第9話 参謀の査定と、影の自覚
放課後の静まり返った教室は、昼間の喧騒が嘘のように沈み込み、傾きかけた陽光だけが黒板の端を鈍く照らしていた。机と椅子の整然とした影が長く床へと落ち、誰もいないはずの空間に、まだ生徒たちの息遣いの残響が漂っているように思える。
その静寂の中央で、志保先生の手から差し出されたのは、光を吸い込むほどに深い、漆黒の美しさを湛えた黒百合であった。
指先に触れる花弁の質感は、どこまでも滑らかで、それでいて死を告げる接吻のように冷ややかだ。柔らかさの奥に潜む、底知れぬ硬質。そこに宿るのは歓迎ではない。選別であり、選抜であり、拒絶を許さぬ意志だった。
それは学園最大の派閥から下された、諾否を許さぬ「召喚」の儀であった。
私は、一般生徒の立ち入りが厳格に禁じられた「フローラリア専用寮」の、重厚な鉄の門を潜った。門扉に刻まれた意匠は古い紋章を思わせ、触れれば冷気が掌に吸い付く。門の向こう側だけが、別の時間に支配されているかのようだった。
専用サロンへと至る廊下は、外界の喧騒を遮断した静謐に満ち、シルク混紡のロングワンピースを纏った特待生たちが、音もなく行き交っている。
足音は絨毯に吸い込まれ、会話は囁きにすらならない。ただ視線だけが、私という異物を正確に捉え、測り、値踏みしては離れていった。
彼女たちのまとう高級な柔軟剤と古い紙の香りが混じり合い、普通科の短いチェックスカートを穿いた私の剥き出しの膝を、耐え難いほどに「異物」として浮き彫りにさせていた。
空調の風が素肌を撫でるたび、そこだけが場違いに晒されているのだと、身体が先に理解する。
「来たわね。小井縫南藻。……そこへ座りなさい」
サロンの奥で私を待っていたのは、同じ一年生でありながら派閥の「参謀」を担う、黒崎結衣さまであった。
彼女が纏うフローラリアの制服は、深い黒のシルクが西日を弾き、冷徹な光沢を放っている。
結衣さまは、鋭く研ぎ澄まされた瞳をゆるやかに上げ、私を解剖台に乗せた検体のように、逃げ場を与えぬ視線でじっくりと値踏みした。
その沈黙は、言葉よりも雄弁だった。
「あの、結衣さま。お話というのは……?」
私が発した「さま」という敬称を、彼女は無造作な沈黙で受け流した。
肯定も否定もない。
ただ、評価の枠組みの外に置かれた存在として、私はそこに立たされている。
白い指先が卓上のタブレット端末の上を滑るたび、硝子面と指先が擦れる乾いた音が、この密室の静寂を切り裂く。わずかな電子音さえ、耳に刺さる。
端末の青白いバックライトが彼女の虹彩に反射し、そこに映し出される私の入学成績、凡庸な家柄、隠し撮りされた日常の醜態を、非人間的なデータとして処理していく。
数字と記号に分解された私。
感情も羞恥も削ぎ落とされ、ただ「価値」の有無だけを問われる。
「貴女のせいで、こちらの計画が狂わされているのよ」
結衣さまはスワイプを止め、一度だけ深く、重い吐息を漏らした。
その息は、叱責というより、計算違いへの苛立ちに近い。
「正直に申し上げて、小井縫南藻。ブラックリリーにおける貴女の獲得優先順位は、零に等しいわ。家柄は特筆すべき点なし。成績も、一組という特等席に身を置くにはあまりに心許ない。産業スパイではないかと警戒したけれど……貴女のその、震える指先を見る限り、そんな機転も度胸もなさそうね。本来なら、他派閥に奪われても痛くも痒くもない人材なのよ」
結衣さまの言葉は、氷のナイフとなって私の皮膚を切り裂いた。痛みは鋭く、しかしどこかで納得している自分がいる。自覚していた評価を、第三者の口から正確に言語化されたに過ぎないのだと。
私は恥辱に顔を伏せ、安っぽいウール混紡のスカートを、指先が白くなるほどに握りしめることしかできなかった。
ロングワンピースで淑やかに足を隠す結衣さまの前で、中途半端に露出した私の脚は、あまりに卑俗で無防備に思えた。視線を上げれば、さらに多くの欠点を見透かされる気がして、呼吸すら浅くなる。
「……けれど、有栖川月華さまが『どうしても、あの子でなくては』とおっしゃるのよ。……これまで一度も特定のパートナーを欲さず、その天賦の『隠密能力』を以て、誰にもその尾を掴ませなかった、あの『姿隠しの姫君』が」
結衣さまがその二つ名を口にする際、微かに眉根を寄せた。
その表情の陰に、畏敬と警戒が同時に宿る。参謀である彼女にとって、月華さまは信仰の対象であると同時に、決して御しきれぬ「不確定要素」なのだろう。
「そこで訊かせて。貴女は月華さまにとって、どのような『部品』なのかしら? もし単なる一時的な気まぐれなら、貴女をカードとして他派閥との交渉に使い捨てたいの。どうしても手放せぬ理由があるのなら、今ここで吐きなさい」
――理由次第では、優先順位を上げる必要がある。
結衣さまが身を乗り出した。
フローラリアの制服の襟元のレースが、微かに衣擦れの音を立てる。
その距離の近さが、逃げ場をさらに奪う。
私は喉の奥が引き攣るのを感じながら、彼女の射抜くような視線を真っ向から受け止めた。逸らせば、即座に「不要」の烙印を押されると分かっていたからだ。
本当の理由。
それは、月華さまが最も隠し通したい「web小説の投稿者」としての素顔を知ってしまったから。監視という名の鎖で、ただ繋がれているだけ。
選ばれたのではない。
縛られただけ。
けれど、それを口にした瞬間、すべてが終わる。月華さまの作家生命を奪い、私という「犬」の居場所さえも消えてしまう。
「それは……私にも、分かりません。ただ、あの方に従うことしか……」
掠れた声で答えるのが精一杯だった。
情けないほど曖昧な言葉。
それでも、守れるものがあるのなら。
「……そう。飼い犬自身も、首輪の理由を知らされていない、と」
結衣さまは深く溜息をつき、タブレットの電源を落とした。暗転した画面が、この謁見の終了を告げている。私は、ようやく呼吸を許されたことに気づく。
「いいわ。月華さまの熱が冷めるまでは、ブラックリリーとして貴女を最低限の保護下に置く。けれど、これから派閥間の抗争は激化の一途を辿るわ。他派閥から見れば、貴女は『月華さまの唯一の弱点』に見えるでしょうね。……精々、身の程をわきまえて、汚点にならないように振る舞うことよ」
「……はい。ありがとうございます、結衣さま」
形式だけは整った返答。
胸の奥では、別の言葉が渦巻いている。
弱点。
その響きが、耳の奥で反響する。
サロンを辞去した私の足取りは、鉛のように重かった。廊下に満ちる静謐は先ほどと同じはずなのに、今はそのすべてが私を遠巻きに観察しているように感じられる。
分かっていたはずだ。
月華さまにとって私は、偶然の事故で視界に入ってしまった、消し忘れたインクの染みのようなものに過ぎない。選ばれたのではなく、処理しきれなかった残滓。
(……それでも。どこかで、期待していたのかな。私という存在に、何か特別な価値があるのではないかって)
否定されることで、ようやく自分の位置が明確になる。
私は主役ではない。
策を巡らす参謀でもない。
ただ、誰かの影として機能する部品だ。
夕闇が廊下の端から忍び寄り、西日の残滓が私の影を長く、歪に引き伸ばしている。壁に映ったその黒は、私自身よりもはっきりと形を持っていた。
私は無意識に、月華さまに強く掴まれた手首を、もう片方の手で覆い隠した。そこに残る微かな熱。指の痕が幻のように脈打つ。
「弱点」と呼ばれた瞬間の、胸の奥を掻き毟るような昂ぶり。それは屈辱だけではなかった。誰かにとっての弱点であるという事実が、確かに私を「必要」と結びつけている。
脈打つ手首の熱が、今の私を繋ぎ止めている唯一の現実であるかのように。
私は、長く伸びる自分の影を踏みしめるようにして、逃げるように夜へと急いだ。




