第7話 紅蓮の王子と、銀の鎖
朝のホームルーム。
窓の外には、まだ淡く白んだ春の光が広がり、磨き上げられた床に細い帯となって差し込んでいる。教室の空気はひどく静かで、誰もが次の瞬間を待つかのように息を潜めていた。
担任の志保先生の指先が、私の机の上に一輪の紅を置いた。
それは、暴力的なまでに鮮やかな大輪の赤い牡丹だった。花弁は幾重にも重なり、その中心には濃密な生命の色が宿っている。触れれば熱を帯びているのではないかと錯覚するほどの、凶暴な赤。
単なる献花ではない。
それは学園の三大派閥の一翼、『紅牡丹会』が発行する、拒絶を許さぬ通行証。
そして、無垢な平穏を焼き払う招待状であった。
「……これを持って、放課後に専用サロンへ向かってくださいね。失礼のないように」
先生の声音には、憐憫とも、あるいは得体の知れない期待ともつかぬ色が混ざっていた。微笑の端は柔らかいのに、瞳の奥はどこか遠くを見ている。
一組の教室内、数十対の視線が針となって私を刺す。ひそやかな息遣い、机の軋む音、制服の擦れる気配。そのすべてが、私一人に向けられている。
先日、ブラックリリーの深淵に呑まれたばかりの私が、今度は紅蓮の炎に召喚される。一介の外部生に過ぎない私の日常は、今、音を立てて崩壊しようとしていた。
崩れる予感は、確かな重みを持って胸の奥に沈み込んでいく。
逃げ場はないと、理性が告げていた。
放課後。
廊下に差し込む日の光は、朝よりもずっと濃く、長い影を引き延ばしている。私は震える指先で赤い牡丹を抱き、指定されたサロンの重厚な扉の前に立っていた。扉は深い艶を帯びた木製で、真鍮の取っ手には夕光が赤く映り込んでいる。
叩くべきか、引き返すべきか、その一瞬の逡巡がひどく長く感じられた。
意を決して扉を叩く。
次の瞬間、ブラックリリーの「静謐な黒」とは対照的な、燃えるような紅蓮の世界が私を迎え入れた。
真紅のベルベットに包まれたサロンは、濃厚な薔薇の香気が立ち込め、空気そのものが甘く重い。日差しを透かしたステンドグラスが床を血のような色に染め、天井の装飾にまで赤い影を落としている。視界の端が、かすかに熱を帯びる。ここは、炎の中に築かれた王宮だ。
「待っていたよ。君が、月華さんの『お気に入り』だね」
サロンの奥、深紅の長椅子からゆっくりと立ち上がったのは、この学園で「王子様」と称えられる二年生、朱雀院咲夜さまであった。
一七六センチの、均整の取れたしなやかな肢体。陸上部のエースとして風を切る彼女が纏うのは、黄金の陽光を孕んだ緋色のオーラ。
その存在そのものが、見る者の瞳を焼くほどに眩い。背筋はまっすぐに伸び、歩みは優雅で、しかし獲物を狙う獣のような隙のなさを秘めている。
「……あ、あの。一組の、小井縫南藻です」
喉が乾いて、声が掠れる。
自分の名を告げるだけで、心臓がひどく騒がしい。
「そう、そんなに怯えなくていい。さあ、こちらへ」
咲夜さまは優雅な、けれど野性味を帯びた足取りで近づくと、迷うことなく私の手を取った。
その手のひらは、私のような頼りない柔らかさではなく、絶え間ない研鑽に裏打ちされた硬いタコが、指の付け根に刻まれている。温度は高く、脈動は力強い。掴まれた瞬間、逃げ道が閉ざされたような錯覚に襲われた。
スポーツマンらしい、清潔でいてどこか官能的な熱を帯びた香りが、私の鼻腔を狂わせた。私の好みとは異なるはずの、王子様の魅力。けれど、一五三センチの私の瞳を真っ向から射抜くその甘いエスコートに、抗いようのない熱が頬を伝っていく。
視線を逸らしたいのに、逸らせない。
「飲み物は何がいい? 好きなものをリクエストして」
差し出された紅茶と、繊細な意匠の菓子。
白磁のカップから立ちのぼる湯気が、薔薇の香りと混ざり合う。
王子様の接待を受ける私は、まるで古びたお伽話の中に迷い込んだかのような夢見心地であった。椅子の柔らかさ、紅茶の温度、彼女の視線。そのすべてが甘やかで、現実味を欠いている。
しかし、彼女の慈愛に満ちた微笑みは、獲物の警戒心を溶かすための毒でもあった。優しさは刃になり得る。私は、それを知っているはずだった。
「今日は聞きたいことがあって君を招待したんだ。……どうして、あの孤高な『姿隠しの姫君』が君をパートナーに選んだのか。その理由を、私に教えてくれないかな?」
咲夜さまの瞳が、至近距離で私を射抜いた。
長い睫毛の奥に宿るその光は、王者のような強制力を持って私の魂を掴んで離さない。密室、二人きりの距離。素敵な王子様に迫られ、私はもはや吐息をつくことさえままならなかった。
(言わなきゃ。彼女の正体が最推しの小説家だなんて、言えるわけないけれど。でも、何か、何かお答えしなきゃ……)
胸の奥で言葉が渦巻く。
焦燥と恐怖と、奇妙な誇らしさが入り混じり、思考は絡まり合う。
甘い圧力に屈し、私の唇がわずかに震え、勝手に開きかけた――
その時。
――ふわり。
背後から、命を凍てつかせるような死の冷気が吹き抜けた。
サロンを満たしていた紅蓮の熱気が、一瞬でガラス細工のように砕け散る。空気の密度が変わる。音が消える。
気づけば、私の視界は強制的に上を向かされていた。
後頭部を、冷たく、暴力的なまでの力強さで「がしっ」と掴み上げられたのだ。
頭皮に走る鋭い痛みが、現実を容赦なく突きつける。
「月華、さま……っ」
一九三センチの、圧倒的な質量。
銀色の光を背負い、サロンの扉の影から音もなく現れた私の支配者が、そこに立っていた。長い影が床を覆い、赤の世界に冷たい月光が差し込む。
「勝手にお邪魔してしまって申し訳ありません、咲夜さん。私の『犬』が呼び出しを受けたと聞いたもので」
月華さまは、咲夜さまを無機質な瞳で一瞥し、薄い唇の両端をわずかに吊り上げた。その微笑は、温度を持たない。
あの王子様と称される咲夜さまでさえ、月華さまの放つ剥き出しの威圧感に、一瞬だけ喉を鳴らして言葉を詰まらせた。
空気が軋む。
二つの覇気が衝突する。
「……月華さん。君がそんな風に誰かに固執するなんて、本当に珍しいね。その子は、ただの『犬』にしては、少し可愛すぎるんじゃないかな?」
「褒め言葉として受け取っておきますわ。ですが、躾が必要なのは確かなようです。……行きますよ、南藻」
月華さまは、私の頭を掴んだまま、慈悲もなくサロンの外へと引きずり出した。足元がもつれ、絨毯の感触が遠ざかる。廊下へ出た瞬間、私の頭頂を掴んでいた指先に、さらに非道な力がこもる。
「……誰にでもしっぽを振るんじゃないわよ。この駄犬」
低く、地を這うような氷の声。
見上げた月華さまの瞳には、かつて見たことのない、昏い独占欲が渦巻いていた。頭皮に伝わる痛みと、首を痛めるほどに見上げなければならない圧倒的な身長差。呼吸が浅くなる。視界が揺れる。
叱られている。
支配されている。
恐怖に膝が震え、足は縺れている。
けれどそれとは裏腹に、私の心臓は、この銀色の鎖に繋がれたことへの狂おしいほどの悦びに、激しく、不浄な音を立てていた。
痛みと熱が混ざり合い、理性が崩れていく。
「ごめんなさい……月華さま……っ」
謝罪の言葉は、情けなく震えながらも、どこか甘い響きを帯びている。私は、銀色の月の鎖に繋がれたまま、ただ彼女が引きずる足跡を辿ることしかできなかった。
その先に待つ運命が、どれほど冷酷であろうとも。




