第36話 陽光の王子と、白馬の誘惑
六月に入り、長く降り続いた雨がようやく上がった、奇跡のような快晴の日だった。
湿気を孕んだ土の匂いが立ち昇る中、私たちは指定の体操着姿で、凰華女学院の広大な敷地内を歩いていた。
お嬢様学校の正装である制服とは違い、身体のラインを無防備に晒すジャージ姿は、どこか頼りなく、それゆえに奇妙な背徳感を伴う。
「ごめんね、みんな。急に誘っちゃって……」
隣を歩く石田千里さんが、申し訳なさそうに身を縮こまらせた。
彼女はレッドピオニーのトップ、朱雀院咲夜さまのパートナーだ。
黒髪のおかっぱに、小動物のような愛らしさを持つ彼女は、いつも捕食者を恐れるように、おどおどと視線を彷徨わせている。
「ううん、気にしないで。私も寮で暇してたから、ちょうどよかったよ」
私が答えると、もう一人の友人が、弾むような足取りで続いた。
「そうだよ千里! むしろ感謝したいくらい。乗馬なんて、そうそう体験できるもんじゃないしね!」
陸上部の佐々木怜奈だ。
ブラックリリーの早乙女楓さまのパートナーである彼女は、太陽の下が誰よりも似合う。準備運動を兼ねた軽やかなステップを踏むたびに、ジャージ越しに引き締まったふくらはぎの筋肉が躍動するのが見て取れた。
「ふふ、でも本当にすごいですわね。咲夜さまから乗馬のお誘いなんて――」
おっとりと同意したのは、私のルームメイトであり、ブルーローズの白鳥聖羅さまのパートナーである東雲柚月さんだ。
今日の集まりの発端は、千里さんからの誘いだった。
なんでも、咲夜さまが「天気がいいから馬に乗る。千里もお友達と一緒においで」と声をかけてくれたらしい。
フローラリアのトップたちは、パートナーの交友関係にも寛大だ。
……いや、私の絶対的な主人である有栖川月華さまのように、それを「観察対象の生態調査」としか見ていない場合もあるけれど。
昨日の月華さまとの「濃密すぎるお芝居」で神経を摩耗しきっていた私にとって、この突き抜けるような青空は、眩しすぎるほどの気分転換だった。
私たちは木々のトンネルを抜け、乗馬クラブ顔負けの専用エリアへと到着した。
「おーい、みんな。よく来たね」
白い柵の向こうから、大気を震わせるような爽やかな声が響いた。
顔を上げると、そこには絵本の世界が現実に侵食してきたかのような光景があった。手入れの行き届いた美しい白馬に跨り、颯爽と駆け寄ってくる一人の「王子様」。
レッドピオニーのトップ、朱雀院咲夜さまだ。
赤みがかった茶色のショートヘアが風になびき、凛々しいつり目が太陽の光を反射して琥珀色に輝いている。
彼女は私たち体操着の生徒とは違い、身体に吸い付くようなタイトな乗馬服に身を包んでいた。革のベルトが引き締まったウエストを強調し、長い脚は黒いブーツに包まれている。
ヒヒーン、と馬がいななき、蹄が乾いた土を叩く。
その振動が、私たちの足裏に直接響いた。
「さ、咲夜さま……!」
千里さんがパッと顔を輝かせ、上気した頬で駆け寄る。
咲夜さまは軽やかな身のこなしで馬から降りると、チャリ、と拍車の音を立てて地面に立った。
手綱を近くに控えていた専門スタッフに預ける動作一つにも、武人のような無駄のなさが宿る。
「今日は絶好の乗馬日和だ。私の愛馬、スノーホワイトも走りたがっていたからね」
近づくと、強烈な「陽」の匂いがした。
乾いた藁、高価な革、馬の体臭、そして咲夜さま自身から発せられる熱気。
月華さまの部屋に漂うインクと百合の冷たい静寂とは対極にある、圧倒的な生命力の匂いだ。
「千里の友達だね。来てくれてありがとう。今日は楽しんでいってくれ」
咲夜さまは私たち一人一人に、人懐っこい、しかし抗いがたい引力を持った笑顔を向けてくれた。
「は、はじめまして! ブラックリリー所属、一年の佐々木怜奈です!」
怜奈が直立不動で挨拶すると、咲夜さまは「陸上部の子だね。こうして話すのは初めてかな。……うん、いい筋肉の付き方をしている」と笑って、彼女の肩をポンと叩いた。
「あ、ありがとうございます……!」
叩かれた肩を押さえるようにして、怜奈がわかりやすく赤面し、硬直する。
憧れの先輩に触れられた熱が、ジャージ越しに伝染したようだった。
続いて柚月さんと私も挨拶をする。
「久しぶりだね南藻ちゃん。……あの人の相手は、大変だろう?」
咲夜さまは茶目っ気たっぷりに、片目を閉じてウインクをした。
その仕草があまりにも自然で、嫌味が微塵もない。
月華さまの「陰」の美しさとは対極にある、直視すれば網膜が焼かれそうなほどの「陽」のオーラ。
私は眩暈を覚えた。
* * *
「よし、せっかくだから一人ずつ乗ってみようか。私がサポートするから安心していいよ」
咲夜さまの提案で、私たちは順番に乗馬体験をさせてもらうことになった。
まずは怜奈からだ。
運動神経の良い彼女は、咲夜さまの手をわずかに借りただけで、ひらりと馬上に跨った。
「視界が高い! すごいですね。これ!」
「ああ、いい体幹だ。君ならすぐに一人で乗れるようになるよ」
咲夜さまに褒められ、怜奈はデレデレになりながら運動場を一周した。
次は柚月さん。
彼女は少し怖がりながら、おずおずと巨大な生き物に近づいた。
「大丈夫だよ、怖くない。私がついている」
咲夜さまは柚月さんの手を取り、腰を支えて優しく持ち上げた。
「きゃっ……」
「力はいらない。私に身を任せて」
まるで姫君を扱うような丁寧な所作。
柚月さんが馬上でバランスを崩しそうになると、咲夜さまはすぐに身体を密着させて支えた。
硬質な乗馬服と、柚月さんの柔らかなジャージが擦れ合う。
普段は落ち着いている柚月さんが、耳まで真っ赤に染め、長い睫毛を伏せて震えているのが見えた。
そして、私の番が回ってきた。
「おいで、南藻ちゃん」
咲夜さまが手を差し伸べてくる。
その手は大きく、節くれ立っており、掌は乗馬によるマメで固くなっていた。
恐る恐る重ねた私の指先は、緊張による手汗で湿っていたが、咲夜さまは気にせず力強く握りしめてくれた。
熱い。
火傷しそうなほどの体温だ。
私は鐙に足をかけ、身体を持ち上げてもらった。
一瞬の浮遊感。
咲夜さまの腕が私の腰に回され、ジャージの薄い生地越しに、指先が食い込む感触があった。
ドサリ、とスノーホワイトの背中に収まる。
高い。
想像以上の高さに足がすくむ。
そして何より、太腿の内側に伝わる馬の体温――三十八度という高い熱――が生々しい。
「わ、わっ……」
「大丈夫。リラックスして」
私が強張っていると、咲夜さまが私の左側に立ち、右手を私の太腿のあたりに、左手で手綱を握る私の手を包み込むように添えた。
近い。
咲夜さまの顔がすぐ近くにあり、首筋から漂う太陽の匂いと、微かな汗の匂いが、鼻腔をくすぐる。
下からは馬の熱、横からは咲夜さまの熱。
そして私自身の体内から湧き上がる火照り。
三つの熱源に挟まれ、ジャージの中の肌がじわりと汗ばんでいくのがわかる。
「背筋を伸ばして。……そう、いい子だ」
耳元で囁かれる甘いハスキーボイス。
その声は鼓膜を震わせるだけでなく、項の産毛を一本一本逆立たせるような、物理的な響きを持っていた。
月華さまの冷たく鋭い声が氷の刃なら、咲夜さまの声は溶けた蜜だ。
身体の芯から骨抜きにされてしまいそうになる。
咲夜さまが手綱を引き、馬がゆっくりと歩き出す。
揺れるたびに、支えてくれている咲夜さまの腕に、私の太腿や腰が触れる。
その腕は陸上部仕込みの鋼のような筋肉で覆われていて、頼もしさが半端ではない。私の柔らかな肉体が、咲夜さまという強固な器に預けられ、形を変えていくような錯覚。
(なに、これ……心臓が、うるさい)
月華さまに対する、恐怖混じりの服従心とは違う。
もっと原始的な、雄々しい力強さに対する雌としての本能が、激しく警鐘を鳴らしている。
咲夜さまが見上げて微笑みかけるたびに、私は自分の顔が沸騰し、思考が白く溶けていくのを感じた。
「風を感じるだろう? 君は素直だから、馬も安心しているみたいだ」
「は、はい……!」
私はもう、上擦った声で頷くことしかできなかった。
パートナーである千里さんが、羨ましそうに、でも誇らしげにこちらを見ているのが視界の端に入ったが、気を使う余裕すらなかった。
全員の体験が終わり、私たちは芝生の上にへたり込むように座り込んで休憩をとった。スタッフの方が冷たいドリンクを配ってくれる。
咲夜さまは馬の手入れをするために少し離れた場所にいたが、その逞しい背中を眺める私たちの空気は、来る時とは明らかに色を変えていた。
「……かっこよかったね、咲夜さま」
怜奈が夢見心地で、ぼんやりと呟いた。
「ええ。なんていうか、本物の王子様でしたわ……」
柚月さんも頬の赤みが引かず、ぼうっと遠くを見つめている。
そしてもちろん、私もだ。
私は結露したスポーツドリンクのボトルを首筋に当て、熱くなった身体を冷やそうと努めた。
胸の奥で、月華さまの冷ややかな顔が一瞬ちらつく。
昨日あんなに「一筋です」と宣言し、抱きしめられて涙したばかりなのに、今日になって他の「王子様」と密着し、あまつさえときめいてしまっている。
これは浮気だろうか?
許されない不貞だろうか?
(……いいえ、違うわ)
私は心の中で必死に言い訳の城壁を構築した。
これは不可抗力だ。
あんな素敵なロケーションで、あんな完璧な王子様に物理的に腰をホールドされれば、誰だって心拍数が上がってしまう。これは生物としての正常な生理反応であって、忠誠心の揺らぎではない。
そう、これは台風や地震のような、抗いようのない天災に遭ったようなものなのだ。……けれど、私のジャージの背中には、まだ咲夜さまの手の熱い感触が残っていて、それがどうしようもなく後ろめたかった。
「みんな、楽しんでくれたかな?」
戻ってきた咲夜さまが、逆光を背負い、眩しすぎる笑顔で私たちに問いかけた。
手袋を外し、汗を拭う仕草ひとつとっても、いちいち映画のワンシーンのように画になる。
「はい! 最高でした!」
私たちは声を揃えて返事をした。
その声が、情事の後のように甘く上擦っていたことに、鈍感な王子様は気づいただろうか。
月華さまの「陰」の支配とはまた違う、咲夜さまの「陽」の引力。
フローラリアという組織の層の厚さと、底知れない魅力を、私は白馬の上で身を持って――物理的に――思い知らされた休日となった。




