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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第二章

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第35話 百合の檻

 有栖川月華さまの私室。  


 豪奢な調度品に囲まれた密室で、私は一枚のプロット(構成案)を、震える指先で持たされていた。


「設定はこうよ。主人公は、お嬢様学校に転入してきたばかりの無垢な下級生。彼女には憧れの『お姉さま』が二人いるの」  


 月華さまは、まるで解剖学の講義でもするかのように、感情の乗らない淡々とした声で説明を始めた。


「一人は、優しくて甘やかしてくれる先輩。主人公はその先輩と親密になり、安易な絆を深めていくわ。……けれど、主人公にはもう一人、絶対的な主従関係にある『本命のお姉さま』がいる」


 私はごくりと喉を鳴らした。

 乾いた音が、静寂に大きく響く。  


 その設定は、あまりにも「今」の私の状況――聖羅さまや詩音さまに溺愛(?)され、月華さまに仕えている現状――に酷似していたからだ。


「今回のシーンは、その『本命のお姉さま』が、主人公を呼び出すところから始まるわ。主人公は他の先輩と仲良くしていたことに、薄暗い後ろめたさを感じている。そこへ、本命のお姉さまが独占欲を露わにして迫る……という場面よ」


「あ、あの……これ、モデルは……」


「あくまでフィクションよ。何か文句でも?」  


 月華さまは涼しい顔で言い放った。

 長い睫毛の下にある瞳は、私の動揺を楽しんでいるようにさえ見える。  


 私がブルーローズへ通っていたことを知った上で、これを書いているのだろうか……? 

 これを「演じろ」というのは、ある種の意趣返し――それとも、作家としての純粋で残酷な探究心なのか。


「配役は、私が『本命のお姉さま』。貴女が『主人公』よ。……さあ、立ちなさい」  


 月華さまに促され、私は覚悟を決めてソファから立ち上がった。


「では、スタート」


 月華さまの合図と共に、部屋の空気が一変した。  


 彼女はゆらりと、私に一歩近づいた。  


 百九十三センチという、規格外の長身。天井の照明が彼女の背後に隠れ、私の視界は一瞬にして彼女の落とす影に覆われた。


 私が見上げなければ顎のラインさえ見えないほどの高低差が、物理的な「壁」となって私を圧迫する。


「……遅かったわね。どこに行っていたの?」  


 月華さまが演じる「お姉さま」の声は、低く、甘く、そして背筋が凍るほど冷ややかだった。


「あ、あの、それは……」  


 私は台本にある通り、言葉を濁して視線を逸らす。


 次の瞬間、視界が漆黒のシルクに染まった。  

 月華さまが長い両腕を伸ばし、私を抱きしめたのだ。  


 華奢に見えて、鋼のようにしっかりとした骨格と筋肉を感じさせる身体。

 私の顔は、ちょうど月華さまの胸元、心臓の鼓動が響く位置に埋められた。  


 逃げようとしても、背中に回された腕は鉄の錠前のように動かない。  


 フローラリアの制服であるなめらかなシルクと、私の安っぽいウールの制服が擦れ合い、カサリと衣擦れの音を立てる。  


 絹糸のような黒髪が私の頬に触れ、濃厚な百合の香りが、逃げ場のない檻となって私の鼻腔を満たした。


「嘘をついても無駄よ。……他の女の匂いがするわ」  


 頭上から降ってくる囁きに、背筋がぞくりと震えた。  


 それは演技なのか、それとも本心なのか。  


 月華さまの腕に力がこもる。

 痛いほどではないが、決して逃がさないという絶対的な意志。肋骨がきしむほどの圧迫感が、なぜか心地よいと錯覚してしまう。


「貴女は誰のもの? 私の許しなく、よそ見をしていいと思っているのかしら」  


 身体の芯に直接響くような低い声が、私の心臓を鷲掴みにする。  

 私は主人公になりきらなければならないのに、今の状況が現実とリンクしすぎていて、早鐘を打つ動悸を抑えることができなかった。  


 怖い。


 けれど、この百九十三センチの絶対的な「檻」に閉じ込められ、外界から遮断されることに、泥のような安堵も覚えてしまう。


「……叱ってあげないと、分からないようね」  


 月華さまの細長い指が、私の背骨をなぞるように、ゆっくりと這い上がった。


 月華さまは私を抱きしめたまま、演技を中断することなく、不意に演出家の顔に戻って問いかけた。


「……さて。今のこの瞬間の、主人公の心情を詳細に答えなさい」


「えっ……」


「台本には『動揺する』としか書いていないけれど、それじゃあ描写が浅いのよ。実際に今、この状況に置かれている貴女なら分かるでしょう? 具体的になにを感じ、どう心が揺れ動いているのか。……言語化しなさい」


 それは無茶な要求だった。  

 至近距離で月華さまの体温に包まれ、見下ろされながら、冷静に分析などできるわけがない。


「えっと、その……怖くて、でも……」  


 私がしどろもどろになっていると、ノックの音もなく、部屋の扉が静かに開いた。


「失礼いたします、月華お嬢様」  


 入ってきたのは、専属メイドの木下雪菜さんだった。  

 

 彼女は私たちが抱き合っている――正確には、私が巨大な月華さまに一方的に捕獲されている――異様な光景を見ても、眉一つ動かさなかった。


「執筆のお供に、紅茶をご用意いたしました」


 カチャリ、コトリ。  


 雪菜さんは手際よくローテーブルにティーセットを並べていく。

 静寂の中に、白磁のカップとソーサーが触れ合う硬質な音だけが響く。  


 私は月華さまの腕の中から、助けを求めるように雪菜さんに視線を送った。


(雪菜さん、止めて……! この状況、恥ずかしすぎます!)


 しかし、雪菜さんは「お仕事、熱心でいらっしゃいますね」と、能面のように穏やかな微笑みを浮かべるだけだった。  


 彼女は月華さまの創作活動を誰よりも尊重している。

 この状況を邪魔するつもりなど毛頭なく、むしろ私が演技に集中できるよう、空気のように部屋の隅へ控えようとしていた。  


 第三者の視線。


 しかも、私のことをよく知る雪菜さんが見ている前で、この背徳的な問いに答えなければならない。


 頬が火がついたように熱くなる。

 逃げ場は完全に塞がれていた。


「ほら、雪菜も待っているわ。早く続きを」  


 月華さまが催促するように、抱きしめる腕にぎゅっと力を込めた。

 豊満な胸の弾力が、私の顔に押し付けられる。


「主人公は、他の女のところへ行っていた自分を、本命のお姉さまに咎められてどう思ったの? 嫌悪? 恐怖? それとも――」


 私は観念した。  


 月華さまはあくまで「創作の取材」として聞いている。

 私がここで何を言おうと、それは「主人公の役作り」として処理されるはずだ。  


 そう自分に言い聞かせなければ、羞恥心で舌が麻痺してしまいそうだった。


「……主人公は……」  


 私は月華さまの胸元に顔を埋めたまま、あの方の匂いを深く吸い込み、呼吸を整えた。


「後ろめたさを、感じています」  


 絞り出すような声は、震えていた。


「優しい先輩と過ごす時間は楽しくて、癒やしで……。でも、心のどこかでずっと、本命のお姉さまのことを考えてしまっていて……」


 一度口を開くと、せき止めていた感情が、熱を持って溢れ出してきた。  


 これは役の台詞だ。

 私の言葉ではない。


 そう思い込もうとしても、言葉は私の本心そのものだった。


「本命のお姉さまは怖くて、厳しくて、いつも緊張を強いられます。でも……」


「でも?」


「……その厳しさに触れると、自分が誰の所有物ものなのか、はっきりと自覚できて……安心するんです」  


 視界が潤み、月華さまの黒いドレスが滲む。


「叱られることすら、愛されている証拠なんじゃないかって、期待してしまって……」


 そこまで言って、私は耳の裏まで沸騰するような熱を感じた。  


 雪菜さんが聞いている前で、なんてことを言っているのだろう。

 これではまるで、私が月華さまに叱られたくて浮気をした、どうしようもないマゾヒストみたいではないか。  


 けれど、嘘はつけなかった。

 月華さまの鋭い観察眼と、私を閉じ込めるこの体温の前で、取り繕った言葉などすぐに見抜かれてしまう。


 重たい沈黙が落ちた。  


 月華さまはしばらく私を抱きしめたまま動きを止めていたが、やがて満足そうに、私の頭上で細く息を吐いた。


「……いいわ。とてもリアルね」


 ふわり、と月華さまの拘束が緩んだ。  


 私を包んでいた圧倒的な体温が離れていく。


「その歪んだ依存心、矛盾する感情の揺れ……採用よ。今の言葉、そのまま使わせてもらうわ」  


 月華さまは私から離れると、余韻に浸る様子もなく、すぐにデスクへと向かい、万年筆を走らせ始めた。  


 その切り替えの早さと冷淡さが、私を現実に引き戻す。  

 私は膝の力が抜け、へなへなと、その場に座り込んでしまった。


「お疲れ様です、南藻さま」  


 雪菜さんが絶妙なタイミングで、私の前に紅茶を差し出してくれた。


「……あ、ありがとうございます」  


 私は震える両手でカップを受け取った。


 月華さまはもう、物語の世界に没頭している。

 カリカリと紙を削る音だけが、部屋に響く。  


 彼女が求めていたのは、あくまで「物語の素材」だったのだ。

 私の身体も、恥ずかしい告白も、彼女にとっては良質なインクの一滴に過ぎない。  


 その事実に少しの寂しさと、身体の奥が疼くような奇妙な安堵を感じながら、私は冷めないうちに紅茶を口に運んだ。  


 ただの演技指導だったはずなのに、心の中をすべて暴かれ、犯された後のような、甘く気だるい疲労感が残っていた。

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