第42話 存在しない少女の輪郭、ここから始まる物語
有栖川月華という人間がこの世に生を受けた瞬間――
世界は、その存在を忘却の胃袋へと流し込む準備を始めていたのかもしれない。
私は、大財閥の令嬢として、双子の妹である陽華と共に生まれた。
鏡合わせのような、瓜二つの容貌。しかし、私たちを分かつ決定的な差異は、残酷なまでに明快だった。
私の存在感は、異常なまでに希薄であったのだ。
それは「影が薄い」という生ぬるい言葉では言い表せない。
光が私の身体を素通りし、輪郭が背景に溶け込んでいくような感覚。
両親でさえ、私がいることに気づかず、部屋の明かりを消して退出することがたびたびあった。
暗闇に一人残されるたび、私は自分の白い指先を見つめ、これが実在するものなのかを自問した。
食事の席で私の分だけ用意されないことも珍しくなかった。
悪意ならばまだ救いがあっただろう。
だが彼らの瞳は、ただ純粋に、私の居場所を「虚空」として認識していた。
もし、光り輝く太陽のような陽華がいなければ、私は幼少期に精神の霧に包まれて消滅していただろう。
陽華だけは、なぜか常に私の居所を正確に「観測」していた。
彼女が私の冷え切った手を握り、周囲の大人たちに「お姉様はここにいるよ」と声を上げる。その瞬間、私の肉体にわずかな色彩が宿り、私は辛うじてこの世界に繋ぎ止められる。
私たちは常に二人一組。
陽華が光を放つことで、その影に潜む私の存在が逆説的に証明される。それは、あまりにも歪で、湿り気を帯びた共生関係だった。
* * *
成長するにつれ、私の呪いには一定の法則があることが判明した。
それを最初に見抜いたのは、有栖川家のメイド――
木下雪菜だった。
当時、私は彼女の背後に立ち、数分間も見つめ続けていたが、彼女は鼻歌を歌いながらティーカップを磨き続けていた。痺れを切らした私が、震える指先で彼女のメイド服の袖を掴んだ、その刹那。
「――あら、お嬢様!?」
雪菜は心臓を弾かせ、驚愕に目を見開いて私を振り返った。先ほどまで、彼女の視線は私のいる空間を幽霊でも見るように素通りしていたのだ。
「お嬢様……ひょっとして――直接触れてから、しばらくの間は認識できるようになるのではありませんか?」
雪菜の推測は、この不条理な体質に対する唯一の解だった。
こちらから相手に触れる、あるいは相手から触れられる。
肉体を介した「通信」が行われて初めて、私は他者の脳内に「実在する人間」として登録されるのだ。
しかし、私はその事実を喜ぶよりも、腸を焼くような深い嫌悪と屈辱を感じた。
(なぜ、有栖川の血を引くこの私が、存在を認めてもらうためにわざわざ他者の卑俗な身体に触れ、情けを乞わねばならないのか)
中等部に上がる頃には、自分から存在を知らせることを放棄していた。
* * *
表舞台に姿を現さない私は、「姿隠しの姫君」と呼ばれるようになった。
本来なら嫌でも目につくはずの巨躯が、誰の目にも映らず、誰の記憶にも残らない。私は透明な孤独を鎧として身に纏った。
陽華は、その圧倒的な身体能力を活かしてバスケットボールの道へと進んだ。
身長に恵まれた私にも誘いの声はかかったが、私は冷笑と共に首を振った。
私がコートに立てば他者から認識されないという特異体質で、とんでもないプレイヤーになっただろう。陽華とコンビを組めば間違いなく最強になれる。
だが、それは私の矜持が許さない。
陽華の放つ光に依存して生きるようで、気に入らなかった。
代わりに私が耽溺したのは、物語という名の逃避行だった。
現実の世界で他者と繋がれない私は、白紙の上で「究極の関係性」を構築することに没頭した。
少女同士の、肌が触れ合うかのような密接な情愛――
いわゆる「S文学」。
友達以上、恋人未満。
互いを唯一無二の観測者として定め、魂を削り合うその関係性は、当時の私が最も切実に求めていた幻想そのものだった。
私は「月光淑女」というペンネームを使い、深夜の静寂の中で小説を公開し始めた。青白い液晶の光に照らされた私の細長い指先が、キーを叩く音だけが部屋に響く。
文字を通せば、私の存在は確かに認識された。
肉体に触れずとも――
私の魂の輪郭が、見知らぬ読者たちの脳裏に深く刻まれていく。
「面白い」
「更新を待っています」
その無機質な文字列だけが、私がこの世界で呼吸をしていることを証明している。
* * *
高等部二年の春。
学園の派閥を統括する一条椿さまから、パートナーを作るよう再三の促しを受けていた。だが、私にとって他人は、私の身体を突き抜けていく空気でしかない。
パートナーなど、私の静謐な孤独をかき乱す邪魔者に過ぎなかった。
ある日の放課後、私は自らのルーツをなぞるように、図書館の最奥、「地下迷宮」と呼ばれる稀覯本エリアに足を運んだ。
そこは陽光すら届かぬ地下の檻。
カビと古書の重たい匂いが立ち込め、湿った冷気が肌を刺す。
私にとって、ここ以上に落ち着く聖域はなかった。
目的の古い詩篇を手に取ろうとした、その時だった。
私の背後、絶対的な静寂を切り裂いて、微かな吐息混じりの呟きが聞こえた。
「……月光淑女というペンネームは、ひょっとして、この本から取ったのかしら?」
その瞬間、心臓が凍りつき、次の瞬間に熱く沸騰した。
「月光淑女」という名は、この地下迷宮の最奥に眠る、一般の生徒は一生手に取ることのない古典のマイナーな詩篇から引用したものだ。その名前は――誰にも見つかるはずのない秘密の暗号だった。
彼女は私に触れていない。
私の背は、彼女より四十センチも高い。
見上げるような巨躯がそこに在るというのに、彼女は私の存在に気づかぬまま、私の魂の最も深い部分にある「名前の由来」を、独り言として言い当ててみせた。
これまで私を素通りしていった数多の人間とは違う。
耳の奥で、自身の心拍が地鳴りのように響いた。
驚愕と、秘密を暴かれた憤り、そして――生まれて初めて味わう、抗いがたいほどの渇望。
気づけば、私は右手を伸ばしていた。
* * *
私は、その少女の無防備な肩を、逃がさないよう強く掴んだ。
「ひゃっ!?」
跳ね上がるような悲鳴。
彼女は震える身体を翻し、弾かれたように私を振り返った。
その瞳。
潤んだ瞳の中に、私の漆黒の姿が、鮮明に映り込んでいた。
初めてだった。
陽華を除いて、これほど明確に、私を「そこに在る絶対的な個」として捉えた者は――。
彼女が何を意図してその名を口にしたのかは、まだ分からない。
だが、私の聖域に土足で踏み込んだ以上、ただで帰すつもりはなかった。
私は、圧倒的な体格差を利用して、彼女を追い詰めた。
天井の低い地下迷宮で、百九十三センチの私が放つ影は、彼女にとって逃げ場のない檻となっただろう。
怯える彼女。
その震える小さな肩、ウール混紡の制服が擦れる音。
私を見上げるその視線こそが、私の存在を肯定する甘美な証明――。
(この子だ……)
制度としてのパートナーなど、もはやどうでもよかった。
私は、私の孤独の心臓を見つけ出したこの「観察者」を、私の所有物にすると決めた。
* * *
彼女が私の正体に気づいているのか、あるいは単なる偶然なのか。
これから執拗に暴き立ててやればいい。重要なのは、彼女の手によって私の物語の扉が、音を立てて開かれたということだ。
「……貴女、名前は?」
重厚な月下香の香りが、狭い書庫の間に満ちていく。
私の問いかけに、少女は震える唇を小さく動かし、掠れた声を出した。
「こ、小井縫……南藻、です……」
南藻。
私の静まり返った世界に、石を投じた異分子。
私は、彼女を私の「妹」にする。
そして、その瞳という鏡に、一生私だけを映し続けさせるのだ。
地下迷宮の暗闇の中で、私はかつてないほど饒舌な支配欲に身を任せ、獲物を仕留めた捕食者のような、冷たく、そして法悦に満ちた微笑を浮かべた。
「姿隠しの姫君」の物語に――
初めて「読者」ではなく「共演者」が現れた瞬間だった。




