枚」
「食べ物で両胸を守らないでください!」
アルブレヒトの肩が揺れた。
声を立てるまで一拍かかり、二拍目で堪えきれなくなった。目尻が下がり、焦げたパンを持つ手まで震える。フェデリカも彼の胸に二枚並んだ黒いパンを想像してしまった。
だめだ。たいへん勇ましくない。
笑い声が重なった。料理人たちも顔を伏せ、グレーテルは鍋を混ぜながら口元だけをわずかに曲げた。
湯気の向こうに誰かがいる食事を、ずっと欲しかった。私の皿まで空になるのを待ってくれる誰かを。
「その鍋から手を離してください」
アルブレヒトの手が、いつの間にか煮込み鍋の取っ手へ伸びていた。
「運びます」
「熱いです」
「布を使います」
「旅から戻ったばかりの領主へ鍋運びまでさせられません」
「根菜洗いはさせた」
「正体不明でしたから」
「正体が分かると役に立てないのですか」
「当主の体面というものが」
「いま焦げたパンを胸に二枚つけられかけました」
「つけようとしたのはアルブレヒト様です!」
二人の手が同時に取っ手を取った。
フェデリカは右から引く。アルブレヒトは左を上げる。鍋が一寸だけ傾き、豆の煮汁が縁へ迫った。
「動かさないで」
「あなたが離せば安定します」
「私の厨房です」
「私の屋敷です」
「留守でした」
「帰りました」
鍋を挟んだまま、顔が近づく。
アルブレヒトの瞳には火が映っていた。その奥にフェデリカの前掛けまで映っている。見すぎ。距離も近すぎ。煮込み一杯につき半歩離れるべきだ。
フェデリカは取っ手を握り直した。
「帰還なさったなら、なおさら座ってください」
「フェデリカも座るなら」
「私は給仕を」
「それでは離しません」
「子どもですか」
「領主です」
「悪化しましたね」
背後で焼き台が鳴った。
別の料理人が振り向き、肘で粉袋を押した。袋がずれ、その下に立てかけてあった盆が床へ倒れる。
グレーテルが避けようとして、こぼれた粉へ踵を滑らせた。
手が鍋の縁にかかる。
鍋が傾いた。
フェデリカは取っ手を放した。
右足を一歩、鍋の下へ入れる。落ちてきた蓋の縁を靴の甲で受けた。足首を返す。蓋が跳ね上がる。
同時に左膝を沈め、滑るグレーテルの腰を肩で支えた。
アルブレヒトが鍋を引き戻す。だが煮汁の重みで右側が下がる。
フェデリカは上がってきた蓋を膝で押し、軌道を鍋へ向けた。左手でグレーテルの腕をつかむ。空いた右手が飛んだ蓋のつまみを取る。
かちゃん。
蓋が鍋を塞いだ。
豆一粒、床へ落ちなかった。
グレーテルの両足が戻る。アルブレヒトは鍋を作業台へ置いた。料理人たちの息が、そこでようやく動いた。
「お怪我は?」
フェデリカはグレーテルの肘、手首、足首を順に見た。
「ありません」
短い返答を聞いてから立ち上がる。
アルブレヒトは鍋ではなく、フェデリカの足元を見ていた。
「いまのは」
「令嬢教育です」
「どちらの?」
「身を助けるほうです」
彼の視線が靴先から膝、右手へ上がった。最後に顔で止まる。
長い。
「惚れ直しました」
「直すほど前から惚れていたんですか?」
口が先に動いた。
アルブレヒトの唇が開く。閉じる。また開く。
「その話は、全員が食べてからにします」
「逃げましたね」
「優先順位を守りました」
耳が赤い。領主様、耳が赤い!
これは一杯では足りない。二杯、いや三杯食べてもらわなければ説明を聞けない赤さである。
グレーテルは何も問わず、戸棚から十二枚目の皿を出した。
長卓へ煮込みが運ばれる。代用パンは焦げの少ないものだけが並び、防具候補は厨房の隅へ退役した。
フェデリカが鍋の横へ立つと、アルブレヒトが椅子を引いた。
「どうぞ」
「給仕が先です」
「座ってください」
「全員へ配ってから」
グレーテルが献立帳を開いた。
頁を一枚めくる。指先が先週の欄で止まった。
「働いた者、十二。食べた者、十一」
それだけだった。
彼女は次の頁も開かず、帳面を閉じた。
アルブレヒトの目が、配膳台に残った一枚の皿へ向いた。次にフェデリカの手元。それから頬、肩、前掛けの紐を順に見た。
「欠けていたのは、あなたですね」
「食糧は足りました」
「答えになっていません」
「管理上は問題ありません」
「一人ぶん、毎週」
「私が決めました」
「私も決めます」
アルブレヒトは椅子の背から手を離し、フェデリカの持っていた皿を取った。煮込みをよそい、卓へ置く。
さらに自分の皿を、その向かいへ置いた。
「十二人働いた日は、十二人食べる。管理者も領主も抜かない」
「在庫が足りなければ?」
「私の皿から半分移します」
「領主の食事を減らすわけには」
「ならば増やして戻ります」
「また買い付けへ?」
「必要なら。ただし次は、あなたの食数が書かれた帳面を持っていきます」
フェデリカは反論を探した。
厨房会計。身分。仮婚約。帰還したら終わる権限。
どれも皿の前では薄かった。
彼の手はまだ赤い。冷えと荷紐で荒れた指が、フェデリカの匙を皿の横へ揃える。向きが少し曲がっていた。彼は直した。今度は皿がずれた。そちらも直す。
手際が悪い。
なのに、そこから目を離せない。
フェデリカは自分の皿を持ち上げた。
下げるためではない。長卓へ運び、アルブレヒトの向かいに置き直す。
「一杯です」
「はい」
「まず一杯、全部食べてください」
アルブレヒトは座った。
フェデリカも座る。
その瞬間、グレーテルは鍋へ向き直った。料理人たちも各々の皿を取る。誰も二人を見ない。見ていないふりだけが、たいへん揃っている。
アルブレヒトは煮込みを一匙すくった。
食べる。飲み込む。もう一匙。
眉間に残っていた線が、少しずつほどけた。肩が下がる。匙を握る指から、旅先で固めていた力が抜けていく。
「どうですか」
「美味しい」
「それだけ?」
「温かい」
「二点」
「採点されていたのですか」
「本心は何杯食べたかで判定します」
彼は一杯目を空にし、皿を差し出した。
「では、もう一杯」
フェデリカはよそう。
二杯目は会話が減った。彼はパンを煮込みへ浸し、最後の豆まで匙で集めた。空になった皿を見てから、フェデリカを見る。
言わない。
目だけで差し出してくる。
「三杯目は食べすぎでは?」
「判定に必要かと」
「誰が三杯と決めました?」
「フェデリカの顔が」
「私の顔は献立帳ではありません」
「献立帳より読みやすい」
フェデリカは三杯目をよそった。
満ちた。皿も、胸の奥も。後者は会計欄がないので記載しない。
三杯目を食べ終えたアルブレヒトは、暖炉前の長椅子へ移ると言い張った。自室まで歩く体力はあると言いながら、三歩目で欠伸を噛み殺したからである。
「眠ってください」
「まだ話が」
「寝言は記録しません」
「明日、必ず」
「八時間後に伺います」
「正確ですね」
「あなた仕込みです」
毛布をかけると、彼の指が端をつかんだ。
一瞬、フェデリカの指まで一緒に包まれる。
アルブレヒトは目を閉じたまま、手を離さなかった。
「フェデリカ」
「はい」
「皿を下げないでください」
「もう空ですよ」
「あなたの皿です」
長卓には、食べ終えた十二枚の皿が残っていた。
フェデリカのぶんも、その中にある。
「下げません。起きるまで」
指がほどけた。
彼の呼吸はすぐに深くなった。
フェデリカは暖炉の時計を見た。針の位置を確かめ、長椅子の横へ腰を下ろす。
八時間。
本当に、ぴったり八時間眠った。
* * *
翌朝、アルブレヒトは十二枚の皿より早く厨房へ来た。
髪は整えている。衣服も領主らしい。けれど目元には眠った者の血色が戻り、昨日より五歳ほど若く見えた。
煮込み三杯と睡眠八時間。回復の証拠として申し分ない。
フェデリカは洗い桶へ湯を張った。
「仮婚約は、私の帰還まででした」
彼が言った。
軽口を差し込める隙がなかった。
フェデリカの指先から、皿が一枚離れる。湯の中へ沈み、縁だけが揺れた。
「そうですね」
「領地を預かってもらうための約束でした」
「今日、婚約書と鍵をお返しします」
「返してほしくありません」
アルブレヒトは一歩近づいた。
昨日、泥と疲労で伏せていた目が、まっすぐフェデリカを見ている。
「あなたが必要だから結んだ婚約でした。けれど、必要がなくなったから終わらせるのは嫌です」
彼の右手が上がる。
触れる寸前で止まり、指先だけが曲がった。許可を待つ手だった。
「帳面からあなたの一食が消えるたび、帰る場所が削られていくようでした。食べてほしかった。眠ってほしかった。私が戻ったとき、あなたがここにいてほしかった」
フェデリカは口を開いた。
返事は出ない。
「職務としてではなく、フェデリカに婚約を続けてほしい」
目尻から落ちた一滴が、洗い桶の湯へ入った。
アルブレヒトの手が動く。頬へ届く前に、フェデリカは濡れた両手を上げた。
「いま触ると泡がつきます」
「構いません」
「領主様のお顔です」
「昨日は泥袋でした」
彼の親指が頬へ触れた。
一滴ぶんの跡を拭い、そのまま離れる。
フェデリカは何も言わなかった。
言えば、何かが決まってしまう。決めたいものと、決めるのが怖いものが胸の中で同じ椅子を取り合っている。厨房より狭い。たいへん迷惑。
アルブレヒトは返事を待たず、上着を脱いだ。
袖をまくる。
「何をなさるんです?」
「皿を洗います」
「なぜ?」
「同じ卓についた者として、共同作業を」
「昨日まで領主だった方が?」
「今日も領主です」
「悪化していません?」
「夫候補でもあります」
「増やさないでください!」
真情の置き場所に困った男が、職歴を増やしてきた。
アルブレヒトは洗い桶の前に立ち、皿を一枚取った。布へ石鹸をつけ、表を擦る。
裏を擦らない。
「裏面」
「はい」
「縁も」
「はい」
「泡を流してから次です。重ねない」
「厳しいですね」
「皿洗いは根菜より厳格です」
二枚目。
今度は裏も洗ったが、泡が残っている。三枚目は布を使いすぎて、湯が跳ねた。アルブレヒトの袖が濡れる。
厨房の料理人たちは、彼が洗った一枚目の皿を見た。
一斉に布巾を止めた。
領主が皿を洗っているからではない。
汚れが残っているからだ。
フェデリカは皿を明かりへかざした。表、裏、縁。指でなぞる。
アルブレヒトが息を詰める。
告白より緊張している。審査対象を間違えていないだろうか、この人。
フェデリカは皿を戻した。
「皿洗いとしては不採用です」
料理人たちの布巾が、揃って下がった。
アルブレヒトは濡れた手を見た。次にフェデリカを見た。落胆するかと思えば、目元がゆっくりと細くなる。
「では、夫としての採用試験をお願いします」
「職種を変えれば通ると思わないでください!」
「試験内容は?」
「まず三食」
「食べます」
「八時間」
「眠ります」
「私の皿が空になるまで席を立たないこと」
「喜んで」
即答だった。
フェデリカの胸へ、昨夜より熱いものが一気に満ちる。三杯どころではない。こんなもの、帳面のどこへ書けばいいのだ。
アルブレヒトは濡れた手を差し出した。
「ほかには?」
フェデリカはその手を見た。
皿洗いの手際は悪い。領主としての体面も、たった三枚で泡まみれ。夫候補としては——検分が必要だ。長期の。できれば毎日、同じ卓で。
彼の手へ、自分の濡れた手を重ねる。
「そんな職種変更、認めていま——」




