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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第一章

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第8話 静謐な追跡者と、紙上の密室

 翌朝、空を切り裂くように聳え立つ白亜の校舎に足を踏み入れた瞬間、胸の奥にひやりとした感触が走った。


 冬の名残を帯びた空気が頬を撫でるよりも早く、私は悟ってしまったのだ――自分が今や「時の人」という名の、いささか悪趣味な見世物へと仕立て上げられていることを。


 学園の三大派閥。


 そのうち、漆黒の『ブラックリリー』に続き、紅蓮の『レッドピオニー』からも召喚を受けた外部生。前例のない出来事は、朝靄のように校内へと広がり、噂はさざ波となって廊下を渡り、階段を上り、教室の扉の前で渦を巻いていた。


 私が引き戸を開けると、その渦は一斉に視線となって降り注ぐ。


 熱を孕んだ羨望。

 甘やかで、しかし棘を隠さぬ声音。


「ねえ、小井縫さん。朱雀院さまのサロンでは、どのようなお話をなさったの?」

「あの方に指先を取られ、導かれるなんて。前世でどのような徳を積めば、そのような光栄に浴せるのかしら……」


 笑みを向けられているはずなのに、言葉の端々は鋭利で、うっかり触れれば血を滲ませそうだった。私は頬の筋肉を引き上げ、当たり障りのない微笑を形作る。唇の端が、わずかに震えるのを自覚しながら。


 スカートの裾を握る指先が、気づかれぬように強く布地を掴んでいる。白い指の節が、じわりと色を失う。


(徳どころか……私は、あの銀色の月の下で、胸の膨らみを指摘し、『駄犬』と罵られているだけなのに……)


 思い出すだけで、喉の奥に熱い塊がせり上がる。

 本当のことを語れない苦悶。


 その一方で、あの罵声を反芻するたびに背筋を駆け抜ける、名状しがたい甘やかな戦慄。羞恥と高揚が絡み合い、ほどけぬ糸のように胸奥で絡繰りを繰り返す。私はその感情の正体に触れることを、まだ恐れていた。


 ふと、肌を刺すような視線を感じて顔を上げる。教室の隅、陽の届きにくい窓辺に、二つの影が静かに佇んでいた。


 級長の高橋琴音さん。

 そして、普通科のお嬢様・二階堂亜美さん。


 眼鏡の奥で鋭く光る琴音さんの瞳は、観察者のそれだった。対して、上質な扇子を口元に添えた亜美さんの瞳は、柔らかな曲線を描きながらも、その奥底に拭いきれぬ焦燥を沈めている。二人の視線は、私の一挙手一投足を逃すまいと、静かに、しかし確実に絡みついていた。


 休憩時間。

 廊下へ出た瞬間から、背後に粘つくような気配がある。


 磨き上げられた床は鏡のように光を返し、そこに映る私の影の後ろで、不器用に揺れる二つの人影が重なった。


 曲がり角で足を止め、不意に振り返る。


 次の瞬間、慌てて石突きを突くような足音が重なり、翻る茶色のチェックスカートの裾が視界の端を掠めた。


(性格は正反対なのに、行動が一緒。二人とも不器用で可愛いわ。……けれど、このままでは放課後の地下迷宮の探索は無理ね)


 疑念は、逃げれば逃げるほど濃くなる毒のようなものだ。私が回避を重ねれば、彼女たちの猜疑は確信へと変わるだろう。それだけは避けなければならない。


 私は、傍らを歩いていた柚月さんの柔らかな袖を、ためらいがちに、しかし確かな意思をもって引いた。


「あの、柚月さん。今日の放課後――もしよろしければ……図書室で、一緒に自習をしませんか?」


 声は思いのほか静かに出た。

 自分でも驚くほど、澄んで。


「ええ、喜んで。南藻さんと机を並べられるなんて、素敵な放課後になりますわ」


 柚月さんの微笑は、春先の陽光のようにやわらかく、私の内側でざわめいていた焦燥を一瞬だけ鎮める。



 * * *


 図書館の二階。


 重厚な木材の棚が壁一面に並び、古びた紙の匂いと、微かなインクの残り香が空気に溶け込んでいる。足音は絨毯に吸い込まれ、個室の学習スペースは外界から切り離された静謐な密室のようだった。


 入り口で立ち尽くす二つの影に、私は静かに視線を向ける。


 琴音さんと亜美さんは、肩を小さく跳ねさせた。心臓の鼓動まで伝わってきそうな、わずかな動揺。


「……べ、別に、貴女を追っていたわけではないわ。級長として、不審な行動がないか見守っていただけよ」


「左様ですわ。わたくしも、たまたま勉強がしたくてここに来ただけですの。……個室が空いていないようですから、同席してあげてもよろしくてよ」


 結局、四人で一つの机を囲むことになった。

 

 監視の意図は明白だったが、ノートが開かれ、万年筆が走り始めた瞬間、空気は一変する。彼女たちの瞳に宿るのは、生粋の優等生としての矜持と責任。


「……あら、貴女。この数式、公式の解釈が根本から間違っていますわ」


 亜美さんが、白檀の香りを漂わせる扇の先で、私のノートをぴしゃりと叩く。近づいた髪から、柑橘系の香油がほのかに香った。


「これでは解が出るはずもありませんわ。もっと基礎に、謙虚になりなさいな」

「本当ね。この英文の解釈も、あまりに情緒に欠けるわ。有栖川さまの傍に侍るなら、それに見合うだけの教養という名の装飾を身につけなさい」


 気づけば、苛烈なまでの熱血指導が始まっていた。


 琴音さんの万年筆が鋭い音を立て、私の答案に赤線を引く。その線は容赦なく、しかし正確で、曖昧さを許さない。亜美さんは扇子を閉じ、白く細い指先で教科書をなぞりながら、理路整然と誤りを指摘していく。


 私の無知を暴き、正すことで、彼女たちは確かに優越を感じているのだろう。


 だが、その表情に浮かぶ艶やかさは、単なる嘲笑ではない。

 真摯に、学問に向き合う者の熱だ。


(……二人とも、私を疑っているはずなのに。それでも、放っておけないほどに真っ直ぐで、優しいのね)


 私より何倍も努力を重ねてきたはずの二人。


 「幸運な凡人」である私に対する憤りは、むしろ当然だ。それでも、理解へ導こうとするその姿勢に触れたとき、胸の奥で何かが静かに溶けた。


「……あの、ありがとうございます。お二人のおかげで、霧が晴れたようですわ」


 伏せ目がちに感謝を告げると、二人は一瞬だけ顔を見合わせ、同時に顎を逸らす。上気した耳たぶが、夕暮れの光を透かして林檎のように赤く染まっていた。


「……勘違いしないで。一組の平均点を貴女に下げられるのが、我慢ならないだけよ」


「ええ、その通りですわ。これは、クラス全体の調和のためですもの」


 そう言いながらも、その声音はどこか柔らかい。


 結局、何一つ「秘密」を暴かれることもなく、自習会は静かに幕を閉じた。

 図書室を出ると、廊下は夕焼けに染まり、窓ガラスに映る私たちの影は長く伸びている。


 柚月さんが、鈴を転がすような声で笑った。


「ふふ、佳き友人ができましたね、南藻さん」


「……お友達、なのでしょうか。でも、あの方々の芯にある潔白さが、少しだけ分かった気がします」


 肩の荷が、わずかに軽くなっていた。窓の外では、燃えるような茜色がゆっくりと深い藍色に飲み込まれていく。昼と夜の境界が溶け合う、その曖昧な時間。


 平和な時間は、ここまでだ。


 明日は再び、派閥の闇が手招きしている。


 『ブラックリリー』の冷徹なる参謀――黒崎結衣さま。彼女の呼び出しを告げるインクの香りが、どこからか漂ってくるような錯覚に囚われ、私は薄暗い廊下の先を、ただじっと凝視していた。

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