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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第二章

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第39話 コートの熱気と、背後に隠れる自称ライバル

 図書館での濃密な勉強会から一夜が明けた。


 二階堂亜美という、高慢な自尊心の裏に脆い孤独を隠した少女が加わったことで、私たちの期末テスト対策は順調に進んでいる。


 またみんなで集まって勉強会を開く約束もした。

 その約束が、少しだけ胸を温かくする。


「何事もメリハリが大事です。精神を遊ばせることも必要ですわ。わたくしにも、名門の娘としての優雅な予定がありますの」


 そう言って長い睫毛を伏せた亜美さんの仕草が妙に心に残りつつも、私は久しぶりに──ブラックリリーの頂点〈トップ〉に君臨する有栖川陽華さまの元へ足を向けることにした。


 * * *


 西日が長く伸びる渡り廊下。

 窓から差し込む斜光が、高品質なウール混紡のブレザーに重い影を落とす。  


 体育館へと続くその道を一人歩いていると、ふと、背後の大気がわずかに震えるのを感じた。  


 誰かが、一定の距離を保って私を追っている。  


 私が歩みを緩めれば、その気配もまた躊躇うように沈黙し、私が振り返ろうとすれば、衣擦れの音を残して物陰へと霧散する。  


 私は角を曲がった刹那、壁に背を預けて息を殺し、不意に顔を覗かせた。


「……やっぱり」  


 そこに立ち尽くしていたのは、精巧に巻かれたウェーブヘアを夕日に輝かせた少女――二階堂亜美さんだった。  


 彼女は太い円柱の陰に身を隠したつもりなのだろうが、隠しきれない派手な髪の端が、焦燥を物語るように小刻みに揺れている。


「何か用事かしら、亜美さん」  


 私が静かに声をかけると、彼女は「ひっ」と喉を鳴らして肩を震わせ、ひどくバツが悪そうに姿を現した。


「な、なんですの……。幽霊のように不意に現れて。心臓に毒ですわ」


「つけてきていたでしょう?」


「つ、つけてなど! 自意識が過剰ですわよ、南藻さん。わたくしはただ、偶然、本当に偶然に、こちらの方角に用事があっただけですわ」  


 亜美さんは上気した頬を隠すように顔を背けたが、その視線は泳ぎ、指先は所在なげにチェックスカートの裾を弄んでいた。


 この先にあるのは体育館と運動場のみ。

 優雅な予定などという言葉が、虚勢であったことは明白だった。


「私はこれからバスケ部の見学に行くの。亜美さんも、一緒にいかが?」  


 私が手を差し伸べるように誘うと、彼女はチラリと盗み見るような視線をこちらへ戻した。


「……まあ、あなたがそこまで仰るなら。運動部の視察も、二階堂家の嗜みとして……無駄にはなりませんわね」  


 亜美さんは安堵したように細い吐息を漏らし、私の半歩後ろへと滑り込んだ。

 彼女のローズの香水の残滓が、私の歩調に合わせて追いかけてくる。昨日の今日で、すっかり彼女の「盾」としての役割を与えられてしまったようだ。


 体育館が近づくにつれ、ダムダムという心臓の鼓動に似た重い振動と、床を噛むシューズの鋭い断続音が、湿った空気を震わせ始めた。  


 入り口付近には、見覚えのある、守ってあげたくなるような小さな背中があった。  


 陽光を透かす亜麻色の髪。

 一年生の「妹コンテスト」で頂点に立った、桜庭小鈴さんだ。


「あ、小鈴さん」  


 声をかけると、彼女は春の花が綻ぶような笑顔で振り返った。


「南藻さん! ……あら、そちらの方は?」  


 小鈴さんの純粋な視線が注がれた瞬間、私の背中に強烈な圧力がかかった。  


 亜美さんが私の背後に完全に隠れ、私のブレザーの生地を指先でじりじりと手繰り寄せたのだ。ウール混紡の硬質な布地が、彼女の力によって悲鳴を上げる。


「は、初めまして……ですわ……」  


 私の肩越しに聞こえる声は、消え入りそうなほどに細い。


「クラスメイトの亜美さんよ。一緒に見学に」  


 私が紹介すると、亜美さんはおずおずと、震える睫毛の隙間から小鈴を伺った。


「二階堂……亜美と、申しますわ……」  


 いつもの高笑いは影を潜め、彼女の指先は私の服の裾をぎゅっと絞り上げている。


「よろしくね、亜美さん」  


 小鈴さんの屈託のない微笑みに、亜美さんはわずかに毒気を抜かれたようだったが、それでも私の背中という安息地を離れようとはしなかった。


 * * *


 二階の観覧席へ上がると、そこには異界の光景が広がっていた。  

 コートの中央、西日を背負って巨大な影を落とす、圧倒的な存在。

 

 有栖川陽華さまだ。  


 百九十六センチ。

 その圧倒的な巨躯が動くたび、体育館の空気が物理的に押し出され、観覧席にまで風が届くような錯覚を覚える。  


 しなやかな長い手足が、オレンジ色のボールを弄ぶ。

 ディフェンスが二人掛かりで壁を作ろうとも、陽華さまは軽やかなステップ一つでそれを無効化し、高い、あまりにも高い打点からボールを放った。  


 ネットが甘い音を立てて揺れる。


「すごい……」  


 隣で亜美さんが、息を呑む音が聞こえた。  

 手すりに身を乗り出し、食い入るようにコートを見つめる彼女の瞳には、かつてない憧憬の光が宿っている。  


 普段の穏やかな「陽」の笑顔とは違う、戦士としての過酷な美しさを放つ陽華さまに、亜美さんもまた、その魂を射抜かれたようだった。


 練習が終わり、汗の匂いと熱気が渦巻くコートから部員たちが引き上げてくる。  

 出口付近で待つ私たちの元へ、陽華さまが歩み寄ってきた。  


 一歩、また一歩。  

 百九十六センチの影が、徐々に私の視界を塗り潰していく。彼女が近づくにつれ、体育館の照明さえ遮られ、私は巨大な天体の引力に囚われたような眩暈を覚えた。


「南藻ちゃん、小鈴! 来てくれたのね。嬉しいわ」  


 陽華さまが顔を近づけて微笑む。

 その大きな手が、小鈴さんの頭を優しく、慈しむように包み込む。  


 その瞬間、私の背中に衝撃が走った。


「ひっ……!」


 亜美さんが、迫りくる巨躯の迫力に耐えきれず、パニックを起こして私の背中に顔を埋めたのだ。  


 私の両肩を、爪が食い込むほどの力で掴み、自身の震える呼吸を私の背中に預けてくる。薄いブラウス越しに、彼女の激しい鼓動が伝わってきた。


「あら? そっちの子は?」  


 陽華さまが不思議そうに、私の後ろで縮こまっている亜美を覗き込もうとする。


「……」  


 返事はない。

 亜美は言葉を失い、ただ私という「盾」にしがみついている。


「クラスメイトの亜美さんです。陽華さまのプレーを見て、とても感動していたんですよ」  


 私が代弁すると、陽華さまは「へえ、そうなの?」と、琥珀色の瞳を細めた。


「憧れの陽華さまを前にして、緊張で声も出ないみたいで」


 その言葉が終わらぬうちに、私の腰のあたりに、鋭利な「熱」が走った。


「っ……!」


 亜美の指先が、私のブラウスの下の柔らかな肉を、容赦なくつねり上げたのだ。  


 切実な抗議を込めた、指先の力。  

 鋭い痛みが脊髄を駆け上がり、私の喉から、声にならない甘い溜息が零れそうになる。  


 私は潤みそうになる瞳を必死に瞬かせ、陽華さまの前で失態を演じぬよう、指先を握りしめた。


 陽華さまは、私たちの背後で行われている秘めやかな攻防には気づかぬまま、ふふっと穏やかに笑った。


「南藻ちゃんは、いろんな子に好かれているのね」  


 彼女の視線が、私の背中に密着し、腰に指を食い込ませている亜美さんへと向けられる。


「恥ずかしがり屋のお友達とも、こんなに距離が近い。……『パートナーはいらない』と言っていた月華お姉さまが、貴女を欲しがった理由がわかる気がするな」


 その言葉に、背筋を走る痛みが一瞬、冷たい戦慄へと変わった。  

 陽華さまの笑顔の奥に、有栖川家特有の、底知れぬ影が揺らめいたような気がしたからだ。


「ま、お姉さまは独占欲が強いから。あんまり他の子と仲良くしすぎていると、またお仕置きされちゃうかもね?」


 茶目っ気たっぷりにウインクを残し、陽華さまは小鈴さんを伴って、夕闇に溶けるように去っていった。  


 嵐のような「熱」が去り、私はようやく亜美の拘束から解放された。  

 ジンジンと痛む腰を摩りながら、私は背後の犯人を振り返る。


「……亜美さん、本気で痛いわ」  


 私が低く抗議すると――

 亜美さんは耳まで赤く染め、涙目のまま私を睨み返してきた。


「よ、余計なことを……っ。わたくしの胸の内を、勝手に曝け出さないでくださいまし!」


「紹介してあげたのに」


「……う……。そ、それについては……」  


 彼女は視線を彷徨わせ、震える唇を噛み締めると、蚊の鳴くような声で付け加えた。


「……感謝、していますわ。……これでも」


 それは、不器用な少女が捧げた、精一杯の譲歩だった。  


 月華さまの冷徹な支配と、亜美さんの湿った執着。

 腰に残る熱い痛みが、逃れられないえにしの証のように、いつまでも私の肌に刻まれていた。

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