第38話 図書室の隠れ家、高慢な少女の初対面
その日の放課後。
昨日のような、目が眩むほどの突き抜ける青空とは打って変わり、今日は六月らしい鉛色の重たい雲が空を覆っていた。
湿度が高く、少し歩くだけで制服のブラウスが肌に張り付くような不快感がある。
重く垂れ込めた気圧は、外で遊ぶ誘惑を断ち切り、私たちを薄暗い屋内へと誘い込んでいた。
私は、東雲柚月さんと二階堂亜美さんを伴って、校舎から少し離れた場所にある煉瓦造りの図書館へと向かっていた。
「ふん、今日は空が淀んでいますけれど、わたくしの知性は一点の曇りもなく晴れ渡っていますわよ!」
亜美さんは、湿気を帯びた空気の中でも完璧に巻かれた縦ロールの髪を揺らし、カツカツとローファーの音を響かせて歩いている。教室での宣言通り、私たちに勉強を教える気概に満ちているようだ。
「頼りにしています、亜美先生」
私が持ち上げると、彼女はふわりと長い睫毛を伏せ、喉の奥で「くふふ」と小さく、しかし得意げに笑った。
隣を歩く柚月さんも、そんな亜美さんの愛らしい高ぶりを見て、微笑ましそうに目を細めている。
図書館に到着すると、私たちは重厚な扉を押し開け、静寂に包まれた館内を進んだ。
古書特有の甘く乾いた埃の匂いが、鼻腔をくすぐる。
私たちは足音を忍ばせ、二階にある学習スペースへと向かった。
そこには個別の机が並ぶエリアとは別に、ガラスの壁で仕切られたグループ学習用の個室が用意されている。
曇天の灰色の光が差し込むガラス張りの部屋の中に、すでに見知った二人の姿があった。
「あ、いたいた。玲奈、千里さん」
私がガラス越しに手を振ると、部屋の中にいた佐々木怜奈と石田千里さんが気づき、椅子から立ち上がった。
玲奈が口パクで「こっち!」と元気よく手招きをする。
千里さんもペコリと深々と頭を下げてくれた。彼女たちは用事で遅れることなく、先に部屋を確保して待っていてくれたのだ。
「ありがとう、二人とも。待たせちゃったね」
私は個室のドアノブに手をかけようとした。
しかし、その動きは、背後からかかった突然の重みによって遮られた。
「……ちょっと」
私のブレザーの袖口が、強い力で引かれたのだ。
振り返ると、そこには亜美さんが立ち尽くしていた。
さっきまでの威勢の良さはどこへやら、彼女は蒼白な顔で、私のウール混紡の袖を、指の関節が白くなるほど強く握りしめている。
「どうしたの? 亜美さん」
「『どうしたの?』ではありませんわ……!」
亜美さんは、部屋の中にいる玲奈と千里さんを、まるで未知の捕食者を見るような目で睨みつけると、私をその場から引き剥がすように、書棚の影へと強引に引っ張っていった。
柚月さんも不思議そうに、私たちの後をついてくる。
哲学書の棚が並ぶ、人目につかない薄暗い場所まで来ると、亜美さんは私に詰め寄り、押し殺した低い声で抗議を始めた。
* * *
彼女の吐息がかかるほどの距離。
芳醇なローズの香水と、焦燥感を含んだ汗の匂いが混じり合う。
「聞いておりませんわよ! ……他のクラスの方がいらっしゃるなんて!」
「え? 言ってなかったっけ?」
「聞いておりません! わたくしはてっきり、南藻さんと柚月さんの……私たち三人だけの秘密の会だと思っておりましたのに!」
亜美さんの頬は、林檎のように赤く染まっていた。
怒っているようにも見えるが、潤んだ瞳は明らかに激しく動揺している。
どうやら、彼女は極度の「人見知り」を発動してしまったらしい。
同じクラスで、勝手にライバル認定している私や、穏やかな空気を纏う柚月さんなら平気だが、他クラスの、しかも接点のない生徒がいきなり目の前に現れて、許容量を超えてしまったのだ。
「せ、せっかく……柚月さんと二人で、おバカな南藻さんを徹底的に指導して、涙ながらに感謝されて、優越感に浸ろうと思っておりましたのに……。これでは計画が台無しですわ!」
亜美さんは涙目で私を見上げ、震える唇で本音をぶちまけてきた。
なんて自分勝手で、いじらしい独占欲だろうか。彼女なりに、今日のこの時間を――私との関わりを――楽しみにしていたことが、痛いほど伝わってくる。
「ごめんごめん。でも、あの子たちも本当に困ってるの。玲奈は体育会系で座学が苦手だし、千里さんもおっとりしてるから……」
私が諭すように説明しても、亜美さんは「むぅぅ」と唸り、私のブレザーの裾をぎゅっと握ったまま離そうとしない。
内部生という閉ざされた温室で育ってきた亜美さんにとって、外部生の、しかもタイプの違う生徒と関わるのは、未知の領域へ踏み込む恐怖なのだろう。
「えっと……どうする? 亜美さん、今日はやめておく?」
私が助け船を出すつもりで提案すると、亜美さんはハッとして顔を上げ、濡れた瞳で私を睨んだ。
「なっ……! ここまで来て、敵前逃亡なんてできませんわ!」
「でも、辛いなら無理しなくていいよ」
「い、言ったことはやり遂げます! それが二階堂家の流儀ですわ!」
亜美さんは震える手で拳を握りしめ、自らのプライドを支柱にして、崩れそうな膝を叱咤した。
高慢な自尊心が、対人恐怖をギリギリで上回ったようだ。
「行きますわよ! ……あ、あまりわたくしから離れないでくださいまし!」
そう言って、彼女は私の背後に隠れるように身を寄せ、再び私の服の裾を、今度はすがるように弱々しく掴み直した。
私たちは重い足取りで、グループ学習室の前へと戻った。
* * *
ガラスの向こうでは、玲奈と千里さんが「何かあったのかな?」と心配そうに顔を見合わせている。
私は意を決してドアを開けた。
密閉されていた部屋の空気が動き、私たちの気配が流れ込む。
「お待たせ。……えっと、今日教えてくれる先生を連れてきたよ」
私が亜美さんの背中をそっと押すと、彼女は軋むような動きで一歩前へ出た。
さっきまでの女王様のような態度は見る影もない。借りてきた猫どころか、森で迷子になった震える子鹿のようだ。
「よ、よろ……よろ、し……」
亜美さんが口を開いたが、その声はあまりにも頼りなく、空気に溶けてしまいそうだった。
沈黙が痛い。
衣擦れの音さえ響く静寂の中、彼女は必死に言葉を紡ぐ。
「……よろしくお願いしますわ。……に、二階堂……亜美、です……」
消え入りそうな自己紹介。
いつもなら扇子でも広げんばかりの高笑いと共に登場する彼女を知っている私としては、胸が締め付けられるほどの萎縮ぶりだった。
もしここで冷淡な視線を浴びせられたら、亜美さんの硝子の心臓は砕け散り、そのまま走り去ってしまうかもしれない。
私は祈るような気持ちで、玲奈たちの反応を待った。
しかし、私の心配は杞憂だった。
「わあ! ありがとう! 私、佐々木怜奈! よろしくね、亜美ちゃん!」
玲奈が、曇り空を吹き飛ばすような太陽の笑顔で、真っ直ぐに亜美さんを見た。
そこには一切の邪気がない。
「初めまして、二階堂さん。石田千里です。……わざわざ来てくださって、ありがとうございます。本当に助かります」
千里さんも、おどおどしながらではあるが、丁寧にお辞儀をして、心からの歓迎を示してくれた。
「え……?」
亜美さんが呆気にとられたように顔を上げた。
拒絶されることも、値踏みされることもなく、ただ純粋に「救い手」として受け入れられたことへの驚き。
強張っていた彼女の肩の力が、ふっと抜けていくのがわかった。
柚月さんが、亜美さんの背中にそっと手を添えて微笑んだ。
「さあ、座りましょうか。時間は限られていますから」
「は、はい……」
亜美さんは促されるまま、長机の端の席へと、慎重に腰を下ろした。
勉強会が始まった。
最初は緊張で指先を震わせていた亜美さんだが、テキストを開き、玲奈たちのノートを見た瞬間、その瞳の色が変わった。
「……ちょ、ちょっと待ってくださいまし」
亜美さんが、引きつったような囁き声を漏らした。
「なんですの、この解答は……。この数式、途中で次元が歪んでますわよ……?」
亜美さんの白魚のような指が示したのは、玲奈の数学のノートだった。
「えへへ……なんか計算してたら数字が合わなくなっちゃって」
「『えへへ』ではありませんわ。……貸してごらんなさい」
亜美さんは玲奈の手からペンを奪い取ると、サラサラと流麗な文字で解説を書き込み始めた。
紙の上をペンが滑る音だけが、小気味よく響く。
そこにはもう、人見知りの気配は微塵もなかった。
彼女の中にある「不完全なものを見過ごせない美学」と、本質的な「教えたがりな性質」が、羞恥心を凌駕したのだ。
「ここはこう! 基礎の公式を忘れてどうしますの!」
亜美さんが身を乗り出し、玲奈のノートを覗き込む。
揺れる縦ロールの髪が、玲奈の肩に触れるほどの距離だ。
「なるほど……! そっか、ここで代入するのか!」
玲奈が目を輝かせる。
「すごいです、二階堂さん。先生の説明より分かりやすいかも……」
千里さんも感嘆の溜息をついた。
二人からの純粋な称賛を浴びて、亜美さんの表情に血色が戻り、みるみる華やいでいく。
「ん……ふふ、当然ですわ。優秀なわたくしにかかれば、これくらい訳ありませんことよ」
静寂を乱さないよう抑えられてはいるが、そこには確かな愉悦を含んだ笑いがあった。以前のような刺々しさはなく、満たされた猫が喉を鳴らすような響きだ。
「あら、千里さん。ここの古文単語、意味を取り違えてますわよ。……仕方ありませんわね、教えて差し上げますわ」
「はい、お願いします」
「怜奈さん! 計算ミスが多すぎましてよ! もっと丁寧に書きなさい」
「はーい、亜美先生!」
気がつけば、亜美さんは完全にこの場の支配者となっていた。
言葉は相変わらず高飛車だし、素直じゃない。
けれど、彼女は一生懸命に、違うクラスの「出来の悪い生徒たち」の面倒を見ている。柚月さんと私は顔を見合わせて、こっそりと笑みを交わした。
(よかった。亜美さん、馴染めてる)
自称ライバルで、プライドの高いお嬢様。
けれど、こうして一つの机を囲めば、彼女もまた普通の、少し寂しがり屋な女の子なのだ。
図書館の窓の外は重たい鉛色の空だったけれど、私たちのテーブルの周りだけは、温かなランプが灯ったような、穏やかな空気に包まれていた。
こうして、二階堂亜美という強力かつ愛すべき味方を加え、私たちのテスト勉強は熱を帯びて動き出したのだった。




