第40話 存在の証明、あるいは騎士の誓い
その日の昼休み――
私は放課後に月華さまの元を訪れるための手続きを行っていた。
私たちはパートナー契約を結んだ間柄ではあるが、相手はこの学園の特権階級であるフローラリアの一員だ。
一般の生徒が友人同士で教室を訪ねるような気軽さは許されない。
事前に事務的な申請を通し、訪問許可証の発行を待つ。
インクの乾く匂いが鼻をつく無機質な紙片が、有栖川月華という存在の遠さを、改めて私に冷徹に突きつけていた。
* * *
放課後。
西日が廊下を長く染める頃、私は胸の奥に鉛のような緊張を抱え、フローラリア専用寮へと足を運んだ。
重厚なオーク材の門を潜り、塵一つない静謐な廊下を進む。
目的地は最奥、月華さまの私室だ。
私の脳裏には、昨日、陽華さまが何気なく零した言葉が棘のように刺さっていた。
『お姉さまは、パートナーを作るつもりはないって言ってたのに』
かつてそう公言していた彼女が、なぜ私を選んだのか。
ただの気まぐれか、あるいは私の滑稽さを愛でるための遊戯なのか。その真意を、彼女の唇から直接聞かなければ、私は前に進めない気がした。
月華さまの部屋の前に立ち、震える指先で扉をノックする。
「……お入り」
中から、硝子細工のように冷たく、低い声が響いた。
重い扉を押し開けると、そこには濃密な香気の檻があった。
月下香。
夜に近づくにつれて甘さを増す、官能的で重たい花の香りが、私の思考を一瞬で麻痺させる。
部屋の窓際、豪奢な一人がけの椅子に、彼女はいた。
西日が逆光となり、有栖川月華の輪郭を曖昧に溶かしている。
腰まで流れる艶やかな黒髪と、漆黒のシルク混紡のロングワンピースが闇夜のように広がり、彼女自身が「影」そのものであるかのように、背景へと沈み込んでいた。
そこに確かに在るはずなのに、ふと目を離せば霧散してしまいそうな、恐ろしいほどの希薄さ。
月華さまは読んでいたハードカバーの本をゆっくりと閉じ、その長い睫毛を持ち上げた。
冷徹な瞳が、私を射抜く。
「何の用かしら。……わざわざ煩雑な手続きを経てまで私の聖域に踏み込むからには、それ相応の理由があるのでしょうね」
私はスカートのチェック柄を握りしめ、ウール混紡の生地のざらつきで指先の感覚を確かめながら、渇いた唇を開いた。
「お尋ねしたいことがありまして。……月華さまは以前、パートナーを作るおつもりはなかったと伺いました。それならばなぜ、私を選んでくださったのですか」
私の直截な問いに対し、月華さまは不快そうに眉を寄せ、本の表紙を爪先でカツ、カツ、と神経質に弾いた。
「……なに? そんなことを聞きに来たの? 説明など不要でしょう。相応の覚悟を持って来たかと思えば、相変わらず頭が悪いのね」
吐き捨てられた言葉には、いつもの毒が滲んでいた。
胸の奥がひやりとする。
彼女は興味を失ったように視線を逸らし、私を拒むように本へと手を伸ばす。
その時、部屋の隅の影に控えていたメイドの雪菜さんが、静寂をそっと裂くように口を開いた。
「南藻さまもご存じでしょう。――お嬢様は、幼いころからある“特質”をお持ちなのです」
「雪菜」
月華さまが鋭い声で制しようとしたが、雪菜さんは慈愛に満ちた、しかし決して引かない穏やかな笑みを浮かべ、私を見据えた。
「お嬢様は、周囲にその『存在』を認識されにくいという、特異な体質をお持ちです。妹君である陽華さま以外は、視界に入っていても意識から滑り落ちてしまう。それは成長するにつれて顕著になり……お嬢様は次第に、世界からの隔絶を選ばれたのです」
雪菜さんの静かな告白を聞き、私は息を呑んだ。
「姿隠しの姫君」という二つ名。
それは単に彼女の寡黙さや神秘性を讃える詩的な修辞などではなかった。
物理的、あるいは認識論的に「世界から無視される」という呪い。
誰かに話しかけても、その声は届かず、透明人間のように扱われ続ける日々。
誰かと繋がりたい、理解されたいと願うこと自体が、彼女にとっては身を削るような苦痛と徒労の繰り返しだったのだ。
「それで……パートナーはいらない、と……」
私が思わず、独り言のように呟いた、その時だった。
不意に、部屋の光が遮られた。
座っていたはずの月華さまが、足音ひとつ立てず、いつの間にか私の目の前に立っていたのだ。
百九十三センチの長身が、天井ごとその威容で私を見下ろしている。
私の視線は、彼女のシルクのワンピースに包まれた胸元あたりで彷徨うことしかできない。
圧倒的な高低差。
モデルのような長い四肢が作り出す影が、私を檻のように閉じ込める。
「……駄犬の癖に。この私を理解しようなんて、生意気よ」
頭上から降る声が、鼓膜を震わせる。
見上げれば、氷のような瞳の奥に、揺らぐ炎のような激情が見えた。
「お嬢様は、照れていらっしゃるのです」
雪菜さんが背後ですまし顔で補足を入れる。
「っ……! いちいち通訳などしなくていいと言っているでしょう!」
月華さまは頬を微かに紅潮させ、苛立ちを隠すように唇を噛んだ。
そして、彼女は長く美しい指を伸ばし、私の顎を強引に掬い上げた。
冷たい指先が肌に触れ、背筋に電流が走る。強制的に視線を交差させられ、私は彼女の瞳という深淵を覗き込んだ。
「私はね、南藻。……私のことを見つけることのできる者など、この世界にはいないと諦観していたわ。誰もが私の傍を通り過ぎ、誰もが私の輪郭を捉えられない。有栖川の名も、この美貌も、観測されなければ無価値な塵と同じ」
彼女の指が、私の顎から頬へと、愛しむように、確かめるように滑る。
「けれど、貴女は私を見つけた。……だから、貴女は私の妹なのよ」
月華さまの言葉が、私の心臓を鷲掴みにした。
あの日、私が彼女を見つけたのは、偶然ではなかった。
私が百合という概念を愛し、物語の世界に救いを求め、「月光淑女」という作家の魂に共鳴していたからこそ。
私の感性のすべてが、世界から消えかけていた彼女の孤独な周波数を捉えたのだ。
この出会いは運命などという曖昧なものではない。
私が私として生きてきた、その必然が引き寄せた奇跡だった。
「……こっちにいらっしゃい」
月華さまが私の手首を掴み、部屋の中央にあるアンティークの円卓へと導く。
彼女は優雅な所作で椅子に腰掛け、黒いシルクのスカートを広げた。
西日を背負った彼女は、逆光の中で神々しいまでの威厳を放っている。
「そこに、跪きなさい」
甘い命令。
私は抗う術を持たず、いや、抗う気など微塵もなく、その場にゆっくりと膝をついた。フローリングの硬さを膝に感じながら、私は彼女を見上げる。
百五十三センチの私が跪き、百九十三センチの彼女が座る。
その視線の落差が、私たち主従の絶対的な関係性を、残酷なまでに美しく描き出していた。
月華さまが、白磁のように滑らかな右手を、私の方へ差し出した。
手首の骨が浮き出るほど華奢で、しかしすべてを支配する手。
「忠誠を誓いなさい。……私を、二度と見失わないと」
その声は震えていた。
命令の形を借りた、切実な懇願だった。
私はもう、ただ流されるだけの「駄犬」ではない。
彼女をこの世界に繋ぎ止める楔。それが私の役目なのだ。
私は差し出された彼女の手を、両手でそっと包み込んだ。
ひやりと冷たい。
けれど、その奥に微かな脈動を感じる。
私は恭しく頭を垂れ、その節の美しい、青い血管が透ける手の甲に、ゆっくりと唇を寄せた。
吐息が彼女の白い肌にかかり、びくりと指先が跳ねるのが分かった。
構わず、私は熱い唇を押し当てた。
柔らかい皮膚の感触。石鹸と、濃厚な月下香の香りが混じり合い、鼻腔を満たす。 私の体温が、彼女の冷たい肌へと移っていく。
それは服従の証であり、同時に、彼女を私の世界に刻み込むための、所有の儀式でもあった。
「誓います。月華さま」
唇を離し、私は濡れた瞳で彼女を見上げた。
姿隠しの姫君を守る、彼女だけの騎士として。
たとえ世界中の誰もが彼女を忘却の彼方へ追いやったとしても、私だけは彼女を見つけ続け、その名を呼び続けよう。
月華さまは、上気した頬を隠すように俯き、しかしその口元には、見たことのないほど安らかな、満足げな微笑みが浮かんでいた。
西日が私たちを包み込み、部屋に満ちた甘い毒のような香りが、永遠の誓いを祝福しているようだった。




