4.祝福
閃く刃先を、フィーネは呆然と見ていた。
強く腕を引かれなければ首元を切り付けられていただろう。辛うじて逃れた上半身は、軍服の生地と飾り紐をいくつか切られただけで済んだ。けれど逃げ遅れた下半身は、ズボン生地ごとざくりと裂かれ、腿を赤く染めた。
アンネリーゼが、一瞬で顔色を変えたかと思うと迷いなく抜刀した。フィーネは咄嗟に、倒れ込むようにして縋った。
「だ、ダメです、私、平気ですから」
「フィーネ、離しなさい」
血が脚に伝うのを感じる。けれども、それ以上に、フィーネを抱きとめた腕の震えを感じていた。
数人に抑え込まれていた女性兵士が、歯噛みしながら睨んできた。殿下の護衛兵の一人だ。
「……籠絡頼みのオメガ女が、慈悲のつもりか」
吐き捨てられた言葉に、何よりも斬りつけられた気分だった。足の痛みも忘れるほどに。
いつだったか、初めて殿下の部屋にはいったとき、じろりと睨まれたのを今でも覚えている。――この人も、覚えているのだ。外に聞こえるほどはしたない声を上げさせられた、あの日を。
「……よくも殿下を汚したな!!」
「貴様ッ」
「口を閉じろ!」
咎められながらも、彼女は叫んだ。
ああ、この人がいつも睨んできたのは、だからだったんだ。今更のようにフィーネは腑に落ちた。
「……っ!」
瞬間、つがいのアルファの気配が変わったのがわかった。
空気が一気に凍りつく。誰一人として動けないほどの、強いアルファの威圧だ。あっという間にその場を支配する。
「……殿下、どうか」
その胸に縋るように体重をかけながら、ただ一人、動く事を許されたフィーネは口を開く。
「アンネリーゼ様……」
「!」
名を呼ばれ、アンネリーゼの肩がぴくりと震える。胸元で、頬を埋めるようにしながら、フィーネはもう一度囁いた。
――どうか、わたしのために手を汚さないで。
「派閥の繋がりはみられず、単独犯のようです」
「そう……」
酷くどうでも良さそうにアンネリーゼは応え、それ以上何も言わなかった。その目はフィーネからひたともはなれず、手はフィーネの額に触れたままだ。
側近は、静かに退室した。
切り付けられた怪我から発熱したフィーネは、今も半分夢現のままだ。すぐさまできる限りの手当をした。しかしそれでも全身の血の気が引いて、水すら吐き戻すほどひどい状態だった。丸一日以上経った今、初めに比べればいくらか落ち着いたとも言える――だが、そんな話はアンネリーゼにとってはなんの慰めにもならない。ただひたすらに、己のつがいが苦しんでいるのを、見守るしかできないのだ。
「……お願い、どうか元気になって。またわたくしの名前を呼んでちょうだい」
汗の浮いた額を拭いながら、アンネリーゼは祈るように声をかけた。
「元気になったら、そうだわ、わたくしと駆け落ちしましょ。ね、いいでしょう?」
わざと明るい声をだす。息が微かに震え、それでもアンネリーゼは無理矢理笑みを浮かべた。
「誰も知らないところで、二人きりで結婚式を挙げるのよ……ねぇ、素敵だと思わない?」
弱々しい殿下の声に、熱に浮かされながらフィーネは微笑み返した。なんて、お可愛らしい夢物語かしら。そうなったらどんなに素敵だろう、とぼんやりした頭でフィーネは考えた。
――そんな幸せ、大きすぎてきっと受け止めきれない。
熱が下がって数日後、静養、という名目で郊外に出向くことになった。まるでこのまま本当に駆け落ちしそうね、とフィーネは少しだけワクワクした。
ここは夏の避暑に毎年くるの、とアンネリーゼは言った。まだうまく歩けないフィーネに手を貸しながら、ゆっくりと屋敷に入った。
「ここにいる間は、わたくしのことは遠慮なくアンネリーゼと呼んでちょうだい。誰に咎められることもないのだから」
「はい、……アンネリーゼ様」
「ふふ……フィーネ、私たち、なんだか二人きりになったみたいね」
アンネリーゼは微笑んだ。初めて見るような、幸せそうで無垢な笑顔だった。
月明かりの下、フィーネは、乱れたままの服を直すことも忘れて、穏やかな顔で眠る殿下の煌めく髪を手で漉いた。
――そして、この思い出だけで生きていこうと、静かに覚悟を決めた。
この幸せな記憶があれば、この先何があっても耐えられる。ただの下流貴族でしかない自分が、この国の皇位に手を伸ばそうとするような皇女殿下と一瞬でもつがいになれた……心ゆくまで愛し合えた。とんでもない幸運だ。
でももう、それも終わりだ。立場も身分も、知識も、振る舞いも、何もかも分不相応すぎる。誰に言われなくとも、自分が一番よくわかっていた。
「……二人だけの結婚式、アンネリーゼ様の提案にしては悪くないです」
相手が眠っているのを良いことに、フィーネはふふん、と笑う。本人に、こんな上から目線のコトはとてもじゃないが言えるわけない。
サラサラと指の間からこぼれ落ちる金糸を思う存分眺め、それからフィーネは眠るアンネリーゼの額にそっと口付けた。いつもなら、フィーネが身じろぎしただけで目を開けるアンネリーゼは、今夜は深く穏やかな眠りの中にいるらしい。それだけで、フィーネは胸の奥をくすぐられるような気分になった。
借金のこと、家のこと、自分の立場……この後どうなるかなんて、ろくな想像はできない。だが、それでも今この瞬間、フィーネは幸せだった。
――突然来た豪奢な馬車に押し込まれるまでは。
どこかの一室、豪華な軍服を整えているアンネリーゼの元に、やって来た側近が声をかけた。
「殿下、全ての手配が整いました。あとはご随意に」
「ええ」
白い皮手袋をはめながら、アンネリーゼが顔を上げる。
「……しかし、良かったのですか?貴女のつがい殿に何も知らせずとは」
「ふふ、アーレンブルグ地方に連れてこられたのに、わたくしがアーレンブルグ公だと思い出さないあの子がいけないのよ」
郊外、すなわちそこは皇女殿下の直轄領である。
「皇位については、今回は兄上に一歩譲りましょう。いきなり皇妃だなんて、あの子には荷が重過ぎて可哀想だもの」
晴れやかな笑顔でアンネリーゼは笑った。
「一歩どころか、かなり譲歩されているようですが」
「あら、兄上はわたくしに『運命』を授けてくださったのよ。これはそのささやかなお礼」
「左様で」
側近が呆れたように肩をすくめる。
「これから本格的に領地運営に踏み切るなら、忙しくなるわ。わたくしも、貴女もね」
「心得ております」
「ふふふ、頼もしいこと」
側近に微笑みかけ、アンネリーゼはコツコツと足音を立ててドアに向かう。
「……それに、今回は譲りますが、この先はわかりませんわよ」
最後に、背後の側近へとニッコリ笑いかけてから、部屋を出た。愛しいつがいの待つ場所へ向かうために。
荘厳な教会の中、祭壇の前に、真っ白なドレスに身を包んだ愛しい人が立っている。その光景だけでアンネリーゼの胸はいっぱいになった。
早足にならないよう、真っ赤な絨毯の上をゆっくりと歩く。頭から爪先まで完璧に整えた純白の軍礼装のアンネリーゼは、誰よりも美しく毅然と輝いていた。
祭壇まで歩み寄ったアンネリーゼは、花嫁に向き直る。息すら躊躇うような緊張の中、幾重にも重なったベールをそっと持ちあげる……そして、アンネリーゼは思わず吹き出した。
「……フィーネったら。ひどい顔でしてよ」
ベールの下、可憐なドレスで着飾られた愛しいつがいは、大粒の涙で鼻も頬も目元も真っ赤にして、地獄の底から響くような鼻声で呻いた。
「殿下の゙嘘づぎぃ゙……」
恥も外聞も捨ててべしょべしょに泣いたフィーネは、ニンマリとした笑みを隠しもしないアンネリーゼを睨み上げ、子どものようにしゃくりあげた。
「嘘つき~~~二人っきりの結婚式って言っ゙だ~~~」
「あら、怒っているのはそこなのね」
ますます軽やかに微笑んだアンネリーゼに向かってフィーネは喚いた。
「違いますッ!何もかも!!全部ですぅぅう」
「そう、ごめんなさいね。もう泣かないで小ネズミちゃん。あんまり可愛い事を言ってるとキスしてしまうわよ」
「そんなのに誤魔化されませ……っ!」
ワッと歓声が上がった。天井まである壮大なステンドグラスが揺れそうなくらい、盛大に拍手の音が響いた。
[END]




