第37話 祭典の裏側と、予期せぬ救い手
六月の晴れ間。
朱雀院咲夜さまの愛馬「スノーホワイト」との夢のようなひとときを終え、私たちは更衣室でジャージから制服へと着替えを済ませていた。
汗ばんだ肌を制汗シートで拭い、再びウール混紡のブレザーに袖を通す。
身体のラインを隠す堅牢な生地と、少し短めのチェックスカートが、私を「凰華女学院の生徒」という枠組みへと引き戻していく。
帰り道を歩く私、佐々木怜奈、石田千里、そして東雲柚月さんの四人の頬には、まだ乗馬の興奮による紅潮が残っていた。
「咲夜さま、すごかったねえ……。あの手綱さばき、本物の騎士みたいだった」
怜奈が頭の後ろで手を組み、うっとりと初夏の空を見上げる。
「う、うん……。優しくて、強くて……本当に王子様だった……」
千里さんも上気した顔を両手で包み込み、何度も深く頷いている。
私たちは互いの吐息が触れ合うほどの距離で感動を共有し、ふわふわとした足取りで石畳を踏んでいた。
フローラリアという特権的な世界に身を置き、寵愛を受けることの陶酔を、改めて噛み締めていたのだ。
しかし、そんな浮かれた空気を、柚月さんの一言が鋭利な刃物のように切り裂いた。
「ところで皆さん、期末テストの勉強は進んでいますか?」
ピタリ、と私と怜奈と千里さんの足音が止まった。
一陣の風が吹き抜け、木々がザワザワと不穏な音を立てる。
柚月さんは小首を傾げ、不思議そうに私たちを見回した。
「お披露目のダンスパーティーが終われば、すぐにテスト期間に入りますよね? 学生の本分として試験勉強に集中しなければならない時期ですが……」
その言葉は、冷や水となって頭上から降り注ぎ、背筋を凍り付かせた。
そうだ、私たちはただの恋する乙女ではない。
厳格な規律に縛られた学生だったのだ。
ここ最近、パートナー契約やダンスの特訓、他派閥との情事にも似た交流など、刺激的な出来事に溺れすぎていて、完全に思考の彼方へ抜け落ちていた。
凰華女学院は進学校だ。
赤点を取れば補習はもちろん、パートナーとしての活動にも支障が出るかもしれない。月華さまに呆れられる光景が脳裏をよぎり、胃の腑が冷たくなる。
「や、やばい……! 全然やってない!」
怜奈が頭を抱えて悲鳴を上げ、その場にしゃがみ込んだ。
「わ、私も……。お茶やダンスのお稽古と、咲夜さまのことばかり考えてて……」
千里さんの顔からサーッと血の気が引いていく。
そして私も、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
月華さまの小説のモデルとして心身を捧げたり、ダンスのステップを身体に叩き込んだりすることに必死で、教科書など一度も開いていない。
「柚月さんは……?」
「私は、毎日予習復習をしておりますので、特に問題はありませんが」
柚月さんが涼しい顔で答えた。
その完璧さが、今は少しだけ恨めしい。
私たちは顔を見合わせた。
このままでは破滅だ。
* * *
私たちは翌日から、放課後に集まって勉強会を開くことをその場で決意した。
しかし、柚月さん一人に三人分の指導を任せるのは荷が重すぎる。誰か、全体を俯瞰して管理してくれる指導役が必要だった。
翌日の昼休み。
私と柚月さんは、学級委員長の高橋琴音さんの席を訪ねた。
教室の喧騒から切り離されたように、彼女の席だけ静寂が漂っている。
黒髪のミディアムショートに銀縁眼鏡をかけた琴音さんは、昼休みだというのに分厚いファイルを広げ、万年筆を走らせていた。
カリ、カリ、カリ……。
硬質なペン先が紙を引っ掻く音だけが、規則正しく響く。
そこには一切の迷いがない。
「琴音さん、少しお願いがあるのだけれど」
私が恐る恐る声をかけると、ペンの音がピタリと止んだ。
琴音さんはゆっくりと顔を上げ、ずれた眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、冷ややかな視線をこちらに向けた。
「……何かしら、南藻さん。改まって」
「実は……放課後、私たちに勉強を教えてほしくて。期末テストが近いでしょ? ダンスの練習で遅れてる分を取り戻したくて……」
私が手を合わせて頼み込むと、琴音さんは少し驚いたように切れ長の目を見開き、それから呆れたように長く、重たい溜息をついた。
「……南藻さん。貴女、意外と図太いのね」
「えっ?」
「いえ、頼ってくれるのは嬉しいのだけれど……。今は無理よ」
琴音さんは手元のファイルを、私たちに見せつけるように指で叩いた。
そこにはびっしりとスケジュールや備品リスト、予算案が幾何学的な美しさで書き込まれていた。インクの鉄っぽい匂いが漂ってくるようだ。
「放課後は生徒会の仕事で手一杯なの。もうすぐお披露目のダンスパーティ――『結花の披露会』があるでしょう? その準備と運営は、私たち生徒会が担当しているのよ」
私はハッとして、息を呑んだ。
『結花の披露会』。
それは、今年結成されたカップルがお披露目される晴れ舞台だ。
私たちがダンスの練習だけに熱中できていたのも、昨日咲夜さまと優雅に乗馬を楽しめたのも、すべては裏で琴音さんたちが、こうして泥臭い実務を完璧にこなしてくれているからなのだ。
自分たちのお披露目の準備をしてくれている人に、さらに自分の勉強の面倒まで見させようだなんて。琴音さんのストイックな横顔を見て、自分の浅はかさがどうしようもなく恥ずかしくなった。
「あ、それは……ごめんなさい! 私、自分のことばっかりで、琴音さんがそんなに忙しいなんて……」
私が慌てて謝罪し、柚月さんも深く頭を下げた。
「申し訳ありません、琴音さん。ご迷惑をおかけしました」
私たちが身を縮こまらせていると、琴音さんの纏う鋭利な空気が、ふっと緩んだ。
「いいのよ。謝らないで」
顔を上げると、琴音さんは眼鏡の奥の瞳を細め、穏やかな表情を浮かべていた。
「ダンスの練習もハードなはずなのに、勉学のことも忘れないで、今から対策しておこうという姿勢は立派だわ。……少し見直したわよ、南藻さん」
「え……琴音さん」
「貴女は流されやすいところがあるけれど、やるべきことはやろうとする子だものね。今回は協力できないけれど、応援しているわ。頑張ってね」
琴音さんの言葉が、胸にじんわりと温かく響いた。
外部生として、お嬢様学校という異界で苦労の多い彼女。
その彼女に、同じ外部生である私が少しでも認められたことが、何よりも嬉しかった。
彼女はただ事務的な委員長ではない。
私たちのことをよく見て、陰ながら支えてくれている仲間なのだ。
「ありがとうございます。……私たちだけで、なんとかやってみます」
私は力強く頷いた。
琴音さんの貴重な時間をこれ以上奪うわけにはいかない。自分たちの力で乗り越えなければ。
私たちは琴音さんに礼を言い、再びペンの音が響き始めた席を離れた。
しかし、現実は厳しい。
柚月さんと二人で席につきながら、私は小さく溜息をついた。
「やっぱり、私たちだけでやるしかないわよね。柚月さんに負担をかけちゃうけど……」
「いえ、私も全力を尽くしますが、怜奈さんと千里さんの苦手分野をカバーしきれるかどうか……」
私たちが途方に暮れていた、その時だった。
ふわり、と芳醇なローズの香水が鼻先をかすめた。
「仕方ありませんわね。わたくしが面倒を見てあげますわ」
背後から、聞き覚えのある声がかかった。
* * *
振り返ると、そこには豪奢な縦ロールの髪を揺らし、腕組みをした二階堂亜美さんが立っていた。
彼女は内部生のお嬢様で、私のことを一方的にライバル視している人物だ。
しかし今の彼女は、私たちと目を合わせようとせず、そっぽを向くように廊下の窓を見つめている。
「亜美さん……?」
私が驚いて名前を呼ぶと、亜美さんはフンと鼻を鳴らし、組み上げた腕の指先を苛ただしげに動かした。
「琴音さんとの立ち話、聞こえてしまいましたの。……勉強を教えてくれる人がいなくて困っているようですわね?」
「う、うん。まあ……」
「でしたら、わたくしが教えて差し上げてもよろしくてよ。内部生のわたくしにかかれば、テスト対策など容易いことですわ」
亜美さんが自分から申し出てくれるとは意外だった。
彼女はいつも私に対抗意識を燃やしているはずなのに。
「え、いいの? わざわざ敵に塩を送るようなことして」
私が尋ねると、亜美さんは一瞬言葉に詰まり、バツが悪そうに唇を噛んだ。
長い睫毛が不安げに揺れる。
「こ、困っている友人を、放ってはおけませんからね! ……それに」
「それに?」
「……前回の勉強会は、思いのほか……楽しかったですし」
亜美さんは最後の方を、聞き取れるかどうかの小声で呟いた。
上気した頬を隠すように俯く彼女の耳は、真っ赤に染まっている。
そういえば、以前彼女と勉強した時、喧嘩腰ではあったけれど、賑やかで楽しかった記憶がある。
亜美さんはきっと、またあのような時間を共有したかったのかもしれない。
素直に「混ぜて」と言えず、教室の隅で話しかけるタイミングをじっと待っていたのだろうか。
その孤独なプライドがいじらしくて、私は思わず口元を緩めた。
「ありがとう、亜美さん。助かるわ」
私が笑顔で礼を言うと、亜美さんはパッと顔を上げ、「ふふん」と得意げに胸を張った。
「感謝なさい! では、今日の放課後、図書館に集合ですわよ!」
こうして、私たちは強力な助っ人を得ることができた。
琴音さんに認められた誇らしさと、亜美さんの不器用な優しさ。
期末テストという無機質な壁を前に、私たちの間に、湿度を帯びた新しい連帯感が生まれているのを感じた。




