第41話 月と水鏡のワルツ、あるいは二人だけの空
六月中旬。
ついに『結花の披露会』(ブルーム・デビュタント)の当日を迎えた。
空は朝から鉛色の雲に低く覆われ、今にも雨粒が落ちてきそうな重苦しい気配に満ちている。梅雨特有のぬるりとした湿気が、廊下を行き交う生徒たちの白い肌に、薄い膜のように纏わりついていた。
学園の時間は特別編成となり、午前中で授業は終わりを告げる。
昼食を早々に済ませた選ばれし十八組のペアは、それぞれの準備場所へと散っていく。全校生徒の羨望と、少しの嫉妬が混じった視線。その熱を背中に感じながら、私は桜庭小鈴さんと共に、ブラックリリー専用の美容サロンへと足を踏み入れた。
サロンの空気は、化粧品と整髪料の甘い香りで満たされていた。
鏡の前に座らされ、専属のスタッフの手によって、私は「普通の高校生」から「夜の住人」へと変貌を遂げていく。
月華さまが私に指定したのは、漆黒のロングドレスだった。
しっとりとした重みのあるシルク混紡の生地が、肌の上を冷たく滑り落ちる。
背中のコルセットが締め上げられるたび、肺の中の空気が押し出され、代わりに甘美な緊張感が注入されていくようだった。
繊細なレースが施されたその黒は、「姿隠しの姫君」の影そのものであり、彼女の騎士として傅く私の、覚悟の色でもあった。
対して、隣の席の小鈴さんが纏うのは、純白のドレス。
陽華さまの隣に立つにふさわしい、一点の曇りもない白。太陽と月、光と影。その対比があまりにも鮮やかで、私は鏡の中の自分を見つめ、小さく唇を湿らせた。
午後三時。
大講堂のシャンデリアに一斉に灯がともり、パーティの幕が上がった。
トップバッターは、有栖川陽華さまと小鈴さんのペアだ。
百九十六センチの陽華さまと、百四十八センチの小鈴さん。
四十センチ以上の身長差がある二人だが、音楽が鳴り響いた瞬間、その懸絶は劇的な美へと昇華された。
陽華さまの長い手足が、小鈴さんをまるで羽毛のように軽々とリードし、白いドレスの裾が蝶の羽ばたきのように翻る。
その光景はまさに「太陽」の演舞。
圧倒的な光の奔流に、会場中が熱に浮かされたように拍手を送った。
その後も一組ずつワルツが披露され、会場の熱気は最高潮に達していく。
私と月華さまの出番は、全十八組の大トリ――最後だ。
出番を待つ舞台袖。私の心臓は、助けを求めるように早鐘を打っていた。手袋の中の手のひらはじっとりと汗ばみ、足元は雲の上を歩くように頼りない。
「……あら? いかなる時も不敵な貴女らしくもない。それほどまでに緊張しているの?」
不意に、涼やかな声が熱気を切り裂いた。
見上げれば、漆黒のドレスに身を包んだ月華さまが、冷然と私を見下ろしていた。
百九十三センチの長身が作り出す影が、私をすっぽりと覆い隠す。
「不敵……だなんて。ただ、皆さんの視線が怖くて……」
私が上気した頬を隠すように俯くと、月華さまはふっと小さく鼻を鳴らした。
「視線? 有象無象の眼差しなど、気にする価値もないわ。……いいから、私に任せておきなさい」
月華さまが、私の震える手を取り、その長い指を強引に絡めた。
ひやり、とした冷たさ。私の高ぶった体温を吸い取るようなその温度に、私は思わずほう、と息を吐いた。
「貴女は私だけを見て、私の影に従っていればいいのよ」
「第十八番。有栖川月華、小井縫南藻」
司会の声が静寂を呼び、私たちはフロアの中央へと進み出た。
ヒールの音が、やけに高く響く。
数秒の沈黙。
世界が止まったような静けさの中で、音楽が始まった。
それは、陽華さまたちの軽快なワルツとは対極にある、重厚で、どこか退廃的な哀愁を帯びた旋律だった。
私は月華さまの懐に飛び込むようにして、その身を預けた。
彼女が動く。
それに合わせて、私も動く。
その瞬間、会場の空気が一変した。
* * *
これまでのダンスが観客への「披露」だとするなら、月華さまのダンスは、世界への「拒絶」であり、私への「支配」だった。
特異体質のせいで誰からも認識されず、空気のように扱われてきた彼女。
けれど今、彼女はその「存在の希薄さ」を逆手に取り、周囲の色彩をすべて黒く塗り潰していた。
彼女の黒いドレスが闇のように広がり、シャンデリアの光さえも吸い込んでいく。それは――
皆既日食。
月が太陽を覆い隠し、世界を一時的な夜に沈める現象。
観客たちは、その異様なまでの美しさと冷たさに息を呑み、瞬きさえ忘れ、私たちの黒い旋律に魅入られていた。
誰からも見られないはずの「姿隠しの姫君」が、今、会場の全てを支配している。
その腕の中、彼女の瞳という小宇宙に囚われているのは、私だけ。
私の視界には、月華さまの陶器のような肌と、揺れる黒髪しか映らない。首が痛くなるほどの見上げる角度さえ、今は甘美な服従の証のように思えた。
やがて曲がフィナーレを迎え、私たちは静かに動きを止めた。私の乱れた吐息と、月華さまの涼しい月下香の香りだけが残る。
数秒の、完全なる静寂。
その後、地鳴りのような拍手が会場を包み込み、世界に光が戻った。
私たちは深く礼を捧げ、夢のような演舞を終えた。
* * *
パーティ後の立食会。
喧騒と熱気に満ちた会場を早々に抜け出し、私たちは人影のない寮の裏手にある広場へと来ていた。
人混みを嫌う月華さまの希望だった。
噴水の水音が、心地よいリズムで響いている。
ふと見上げると、昼間の重たい雲は嘘のように晴れ渡り、雨に洗われた夜空には、濡れたような満月が浮かんでいた。
ベルベットのような闇に、銀色の光が冴え渡る。
月明かりが、私たちの黒いドレスを青白く縁取っていた。
月華さまが、ふいに立ち止まり、私に向かって右手を差し出した。
「……踊るわよ」
「えっ、ここでもですか? 音楽もありませんのに」
「聞こえるでしょう。……あの旋律に合わせて、私たちだけのワルツを」
遠くの会場から漏れ聞こえる微かな音楽、そして噴水の水音。
私は迷わず、その冷たい手を取った。
観客もいない。
審査員もいない。
喝采もない。
聞こえるのは、互いの衣擦れの音と、夜気が肌を撫でる音だけ。
けれど、この静謐なダンスこそが、本当の「契約」なのだと感じた。
高い夜空に浮かぶ孤高の月だけが、私たちを見下ろしている。
私は月華さまの騎士として、彼女の孤独な影を踏み、その存在を世界に繋ぎ止める楔となる。
一歩、また一歩。
ステップを踏むたびに、その誓いが魂に刻まれていく。
ダンスが終わり、私たちは自然と足を止めた。
月華さまの長い指が、私の汗ばんだ髪を優しく梳く。
その切れ長の瞳が、月光を吸い込んで柔らかく細められた。
「悪くないわね。……南藻、これからも私の傍で、私を見失わないことよ」
その言葉は、命令でありながら、どこか祈りのようにも聞こえた。
私はドレスの裾を摘み、夜風に冷やされた空気を胸いっぱいに吸い込んで、月を見上げる彼女に答えた。
「はい、月華さま。どこまでも、お供します」
――貴女が月ならば、私はその光を映し出す水面。
貴女がいなければ、私はただの暗い水。
貴女がいてこそ、私は私になれるのです。
静寂の中、私たちは肩を並べて夜空を見上げた。
噴水の水面には、揺らめく月と、寄り添う二つの影が静かに映し出されていた。




