3.発情と毒
ある日、フィーネはなんだか頭がぼんやりするのに気づいた。
(……ああ、いつものやつだわ)
ふんわりと熱っぽい額に触れながら、フィーネは目を伏せる。いつもの……陶酔期、などと婉曲に言うのが貴婦人の嗜みであるが、要するに発情期である。おおよそ三月に一度訪れる、オメガの宿命、子を宿すための期間だ。
今夜からしばらくお呼ばれは無しね、とフィーネは思った。ラウシュは、アルファが側にいると極端に強く、時に自我すら解けるほど強い酩酊状態に陥ってしまうという。けれども一人静かに過ごすのであれば、ただ熱っぽく体が重いだけの数日間である。
私の自室、まだ残していてもらえてるかしら、とフィーネはぼんやり考えた。そうしてふと横を見ると、何やら殿下の様子がおかしい。妙にソワソワしてる。
「フィーネ、どうしたの?調子が良くないの?」
そう聞いてくる殿下の方が変だ。思いながらフィーネはぼうっとしながら答えた。
「いえ、そうじゃ、ないですけど……でも、少しおやすみをいただきたいです」
「お休み?!どうして?!」
「え、どうしてって……」
酷く焦ったアンネリーゼが立ち上がる。
「体がつらいなら、わたくしの部屋で休んでいなさい」
「いえ、その、殿下のお部屋は……」
「他にどこに行くっていうの?!」
フィーネが口籠った途端、アンネリーゼは声を荒げた。怒ったような顔でフィーネの腕を掴むと、執務室のドアを開ける。
「え、あの、で、殿下……?」
らしからぬ迫力に、フィーネは抵抗も忘れてポカンとするしかなかった。連れ込まれた先が殿下の自室だと気づいた時には部屋の中に押し込まれた。背後でがちゃんと鍵のかかる音がする。あ、とフィーネは思った。
「ここにいなさい!」
声を張ってから、ハッと我に返ったようにアンネリーゼが少し調子を下げて再び言った。
「……ここで、休んでなさい。必要なものは届けさせるわ」
「あの、でも、殿下、そのう、……」
「ここにいて。他の場所にいて欲しくないの」
「……でも、あの、私……」
ラウシュなんです。ごく小さな声で、フィーネは呟いた。
「発情期、なんです、だから」
「……!」
そこでようやくアンネリーゼはフィーネの顔を見た。
どうしてわからなかったんだろうか、――いや、わからないふりをしたのか、無意識に。
アンネリーゼは、生まれて初めて、自分が何を考えているか全くわからなくなってしまった。今すぐ部屋から出なくては。アンネリーゼの理性はそう言っている。それなのにできない。ドアを背に、立ち尽くしている。
「殿下……」
フィーネが、アンネリーゼの顔を見た。
鍵を開けて、と言わなくちゃ。フィーネは口を開いて、なのに喉まででかかった言葉が上手く出てこない。
「あ……あの……鍵、を……」
無意識に一歩踏み出す。ドアの方へ――アンネリーゼの前へ。
ぴくりとアンネリーゼの肩が揺れるのがわかった。この人もこんな顔をするのかと、不思議に思った。近寄られるのを怯えるような、何だか弱々しい表情だった。
吸い寄せられるような気分だった。いつのまにか目の前まできて、ドアノブに手をかける……ドアノブに、後ろ手に手をかけたまま固まっている、アンネリーゼの指に触れた。ただひたすら目の前のアルファの顔を見つめたまま。
こんなことをしてどうなるか、わからないような子どもじゃない。何を考えていたのか、自分でもうまく言葉にならない。
ただ、降りてくる唇の前に、自然に目を閉じた。
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側近が、軽く戸を叩く。
ドアを開けるアンネリーゼはすっかり乱れた格好で、妙にやつれたような、疲れた顔をしていた。
「なんとか、噛むだけで抑えたわ。一線は越えずに済ませられた……」
側近は、ドアの向こう、アンネリーゼの背後をチラと見た。
「一線、越えずに……?」
不審げな表情を前に、アンネリーゼは慌て始めた。
「ち、違う、ほんとに超えてないわ、手出しは……その……してるといえなくもないけれども、えっと、でも、子どもができるような事は決して……」
「殿下、中に出さなきゃできない、とか思ってません?」
「?!」
「……」
びっくりした顔のアンネリーゼを半目で見た側近は、ため息をついた。
「そんな、ど、どうしましょう……」
「医者の手配はします」
「あっあのっ、でも入れてないわ、本当よ、それは我慢したのよ、すごく、辛かったけど……でも、その、は、挟むくらいはいいかしらって」
「それ以上はおっしゃらなくて結構」
「……」
「殿下は身支度を。それから中の……貴女のつがいも」
アンネリーゼは叱られた子供のような顔で項垂れ、それから頷いた。
首の後ろ、頸がピリピリと痛む。フィーネはほんの少しだけ頬を染めながら、紅茶のカップを手に取った。
(つがいに、なってしまった……この方と……)
アルファとオメガを特別なものにする、『つがい』と呼ばれる強い絆は、発情期にうなじを噛まれる事で成立する。その証が未だ生々しく首に残っていることは、フィーネを酷く落ち着かなくさせた。
チラと目を上げると、優しい視線をフィーネに注ぐ麗人が見える。慌ててフィーネは目を伏せた。まだ顔を見られない。うなじに噛みつかれた甘美な瞬間が、未だフィーネの熱を煽り、けれど最後までしなかったことが、余計に熱を燻らせている。
(殿下は、私のためにそうなさらなかったんだわ。だから、感謝すべきなのに……)
それなのにフィーネは、満たされなかったような、飢えに似た気持ちがいつまでも引かない。殿下のものにしていただいただけでも喜ぶべきなのに。
(知らなかった、私、いつのまにこんな、はしたない、浅ましい気持ちを抱いていたのかしら)
しょんぼりと紅茶の水面を眺めていると、横から美しい手が伸びてきた。
「フィーネ」
「!」
びくりと肩を揺らすフィーネに構わず、アンネリーゼは徐に手の中のカップを取り上げた。それから中身をチラ見すると、フンと小さく鼻を鳴らして側近に渡す。
「えっ、あ、私のお茶……」
「わたくしのをお飲みなさい」
アンネリーゼのカップを押し付けられて、フィーネは目を白黒させた。
食事の時間も殿下と過ごすようになったのは、その翌日からである。夜は当然殿下の部屋に連れ込まれるし、もはや24時間一緒。自室なんてあってないようなものだった。その上、何故か食事は厳密に管理された。飲み食いする全てをアンネリーゼの許可なしでは食べられないのだ。
さらには、手ずから殿下の皿からご飯を分け与えられ、フィーネはますます混乱した。
「ほら、お口を開けて」
「は、は、ひゃい……???」
促されるままにフィーネは口を開け、やけに大きく切り分けられた上等な肉を一切れ放り込まれる。アンネリーゼは酷く嬉しそうだった。
「うふふ、貴女そうやって一生懸命食べてるの、本当に小ネズミみたいでとってもかわいらしいわね」
「……???」
大きすぎる塊を必死に咀嚼しながらも、フィーネの頭の中には疑問符が飛びまくりである。
そこへ、側近がいつものように静かに入室した。スッとアンネリーゼの近くまで行くと、しれっとした顔で告げる。
「毒ですね」
「?!」
突然の不穏な単語に、フィーネは、危うく肉の塊を飲み込みそうになった。
「そう。……それにしても動きが早すぎるわ。つがいの事はまだほとんど知られてないはずよ」
「おそらくこれは、別勢力でしょう……殿下につがいができたことをよく思わない、お味方陣営の仕業かと」
「?!……?!」
「ああ……そうでしょうね。己が身内を推したかった者たちかしら」
「あるいは」
頭上で不穏な会話をされて、フィーネの心境はもう食事どころじゃない。それなのに、放り込まれた肉が噛みきれない。涙目のまま、もぐもぐと口を動かすしかできない。
「フィーネ、わたくしから離れてはダメよ。それからわたくしの与えるもの以外は口にしないこと。よくって?」
(ええん、毒って何?!怖いよぉ~)
フィーネは半泣きで、ひたすらにコクコク頷くしかできなかった。
「ふふふ、いい子」
にこりと微笑むアンネリーゼは相変わらず美しかった。




