第5話 湯煙の中の馴化(じゅんか)
食堂での胃の痛くなるような夕食を、私はようやく終えた。
磨き上げられた銀のカトラリーが皿に触れるたびに響いた澄んだ音が、いまだ鼓膜の奥に残っている。
そして、逃げるようにして寄宿舎の自室へと帰り着いた。
無数の視線に晒され続け、すっかり磨り減ってしまった体を引きずるようにして辿り着いた部屋は、しんと静まり返っている。
厚い絨毯が足音を吸い込み、外界のざわめきを切り離したその空間は、まるで深海の底のように静かだった。
胸の奥に溜まっていた緊張が、そこでようやく形を持って浮かび上がる。
嵐のような一日の終わりに待っているのは、本来ならば、この学院が誇る豪華な大浴場での安息である。
煌びやかな社交と、白磁のような素肌が湯気に溶け合う、秘めやかな楽園。
そこは、心身を解きほぐすために設えられた、学院の誇りそのものだった。
時刻は夜の八時半を回ったところ。
壁掛け時計の針が、規則正しく時を刻む音が、やけに大きく感じられる。
入浴時間が始まって、すでに三十分が経過していた。
廊下からは、入浴を終えた生徒たちの、石鹸の香りを纏った楽しげな囁きが微かに聞こえてくる。
濡れた髪を揺らしながら行き交う足音が、弾むように軽やかで、どこか甘い。その声は、今日という日を無事に終えた者だけが持つ、柔らかな安堵に満ちていた。
だが私は、その華やかな社交の場を避けるように、今日も自室のユニットバスで済ませようとしていた。
閉ざされた空間で、誰の視線も感じることなく、静かにシャワーを浴びる毎日。
この学園に入学してから、ずっとそうしてきた。
「……ふぅ。今夜も、お部屋のシャワーだけで済ませましょう」
そう呟き、洗面用具を手に取ろうとした、その時だった。
私の袖を、控えめな、けれど確かな意思を込めた力が、そっと引き留めた。
指先から伝わる柔らかな圧力。
制服越しに伝わる微かな体温。
私は思わず息を止め、その場に立ち止まる。
鼓動が、一拍遅れて強く跳ねた。
「南藻さん。今日も、お部屋で済まされるのですか?」
振り向けば、ルームメイトの東雲柚月さんが立っていた。
月明かりを背に受けた彼女の輪郭は、淡く縁取られている。
いつもなら、もうとっくに入浴を終え、寝支度を整えて寛いでいるはずの彼女。
だが今夜は、電気も点けていない暗い部屋の中、未だに制服姿のまま、宵闇に溶けるようにして私を待っていたのだ。その佇まいは、静かな湖面に落ちる一輪の花のように、気配だけで空間を満たしている。
「ええ。なんだか、今日は少し疲れてしまって。……柚月さんは、まだ行かなくてよろしいのですか?」
私の問いかけに、彼女はすぐには答えなかった。
ただ、伏せられた長い睫毛が、微かな吐息と共に揺れる。
沈黙が、柔らかな布のように私たちの間に垂れ下がった。
「……南藻さん。ずっと大浴場を避けてますよね――ひょっとして『恥ずかしい』のではないですか? 同級生の皆様と、その、剥き出しの姿でお会いするのが」
図星を突かれ、私は言葉を失った。
喉の奥がひりつく。
けれど、厳密には少し違う。
私は『百合小説愛好家』なのだ。
本物のお嬢様たちが集う秘園――大浴場に足を踏み入れれば、その芳醇な光景を前に、自らの邪念を御しきれる自信がない。
尊いクラスメイトを性的な視線で冒すなど、淑女として絶対にあってはならない背徳行為。私の内に潜む「オタク的潔癖」が、聖域への侵入を頑なに拒んでいるのである。
だが、そんな私の複雑な葛藤を、柚月さんは「初々しい羞恥心」と受け取ったらしい。その誤解は、優しさに包まれている分だけ、訂正する術を奪っていく。
「慣れ、が必要ですわ。……よろしければ、私と一緒に参りませんか? 今ならもう、他の方は上がっていらっしゃいますし、私がついていますから」
「柚月さんと、二人で……?」
「ええ。少しずつ、解していけばよいのです。ぜひ、南藻さんにも、あの開放的な空間を味わってほしいのですわ。私と二人だけなら……大丈夫でしょ?」
暗がりの中で首を傾げ、薄桃色の唇を綻ばせる彼女。
その笑みは、夜の静寂を柔らかく溶かす灯火のようだった。
無垢で、どこか抗いがたい提案。
それを無下にすることは、私にはできなかった。
やがて案内された大浴場は、白大理石が敷き詰められた宮殿のような空間だった。高い天井に反響する水音が、静謐な残響となって降りてくる。
もうもうと立ち込める乳白色の湯気。
その向こう、ステンドグラス越しに差し込む月光が、水面を銀色の鱗のように染め上げている。
「……あ、あの、柚月さん。やっぱり私、外で」
思わず弱音がこぼれる。
足裏に触れる石床の冷たさが、現実感を強める。
だが、彼女は穏やかに微笑んだ。
「さあ、南藻さん。まずは背中を流し合いましょう?」
そして私は、脱衣所での絶望的な死闘を経て、洗い場の低い椅子に座らされていた。熱気に包まれた空気が、肌を撫でる。
背後に回った柚月さんの、濡れた指先が私の肩に触れる。
その接触は、あまりにも自然で、あまりにも親密だった。
「……南藻さんの肌、とても白くて綺麗ですわ」
熱を帯びた彼女の掌が、きめ細やかな石鹸の泡を介して、私の肌をゆっくりと滑る。
一五三センチの私の、頼りない肩甲骨の起伏。
それを丁寧になぞるその手つきは、まるで自身の所有物を確かめるかのような、静かな執着を帯びていた。
「そ、そんなことありません。柚月さんこそ、その……お美しいです」
私は必死に前だけを向き、煩悩を振り払うべく目を閉じる。
だが、温かいお湯と共に広がる彼女の石鹸の香りに、思考はしだいに混濁していった。湯気が視界を曇らせるたび、理性の輪郭もまた、ぼやけていく。
「月華さまに選ばれたことで、これから南藻さんには、より一層厳しい視線が注がれますわ。……でも、安心してくださいね。寮に戻れば、私と二人きり。私はいつだって、南藻さんの味方ですから」
柚月さんの声が、耳元で低く、密やかに響く。
彼女は慈しむように私の髪を洗い、その細い指先を地肌に這わせる。
その手つきは優しすぎるほどだった。
だが同時に、どこか獲物を馴らすような、逃げ場のない甘やかな圧迫感があって。
心の奥に、小さな震えが生まれる。
「……柚月さん。なんだか今日、少し距離が近くありませんか?」
「そうですか? 同じ屋根の下で暮らす仲なのですもの、これくらい当然ですわ」
その瞬間、柚月さんの動作が、ふと止まった。
湿った沈黙が、湯気に紛れて重く沈殿する。
「……それとも、月華さまの方が、よろしかったかしら?」
心臓が跳ね上がる。
鼓動が、耳の奥で暴れた。
慌てて振り返ろうとした私の肩を、柚月さんの掌が優しく、けれど抗えぬ力で押し止めた。
「ふふ、冗談ですわ。……でも、南藻さん。外でどれだけお姉さまに翻弄されても、貴女を一番近くで支えるのは私であることを、どうか忘れないでくださいね」
やがて湯船に浸かると、柚月さんは私の隣にぴたりと寄り添った。
広い浴場に、二人きり。
水面がわずかに揺れ、月光が砕け散る。
月華さまという「巨大な月」に押し潰されそうになっていた私の心。
それが、柚月さんの差し出す「温かな陽だまり」によって、じんわりと、骨の髄まで溶かされていく。安堵と戸惑いが、胸の奥で複雑に絡み合う。
(……もしかして、私と同じ趣味をお持ちなのかしら? ……いえ、柚月さんは、ただ私が心配なだけ)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥で芽生えた微かな疑念は消えない。
お湯の熱さとは別の、逃げ場のない火照りに身を焼かれながら。
私は――
ルームメイトの優しさという名の檻に、深く、静かに身を預けた。




